【1.人口問題関係=>3.南京城の周辺は無人地帯ではなかった&城外の人口の資料】
この南京事件FQAサイトのこの記事の【主張】について反論する前に、情報収集として城外に大量の非戦闘員が居たのかという記録が無いかを調べてみる。
初めに、小野賢二著『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち:第十三師団山田支隊兵士の陣中日記』から始めて見る。
因みに、【引用】ではなく、当方の要約である為、個人の印象や判断は異なるので、原文は書籍(*1)を読まれることをお薦めする。
【9[新妻富雄(=偽名)]陣中日記】
P.177
9[新妻富雄]陣中日記
所属:歩兵第65連隊>第二大隊>第7中隊・第2補充
階級:上等兵
【《A》笠原十九司氏の南京事件の範囲開始】
12月13日 晴天。前夜夜間行軍。午後5時××站発。某へ宿営。
山上より警戒中敵兵を発見、鹵獲、捕虜を小隊長が斬殺。
この手帳はその支那兵の所持品。
12月14日 晴天。午前4時50分整列。南京との中間にある虎子台砲台攻略の為出発。
夜明け間もなく敵兵白旗を揚げて投降。1万5、6千人。武装解除。
砲台攻略には第二大隊戦死者45名、負傷者78名を出しながらも占領。
後、第二大隊中、第7中隊はそのまま南京へ向かう。
途中、揚子江沿岸の支那軍虎子台海軍独立陸戦隊兵営に到着し、宿営。
第4次補充部隊430名合流。
12月15日 晴天。海軍兵営の儘。銃声はない。捕虜2万5、6千を連隊のみで収容したと聞く。
上海戦からの戦死した戦友にこの報告で慰めになるかと思う。
12月16日〜20日まで 記事全文が抹消されている。
12月21日 西葛東街巷浦口鎭着。行軍開始。午後4時宿営地着。
12月22日 晴天。全椒鎭県浦口より第7中隊は入城。地元の支那人に歓迎を受け入城する。敵影無し。
【土下座強要派】の小野賢二氏の資料は、その【真偽】は兎も角、面白い資料である。このサイトや土下座強要派の方々から【幕府山】での【日本軍の犯罪行為】の【根拠】とされる文献だが、日記が本物ならば面白い事が判る資料でもある。
このサイトの方々の【事件】なるものの主張範囲は【《A》笠原十九司氏の南京事件の範囲開始】であるが、この人物は、13日の敵要塞占領後警備中に、発見し小隊長が処刑した敗残兵の持ち物を使うというちょっと変わり種で、何故突然日記をつけだしたのかよく判らない。それまでの記録は別にあるのかどうかという情報は記載されていない。持ち主である敵兵の中国語の部分は破棄したのかどうかについても情報は不明の儘である。
小野賢二氏の書籍のこの人物の扉の部分にはこういう記述しかない。
引用《
入手経緯 遺族より
日記の様態 縦10センチ×横15センチ,穴をあけた用紙を革表紙とと〈改行〉
もに太い紐でとじてある。縦書き。1937年12月13日から記述が〈改行〉
始まっているが,その冒頭1頁目にはシミが多く,解読できない〈改行〉
箇所が多い。また,「十二月十六日 晴天」という記述のあと,イ〈改行〉
ンクで書いたものをなにかで抹消したらしく,空白となっている。〈改行〉
さらに12月17〜20日にあたるところは,残っておらず,あとで〈改行〉
破棄されたものと推定される。〈終了〉
》
この【日記】と称する資料の印象は、極めて不明確で本来史料としは使うべきではないと考えるが、このような載せたのは、小野氏や彼を取り巻く編集部や本多勝一という虚偽拡散者、藤原彰などの加虐史観の学者の【加虐史観】をより強く【印象】づけるためのものでしかないと言える。
因みに、インクはインク消しというものがあって万年筆の書き損じなどは消すことが出来る。万年筆とインク消しで検索されると良いと考える。当時の軍事状況の中でこの人物がインクとペンをよく使えたなという感想は持つ。
【参考文献・参照サイト】
(*1)小野賢二著『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち:第十三師団山田支隊兵士の陣中日記』
全416頁 大月書店 1996年3月14日 【Amazon】
【参考サイト・Twitter】
ZF殿サイト及びTwitter
・補記10 幕府山事件(地理編) 【Link】
・ZF殿のTwitter 地理のスレッド 【Link】
・ZF殿のTwitter 収容所の位置 【Link】
・ぎよみどん殿のTwitter 幕府山の画像(7年後の1944年撮影) 【Link】
小野賢二氏の史料でも参加している人物は少数で、状況は良く判りません。
又、戦時国際法でも、1998年のローマ規定でも【故意】という事が【重要】になりますので、両角大佐の【意図】を証明できない、又は他の上位者の【命令】が無い以上【法的】に【責任】を追求する【要件】は揃ってないと考えますな。
因みに、長勇参謀の件も角良晴の老齢の為の【妄想】と考えております。