1901年
9月7日 北京議定書(義和団の乱)調印。この際、蘆溝橋近辺も含む日本軍の駐兵権が認められた。
1929年
6月27日 ケロッグ=ブリアン条約(不戦条約)を大日本帝国批准
1932年
3月1日 満洲国建国
1933年
5月31日 塘沽停戦協定締結。(柳条湖事件に始まる満州事変の軍事的衝突は停止)
1935年
6月10日 梅津・何応欽協定締結
6月27日 5項からなる土肥原・秦徳純(中華民国代表)協定が締結
1937年
7月4日 中共中央は、国共合作、国難突破宣言発表
7月7日 蘆溝橋にて支那軍の方面より発砲音有り。
7月8日 一旦双方退却の協定が出来るが、支那側退却せず。龍王廟、長辛点附近より支那軍攻撃のため応戦。
7月9日 停戦協定を蹂躙して再度支那兵の襲撃。
7月10日 中央軍四カ師、河南北部省境に集中 公電有
7月10日 夜 龍王廟占領
7月10日 支那中央軍の河南省進出(梅津・何応金協定違反)
7月11日 香川中将支那駐屯軍司令官に新任 立川飛行場より日本を発つ
7月11日 近衛首相北支派兵決意
7月11日 駐屯軍参謀長橋本少将が、北平を訪れ冀察首脳部と交渉。
7月11日 29軍側蘆溝橋より撤退。日本軍も続く。
7月11日 劉峙第二路軍・炳寵助第40軍の中央軍続々北上
7月12日 永定右岸とより平漢線に配備、蘆溝橋の北2キロ附近に進出。日本軍へ射撃を開始。
7月12日午前11時 南京に於、日高参事、外交部王寵惠部長と会見。兵の撤退と防止を要求
7月12日午後8時 支那側董道寧日本科長、文書にて『日本軍、冀察当局の約諾などは、容認出来ない。』と通告。
7月12日 蒋介石直径軍及び順直径軍の鄭州を中心に集結、広範なる動員を下令
7月13日 馬村事件 馬村にて不法射撃をうけ日本軍3名死亡
7月13日 大紅門事件 北平南苑区(現豊台区)の大紅門で中国軍第38師に日本兵が襲撃された事件
7月14日 団河付近で日本軍の騎馬兵が中国兵に殺害
7月12日〜14日 蒋介石、共産軍と抗日人民戦線正式結成
7月13日 米国、英国の支那事変解決へ向けての共同提議を拒絶
7月15日 北支 支那・北平西南側永定河岸に増兵陣地増強
7月15・16日 駐支英大使ヒューゲッセン氏 支那外交部 王寵惠部長及び日本国南京領事 日高参事と会見
7月16日 米国ハル国務長官、米国不干渉声明
7月16日 北支 平漢線、津浦線、平綏線に沿う地区、隴海線以北、山西省境以東の地区に兵力約30個師集中
7月17日 南京駐在武官大城戸大佐 決意公文書を以て通告
7月17日 南京領事日高参事官愛決解党を求める最後的覚書を支那側に手交
7月17日 蒋介石「最後の関頭」談話発表
7月18日 冀察自治政府、宋哲元、張自忠、張允榮、謝罪するも強硬派円満解決派と争いがあり混乱。
7月19日 南京蒋介石権からの回答 1第三国の朝廷 2双方の同時軍事行動の停止 3冀察自治政府との交渉は認めない
7月19日 蒋介石前線へ抗日司令
7月19日 命令 29軍 平津地方の防衛
7月19日 命令 山西軍 平綏線沿線に集結
7月19日 命令 商震軍2万、萬福麟軍2万、厖炳助軍1万、中央軍12万 保定方面集結
7月19日 命令 山東軍5万、中央軍10万で津浦線・膠済線の防衛
7月19日 命令 蘆溝橋近辺 14万4千集結
7月18日 日本軍の偵察機一斉射撃による攻撃を受ける
7月19日 蘆溝橋にて支那側より攻撃開始
7月19〜20日 支那駐屯軍自衛行動発動 第29軍へ反撃
7月20日 廟議 自衛的適切の処置を講ずることを決議。
7月20日 17日からの交渉の回答もなく、南京政府との交渉打ち切り
7月21日 廣田外相、許世英駐日大使会談 支那側の軍撤退を求めるが決裂。
7月21日 29軍の一部撤退せず。宋哲元午後8時に撤退するむね誓約
7月22日以来37師が撤退せず陣地構築を続ける
7月25日 廊坊事件発生 26日迄に廊坊駅周辺防衛
7月26日 廊坊駅周辺 三輪航空部隊支那兵営など支那軍拠点を空爆
7月26日 香月司令官 29軍宋哲元へ撤退の要求の最後通達
7月26日 廊坊事件の詳細
7月27日 緊急臨時閣議 居留民の保護・臨機に於ける処置を講ずる決定 応懲=自衛
7月27日 蒋介石政権の嘘の声明「(現地協定について)平和貫徹の徴衷から敢えて反対しなかった」
7月27日 夜蒋介石声明 一切の責任は日本側にあり
7月27日 第29軍 宋哲元辞表
7月27日午前 北平居留全邦人に引き揚げ命令
7月28日午前0時 29軍へ最後通牒と声明発表
7月28日 香川司令官布告&華北真正救国自治会告知分散布
7月28日 29軍への攻撃開始 支那軍拠点空爆占領
7月28日夜 通州事件発生
7月28日 通州反乱の冀東保安隊の残虐詳細
7月28日 近衛首相談話 日支の抗争は亜細亜の力を弱める
7月29日午前2時20分 天津市支那軍侵入市街戦。市内支那軍拠点空爆後制圧占領。
7月29日 永定河左岸平清地方一帯完全占領
7月29日 宋哲元29軍、保安隊など北兵より撤退
7月29日 冀東地区(塘沽、大沽、通州)と制圧
7月29日 中支 海軍重大決意表明
7月29日 宛平・河北省保定を占領
7月30日 通州に増援部隊到着
7月30日 北平(臨時)治安維持改正立
7月31日 天津市治安維持会立ち上げ
7月31日 蒋介石・汪兆銘 抗日と長期抗戦とテロ活動を宣言。
7月31日 ソ連策動 ソ支密約
8月1日 天津治安維持活動開始
8月2日 天津市内掃討完了
8月2日 白崇禧が南京入
8月2日 29軍平漢津浦沿線再集結 143師平綏線 中国軍張家口に進入
8月3日 各地域軍閥首領南京に集結 国防会議の為に
8月4日 北支 北平(北京)入城占拠 大閲兵式
8月4日 陜西共産軍も平津地方の後方攪乱工作に参加
8月4日 中央執監全体会議 四中全会が開催
8月5日 青島で朝鮮半島人金會信襲撃される
8月5日 漢口に於いても抗日が猛烈。日本人居留民避難し始める。
8月6日 支那全国国防会議開催 中央の馮玉祥の主戦論、何応欽の自重論で意見の決着が付かず。
8月5日6日 一般人南京より退去。
8月6日 4,5,6日と全市を防空隊背のために黒塗りに
8月8日 漢口での領事含め全在留邦人襄陽丸で引き揚げ
8月8日 北平治安維持の声明
8月8日 中央軍察北へ進出 89師、86師、113師、21師集結北上
8月8日 上海緊迫 支那軍協定を無視し停戦地区内に保安隊増員、正規軍を配置 抗日会のの米穀不買同盟の食糧
8月7日から 南京要塞化 獅子山、清涼山、宮後山などに多数の要塞砲、高射砲を配備其の他鎮江・江陰も要塞化
8月9日 大山勇夫海軍大尉、斉藤一等兵殺害事件
8月11日 大山事件を受けて 協定違反に付、停戦区域からの撤兵を要求
8月10日 大山事件詳細
8月9日 別)船津和平工作 第一回の話し合いが8月9日に上海で行われる予定が頓挫
8月10日 南京政府の声明上海市長より地方的事件として解決を表明
8月10日 日本側の捜査を受け日本側の責任論を撤回
8月11日 日本側大山事件を受け、協定違反を注意し停戦区域の外への撤兵を要求
8月11日午後5時 海軍兵力増加を発表
8月初旬 土肥原・秦徳純協定を無視、89師河北省南口侵入、熱河省南西部国境に4個師を終結
8月11日 南口占領 山岳戦を制す 飛行機に手の小行李投下
8月11日 中央軍87師、88師の2個師に上海租界附近に向け出動命令を下す 12日虹口包囲 一部呉淞方面へ
8月12日 上海方面緊迫 支那正規軍上海に呉淞や港湾に
8月13日 政府声明 万全の措置 支那との交渉
8月13日午後4時 第二次上海事変勃発 戦闘開始
8月13日 上海 黄浦江停泊中帝国安泰に虹江碼頭附近にて攻撃を受け反撃
8月13・14日 上海 支那政府は銀行一斉に休業しモラトリアム施行
8月13日 北平 平綏線主要駅爆撃 南口の残敵掃討
8月14日 上海八宇橋、三義里方面守護
8月14日 上海呉淞砲台に海軍より砲撃開始
8月14日 支那機襲来爆撃機 マゼソン会社碼頭 損害を受ける
8月14日午後2時 海軍 決意表明
8月14日 荒鷲部隊航空拠点を空爆
8月14日午後4自42分 支那軍空軍 「新世界」の避難民、歓楽街「大世界」を空爆
8月14日午後4時すぎ 支那軍機の爆撃 カセイホテルに直撃、パレスホテル付近に爆撃
8月14日 英仏海軍支那側に講義 仏国領事抗議
8月14日 スタンダード・オイルの貯蓄タンクにも爆弾命中
8月15日 日本軍 南京、南昌の支那軍飛行場関連を空爆
8月15日・16日 14・15日発表 日本空軍は、支那軍の17格納庫・72機を爆破
8月15日 英米仏大使 南京政府へ厳重抗議
8月15日 南京邦人居留民に引き揚げ命令
8月15日 帝国政府声明発表 排外抗日運動の根絶を求める
8月16日 英・米・仏軍艦、支那軍飛行機1機に対して自衛的射撃を加える。
8月16日 上海にて支那軍外人パイロットの募集 月手当1200ドル 日本軍撃墜毎千ドルなり
8月18日 日高参事 16日南京を立ち青島へ到着
8月17日 北支 山東・青島方面 81師の侵入暴行掠奪 情勢緊迫する
8月17日 北支 山東・青島 邦人引き揚げ
8月17日 上海 日本軍増援部隊到着
8月17日 上海 共和里及び東和劇場に砲弾落下、敵空軍、常楽里、乍浦路、呉淞路などの邦人居留民避難先に
8月17日 広東在留邦人引き揚げ
8月18日 日清汽船の四隻、支那軍により長江に沈められる 支那側の国際法違反
8月18日 海軍増援部隊闘茶宇
8月18日 朝来.山碼頭 婦女子避難民収容の上海丸、長崎丸に津浦東側より攻撃を加える。国際法違反
8月18日 米国、避難民引き上げとして陸戦隊を派遣を決定
8月19日 第4回南京空襲 火薬庫を爆撃し大火災発生 第5回 参謀本部及び軍官学校
8月18・19日の宇羽州により、蘇州上海間の鉄道路を破壊 上海の制空権日本側に帰す
8月19日 共同租界、フランス租界各所で支那人の食糧危機などで、暴動・掠奪が起き外人・邦人等暴行被害を受ける
8月18日 駐日英国代理大使ドッヅ、双方上海より撤兵の提案を為すが、支那側の停戦協定区外への撤兵が先と拒絶。
8月19日 上海市街戦 楊樹浦方面の租界内にて戦闘 火災発生
8月20日 讃井・迎両の2名による日本刀での戦闘のプロパガンダ
8月20日 上海戦闘膠着状態
8月20・21日 北平 中央軍平津包囲強化
8月20日 土肥原秦徳純協定並びに停戦協定をやぶりチャハル省に支那軍侵入 関東軍張池口爆撃支那軍に多大の損害を与える
8月20日 青島境界エリアに支那軍南下 女姑口、流亭、白沙河の線を越え集結
8月21日 漢口北西の飛行場、22日シャンは浦東方面、南京光華門外飛行場と兵器廠を爆破
8月22日 上海北四川路、東部方面 陸戦隊防衛
8月22日 青島全在留邦人 青島市内の安全地帯に避難
8月22日 杉村駐仏大使より外電 ソ連支那共産党に武器供与
8月23日 日本帝国陸軍海軍の協力の下に上海上陸(上海派遣軍:第11師団・第3師団)
8月22日 永安公司デパート付近に支那軍機爆弾投下 死者200余名、負傷者200余名
8月23日午後一時頃 支那軍共同租界の新々公司デパートに砲弾を撃ちこむ。
8月23日 北支 チャハル方面 支那軍大同方面へ退却
8月24日 陸軍江上の海軍と協力し幾分進出を為し得るに至った。
8月22より24日 北支 関東軍、長城近辺の大関門居庸關付近を占拠、南居庸關を占拠。内蒙方面張家口に迫る。
8月23日 津浦線線 静海占領。支那軍南方に退却
8月22日 北支 平漢線 良郷付近の西の房山を占拠
8月24日 上海 海軍航空隊、永安紡績並びに呉淞鎮を爆撃。崑山、嘉定、太倉方面も爆撃
8月24日 日本政府、北支の自衛権強化の措置方針決定
8月25日 海軍支那船舶の交通遮断を発表 第三国は遮断措置はない。
8月25日 上海 陸戦隊東部正面に向かって進出を開始
8月24日 北支 平綏戦線 張家口占領
8月25日 北支 平漢戦線 良郷西方産地を高知一帯を占領
8月26日 上海より100キロ地点 支那軍艦を撃沈
8月26日 八達嶺、居庸關付近を占領
8月26日 イギリス駐支大使を日本軍機上海より50キロ付近
8月26日 呉淞、楊樹浦方面、支那軍前線に亘り原隊。揚子江岸劉河鎮に至る突出陣地の支那軍部隊総退却。
8月26日 北支 平綏戦線 チャハル延慶方面を目指す。 津浦線線 静家より南進。西北の王家口を目指す。
8月27日 平漢戦線 395高地、382高地を占領
8月27日 8度目の南京空爆、上海大場鎮への郊外道路爆撃、浙江方面上海杭甬鉄路操車場一帯を空爆。
8月27日 上海 殷行鎮占領により上海陸戦隊と上海派遣軍の疎通が近づく。羅店鎮占領。
日本国内 流言蜚語「憲兵が不応召者を射殺した」
8月27日 南支 厦門(福建省アモイ)に、支那軍第157師へ侵入。 邦人長沙丸収容し引き揚げ、
8月27日 北支 青島緊迫 税警団・支那陸戦隊・武装保安隊によるによる侮日排日宣伝。
8月28日 上海 支那軍 張治中上海正面作戦部隊葬式に任じられる。
8月29日 上海 上海派遣軍、上海租界救出軍停滞
8月29日 上海 上海居留地防衛の上海陸戦隊劣勢ながら防衛
8月の上海租界解放戦停滞苦境 上海派遣軍松井石根大将苦境を吐露
8月29日 支那軍機、機体に日章旗を塗装し偽装。
8月28日 平綏戦線 懐来盆地の西北24キロの沙城入。
8月29日 張家口から宣化に入城。航空隊による山西省付近一帯の支那軍爆撃。
8月29日 地里村西方700高地の右突角を占拠
8月29日 大使襲撃事件に際し英国より3箇条要求
8月29日 1)日本政府の正式陳謝、2)攻撃責任者の処罰、3)再発防止の措置と保障
8月29日 8月21日付、ソ支不可侵条約成立 支那政府発表
8月29日 日本政府声明 ソ支条約の共産主義との迎合を非難
8月29日 ドイツ政府 日支事変による支那の窮状がソ連との提携の理由にならない。として防共協定の観点から重大感心を示す。
8月30日 上海 呉淞港ダラー汽船プレジデント・フーヴァ号に爆弾投下。支那軍非公式に発表。
8月30日 北支 平綏戦線 山西省境蔚県の支那軍ニ対する空爆。石城占領。獨石口、赤城、永寧を結ぶ熱河境に沿う土肥原泰徳純協定線内をほぼ制圧。
8月29日 北支 呂官屯占領
8月30日 滄州を空爆 兵営停車場其の他爆撃
8月30日 上海 黄浦江辺の最重要拠点、呉淞鎮占領、呉淞砲台占拠
8月30日 北支 津浦戦線 王口鎮占拠
8月30日 北支 平綏戦線 張家口の西南同沿線上、郭磊荘占領
8月31日 北支 チャハル方面 ダムダム弾2万発押収 支那軍の国際法規違反
9月1日 上海租界に上海派遣軍到達。
9月1日 支那政府1日より軍費調達の五億元の自由公債発売
9月1日 支那政府、上海総商会加盟の資本金の5%、積立金の10%、給与月50ドル以上は月給の10%を強制的に応募することを決議。
9月1日 全支引き揚げ邦人 3万500人を越える
9月2日 上海 支那軍真茹無電台破壊。支那政府の上海に於ける通信設備を破壊。
9月2日 香港 排日暴動起こり暴動と漢奸刈り横行し放火と掠奪が広がる
9月3日 日本国内 第72臨時議会招集 事変費追加予算案並に各種戦時経済立法が審議
9月3日 日本国内 事変追懐臨時軍費 20億2千万円 陸軍省:14億2千2百万 海軍省:3億4千9百万 予備費:2億50万円
9月3日 日本国内 本年度公債発行予定額33億7千万円
9月3日 上海 浦東 支那軍迫撃砲、日本租界避難民集中地帯および旧英租界、仏租界へ攻撃、邦人外人とも死傷者を出す。
9月2日 北支 察哈爾(チャハル)省独立。「察南自治政府」樹立
9月3日 南支 日本海軍、厦門港砲撃
9月4日 日本国内 第72臨時議会 開会に際し異例の御勅語を拝す。
9月4日 日本国内 杉山陸相本会議開会時に訓示
9月4日 上海 宝山県前衛朱家宅支那陣地占拠。獅子林砲台占拠。宝山県城を挟撃する。
9月4日 北支 津浦線戦 唐官屯占拠、馬廠城攻略開始
9月1日 北支 平綏戦線 察哈爾省粛心に近接。山西省 永嘉堡占拠
9月5日 日本国内 支那事変長期戦を表明
9月4日 南支 海軍 広東汕頭、汕尾、媽宮要塞、海州要塞を攻撃
9月5日 上海 宝山県城占領。
9月6日 北支 平綏戦線 東天鎮占拠
9月6日 南支 バイアス湾爆撃開始
9月6日 南支 日本海軍 支那領東沙(プラタス)島占領
9月7日 香港 在留邦人の婦女子約百名、引き揚げ開始
9月8日 日本国内 臨時軍事費予算20億二千万円、各種非常立法が成立。9日閉幕。
9月8日 上海 沈家巷沈占領
9月8日 外交 イタリア、日独防止協定に加盟
9月9日 日本国内 第72回帝国議会 近衛首相告諭
9月9日 上海 月浦鎮占領
9月9日 南支 汕頭攻撃
9月10日 北支 津浦線戦 馬廠城陥落占領
9月11日 北支 津浦線戦 青県城占領
9月12日 上海 楊行鎮陥落 支那軍司令部に日章旗
9月12日 恵陽廣九鉄道の石龍、爆撃
9月13日 北支 平綏戦線 大同城占領
9月13日 日本国内 閑院参謀長宮殿下、関東軍司令官に祝電
9月13日 上海 北部党部連絡なる支那市庁舎占拠
9月14日 北支 永清県附近敵陣地攻撃、石家荘を空爆
9月14日 米国ルーズヴェルト大統領 日支向けの武器輸送の禁止を声明
9月15日 支那政府第四次中央全体会議無期延期
9月15日 15日までに支那軍機217機破壊
9月15日 北支 29軍傷病者への看護手当。北平の戦闘の破壊道路修復工事人夫として支那人投降兵を雇用。
9月15日 支那全面的敗退をラジオで放送する
9月17日 北支 平漢戦線 .州乾酪、総山附近、石樓邨占領
9月16日 北支 河北省.源(保定西方約100キロ)を占領
9月16日 上海 馬橋占拠
9月17日 南京 欧米各国大使各自国軍艦に避難開始
9月17日 日本国内 欧米特使の人選
9月19日 北支 太原上空で米国製ボーイング・カーチスホーク2機と交戦。
9月19日 長谷川第三艦隊司令官より19日付21日正午まで在南京各国居留民は安全地帯へ避難要請。
9月20日 南京 支那非戦闘員に対する避難警告を行う
9月19、20日 南京空襲 参謀本部、国民政府
9月20日 制空権確保
9月21日 国際連盟諮問委員会 帝国政府に招請
9月21日 広東の各飛行場空爆
9月21日 日本国内 臨時資金調整法の施行標準決定発表される
9月22日 蒋介石南京から離れたという噂が流れる
9月21日 上海 日本軍追加の部隊上陸
9月21日 北支 山西方面 太原飛行場へ空爆
9月21・23日 南支 広東の軍事施設・各要所を爆撃
9月21日 英国駐支大使空襲負傷事件 和解諒解成立
9月22日 南京へ空襲 江陰砲台にも爆撃
9月23日 北支 山東省 兗州済寧・徐州の飛行場格納庫を空爆
9月27日 上海 羅店鎮【白壁の家】を爆破
9月22日 支那軍毒ガス(ホスゲン・ガス)使用。
9月24日 北支 平漢戦線 保定城占領
9月25日 上海、南京、広東の核施設に爆撃
9月25日 国際連盟諮問委員会の招請を拒否
9月25日 蒋介石政権 英米の朝廷を模索
9月31日 南京 南京対岸浦口停車場を爆撃
9月27日 津浦線戦 馮家口に進出
9月28日 南京、廣徳、蕪湖の航空拠点を空爆
9月28日 国際連盟23国諮問委員会 支那事変に於ける日本軍の空爆に対する避難を表明にたいしる海軍当局の反論
9月28日 日本軍潜水艦による支那民間漁船撃沈のデマが流れる。支那の宣伝工作。
9月28日 経済団体連盟、戦時経済に対する総意表明
9月28日 上海 劉行鎮占領
9月25日 北支 内長城線の関門茹越口占領
9月29日 外務省国際連盟諮問委員会の批難に対する反論を声明
9月28日 フランス 駐仏帝国大使館、反駁的コンミュニケを発表 日本の仏国での対支プロパガンダ
9月29日 上海 劉行鎮支那軍退却時ニ一帯に火を放つ
9月29日 日本国 英米仏参加国へ南京空爆抗議への非公式の回答を出す。
9月29日 ドイツ ユダヤ系新聞、日本の南京・広東空爆や支那攻撃への武器輸出に関するデマ報道を行う。
9月29日 ムッソリーニ訪独
9月29日 日本帝国外務省、国際連盟諮問会議決議と太平洋会議の開催について日本側の主張を声明
10月1日 支那のジャンク船 武器輸送のため攻撃を加える
10月1日 上海 劉家行、朱家宅、陸家橋附近占拠、羅店鎮と劉家行間の上海會々占領
10月1日 北支 津浦線線 山東省桑園を占拠
10月1日 顧家宅 占拠
10月1日 北支 北平安定 治安回復
10月1日 支那海軍、空軍および軍備施設 ほぼ壊滅
10月5日 米ルーズヴェルト大統領のシカゴでの日本非難演説
10月6日 日本帝国外務省、ルーズヴェルト大統領演説に対する反論。
10月6日 伊ムッソリーニ首相日本支持表明
10月6日 米国国務省日本勇断の声明を発表 九ヶ国条約及びケロッグ不戦条約の条項に抵触すると、国際連盟総会の決定と同一見解と発表
10月6日 外務省 日誌紛争に九ヶ国条約乃至不戦条約適用は正当な認識を欠くとし、事情変更の原則が承認されるべきで日支紛争は日支間で解決されるべきという所信を堅持
10月6日 南京住民避難続き、残留支那人の日用品・食料品が不足し配給所が開設。
10月6日 支那軍中央軍損害20万人 精鋭軍の大半を失ったと分析
10月8日 陸軍省発表 上海戦支那軍遺体56,761人、捕虜580人
10月8日 松井最高指揮官の声明 「誓って妖雲を払掃すべく、和平の暁天を望むの日方に」 中国人に告ぐ「東亜の道議に帰り三省せよ」
10月8日 外務省声明 国際連盟並に米国への反論 事変の原因は支那側にある駐兵権の侵犯、上海停戦協定の違反にて防衛戦である。むしろ支那政府こそ条約の精神に離反している。
10月8日 松井最高司令官声明
10月13日 北平 【北京】と改称、北平自治委員会決定。
10月15日 空爆の為南京都市機能麻痺
10月27日 上海 北停車場占領 パンテオン劇場占領 商務印書館占領 中央蔵廠占領 持志大学占領
10月27日 上海 大場鎮、江湾鎮占領
10月27日 上海 京滬・滬杭甬両鉄道の分離点占領 上海・南京の交通連絡遮断
11月3日 ブリュッセル会議(九ヶ国条約加盟国)で支那側は外国権益を守るための戦いであると主張し、日本側のケロッグ=ブリアン条約違反を主張し、制裁を求める。日本国不出席。
11月5日トラウトマンを介して和平条件は蒋介石側に伝えられる。
11月5日 第十軍に杭州湾北岸上陸
11月7日 上海派遣軍と第十軍を以て、中支那方面軍編成
11月7日 中支那方面軍より第十軍に対し松江付近へ進出し崑山方面への攻撃準備の命令が伝達される
11月9日 北支 太原城占領
11月9日 上海 上海全体を占領
11月11日 唐生智南京死守を主張。その他反対にもかかわらず、蒋介石受諾。
11月12日 北支 南翔乾酪
11月13日 第16師団 揚子江上海上流、白茆口 支塘鎮占領
11月14日 16師団 常熟占領
11月15日 16師団 崑山占領
11月15日 ブリュッセル会議最終日、広田外相とアメリカのグルー大使会談
11月15日 第十軍 幕僚会議で南京単独追撃を決定。
11月16日 蒋介石国民政府 首都移転決定発表
11月16日 南京 南京脱出口の下関避難民で殺到混乱
11月16日 南京市民下関へ殺到。市内大混乱。
11月17日 南京 遷都 政府機関移動を発表
11月17日 日本国内 大本営制定
11月19日 蘇州城占領
11月20日 南京 蒋介石 重慶への「遷都宣言」発表
11月21日 無錫城占領
11月22日 日支那方面軍より日本国中央へ【今後の作戦に関する意見書】が伝達される。《事変解決には、南京市攻略の必要を説く》
11月25日 日独伊の防共要諦調印 三国同盟
11月28日 南京 蒋介石、徐永昌、唐生智、白崇禧、顧祝同、銭大鈞ら政府・軍中枢のメンバーを招集しトラウトマン工作の条件を示す。
12月1日 大本営が南京攻略を正式に発令。
12月2日 南京 蒋介石、トラウトマンに受け入れを伝えるが、日本への不信を云い訳に自己の面子と保身から留保を続ける。
12月7日 蒋介石の和平案受諾の意向が日本政府に伝わる。
12月10日 無血開城要請後、南京攻略戦開始
12月13日 南京陥落
今日は、時系列を知りたく「支那事変から南京攻略までの年表 」を
印刷させて頂きに参りました。🙇♀️ 事後報告となり申し訳ありません。
いつか皆さんのお話に参加できる様に なれればと思っています。