【1.人口問題関係=>3.南京城の周辺は無人地帯ではなかった&城外の人口の資料】
この南京事件FQAサイトのこの記事の【主張】について反論する前に、情報収集として城外に大量の非戦闘員が居たのかという記録が無いかを調べてみる。
初めに、小野賢二著『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち:第十三師団山田支隊兵士の陣中日記』から始めて見る。
因みに、【引用】ではなく、当方の要約である為、個人の印象や判断は異なるので、原文は書籍(*1)を読まれることをお薦めする。
【4[伊藤喜八(=偽名)]陣中日記】
P.98
4[伊藤喜八]陣中日記
所属:歩兵第65連隊>第一大隊>第1中隊・編成
階級:上等兵
10月03日 船上で不発弾の暴発の為、12名戦死。
10月04日 上海上陸。東洋紡績会社宿営。
10月05日 午後10時発約8里(約32km)の行軍。前線配備に付く。
10月06日 夜間行軍8里(約32km)。古家宅にて大隊露営設置の所、敵襲撃に備える。
鹵獲された敵兵15名ほど銃殺。惨い事だった。高射砲・海軍間の総動員で敵空軍への迎撃。
10月08日 雨で天幕内の露営が雨漏りで酷い事になる。
10月09日 夜間歩哨。
10月10日 雨。酷い露営となる。帰家宅・楊行鎮から1里半位(約6km)で宿営。
師団司令部は周家宅の後方約1里半位(約6km)にある。
10月11日 午前5時発。旅団司令部まで行軍の途中には支那兵の遺体の山で実に愉快。
敵のもの凄い迫撃砲攻撃の為右方面に移動。
10月12日 旅団司令部を警備。友軍の野砲・重砲音と図上を弾丸が行く。
敵の迫撃砲も度々付近に落下する。第104連隊重軽傷者多数。担架で後方へ運ばれる。
現在の旅団司令部位置は王家橋である。
10月13日 起床後体操。毎日航空音が凄い。省吾劉家行の荻州部隊第2野戦病院に分隊長以下3名の
連絡へ行く。途中の敵の塹壕に驚く。
10月14日 午前4時発。大隊本部合流。櫓網湾の大隊本部警備。第1・2小隊前線の後方に付く。
10月15日 塹壕掘り。敵頑強に抵抗で前線は困難が伴う。午後7時迄は第2中隊の前線で敵100前まで、
攻撃塹壕を第3小隊の第3・4分隊と協同で掘削工作を行うが、敵銃器の速射を受け不首尾。
午前3時に大隊本部へ後退。酷い寒さ。
10月16日 一軒家(?)に向け、第104連隊攻撃開始。中隊1名戦死。午前10時、総攻撃。第3中隊は全滅。
10月17日 一軒家(?)に向け夜間攻撃。酷い泥まみれ。1名戦死。攻撃夜も継続。
10月18日 中隊からも死傷者多数。午前5時突撃。2名戦死。午後3時突撃塹壕から出た所で肩と足を
銃撃され負傷。午後8時頃連隊の仮説病院で治療。
10月19日 岩倉部隊野戦第4病院へ入院。
10月20日 入院。砲弾音のする中、入院してくる他の負傷・罹患兵を眺めて寂しさを感じる。
12月22日 前日21日変わらず、昨夜も敵迫撃砲着弾音が近くでして寝られず。
10月23日 午前8時、野戦病院から呉淞の串田部隊の病院に護送される。
10月24日 晴。退屈。知人と揚子江沿岸で2時間余り楽しく話す。
10月25日 晴。好天候が続けば戦闘も進み、この入院中に早期の停戦になる事を願っている。
10月26日 晴。入院儘。呉淞の景色は砲弾後で悲惨。
10月27日 午前8時上海の兵站病院に後送。午前11時到着。
10月28日 晴。病室から見た上海市外の支那人家屋も悲惨な状況。
比べて外国人の家は意気揚々としている。
10月29日 子供の夢を見る。
10月30日 同じくこの度も夢を見る。曇り。早く治癒して部隊に復帰したいと思う。
10月31日 小雨。入院儘。
11月01日 入院。退屈。
11月02日 雨。病院の窓から外を見て郷里の家を思い出す。
11月03日 明治節でご馳走の給養。
11月04日 今日は飯上げ(*2)で愉快。工兵部隊が仮病舎の建築に懸命に働いている。
11月05日 入院儘。毎日部隊復帰を願う。
11月06日 入院儘。台湾産のざぼん(*3)の給養を受ける。美味しく同病室の者で頂く。
11月07日 入院儘。当病室から1名復帰。早期の部隊を願う。
11月27日 7日からは入院中の慰問品、退屈な事のなど。こまごまと。妻よりの手紙が届く。
11月28日 家内へ返事を出す。宮中から伊佐部隊に侍従武官が差し遣わされて御下賜品があった。
11月29日 午後1時から3時頃迄 演芸会を催しました。実に愉快。
11月30日 毎日楽しく過ごしている。慰問品有り。
12月01日 晴。夕方自動車事故があり、看護婦5名と、第9師団の兵士5、6名が無くなった。
仕方がないが、気の毒と思う。
12月02日 曇。部隊復帰が楽しみである。
【《A》笠原十九司氏の南京事件の範囲開始】
12月03日 明日隊員。復帰して前線へ出るのが楽しみである。
12月04日 学校(郷里?か不明)からの慰問作品を貰う。西本願寺の大谷伯爵の慰問に感謝する。
12月05日 本日退院。減退吹き。兵站司令部から南翔支部へ自動車で送迎後、本日はここで夜営。
12月06日 午前7時30分発。昨日寒くて眠る事が出来ず。崑山へ向け行軍。
途中支那人の哀れな姿を見て連◆(文字不明)は出来ないと思う。
支那人の子供に残飯をやる。可愛らしく、キャラメルを与えると喜んだ。
安亭鎭の小学校に宿営。
12月07日 午前6時30分発。途中敵兵の遺体。崑山着、宿営。
12月08日 休養。午前中崑山鎭の山に登る。相当な激戦地で支那兵の沢山の遺体がある。
測候所は破壊されている。
12月09日 午前8時30分発。蘇州方面に向け行軍。蘇州を通過して無錫着。宿営。
12月10日 無錫より1里(約4km)歩行。又自動車にて常州通過し丹陽へ着。露営。寒い。
12月11日 午前9時発。自動車にて行軍。句容の軍司令部着。宿営。
12月12日 句容儘。休養。
12月13日 昨日の夕食の油揚げで下痢を起こす。本日も滞在儘。戦友の顔を見て話がしたい。
12月14日 午前句容発。湯水鎭の軍司令部に午後1時半前に着。
部隊は鎭江から渡河との事で午後2時丹陽に戻り宿営。
12月15日 午前8時発。鎭江手前の第2野戦病院宿営。戦友に会う。
12月16日 午前10時発。鎭江10時故路着。部隊は南京に向かって進軍との情報で、追求を始める。
又丹陽、句容、湯水鎭に戻り宿営。
12月17日 午前8時発。湯水鎭から自動車で行軍、軍官学校、総理の墓を見て、戦友の墓に黙祷し、
南京中山門より城内へ午前10時着。城内の励志社、陸軍軍官学校、警衛司令部などを通過。
午後1時から南京入城式。夕刻大隊の第4中隊の宿舎に着く。
夜、捕虜2万余人を揚子江岸で銃殺。
12月18日 大隊本部に行き、午後銃殺場所を見学。酷い惨状。我軍に戦死10名、負傷者を出す。
夕刻中隊の自動車で烏龍山砲台警備の原隊復帰して安心する。
12月19日 第1中隊が占領した烏龍山砲台警備。
12月20日 歩哨。午後2時発。第16師団33連隊と交代。第4中隊が幕府山砲台、
第1中隊は大隊本部のあった場所に宿営。
12月21日 休養。戦友の遺骨を中隊が預かる。
12月22日 午前6時発。津浦鉄路線の中山碼頭により乗船。対岸の浦口上陸。
昼食後浦口鎮に行軍着。宿営。
【土下座強要派】の小野賢二氏の資料は、その【真偽】は兎も角、面白い資料である。このサイトや土下座強要派の方々から【幕府山】での【日本軍の犯罪行為】の【根拠】とされる文献だが、日記が本物ならば面白い事が判る資料でもある。
このサイトの方々の【事件】なるものの主張範囲は【《A》笠原十九司氏の南京事件の範囲開始】であるから、12月3日以降を見てみると、
この人物は、上海攻略戦での激戦で、受傷してほぼ野戦病院・上海の病院で過ごしている為、その後の行動はほぼ部隊への追求が主で、ゆとりがあったにも関わらず、各街や他の状況は何も書かれていない。
この人物の記載の中に【一般人】が【大勢居た】ことも【民間・兵卒】共に【大勢が殺害された】こと等は、一切記述にないのは言う迄もない。
なお、幕府山に関しては、短い記述と、翌日に【遺体処理】でもなく【見学】という【変】な話を記述しており、前日参加したような記述だが、【実に酷い惨状】以外は、違和感のある記述となっている。又戦死者10名とあるが、戦史叢書第086巻 支那事変陸軍作戦<1>(*4)によれば、戦史としては将校1名と兵卒6名が戦史という事になっており、正確な情報が伝わっていない事が判る。
国際社会で流布している【歴史観】で、ジョシュア・A・フォーゲル『歴史学のなかの南京大虐殺』(*2)という書籍に書かれているようなハーバード学派の歴史学者達の南京に於ける日本兵のイメージとしての次の文面と比較すると、ほぼ間違いなく間違っていると言わざるを得ない。
この伊藤という人物は、楽しんでいる様子を記していないし、【個人】として軍事上不必要な殺害は行っていない。
引用 チャールズ・メイヤー(*3)【まえがき】《
個人としての兵士が、銃弾のみならず刀や銃剣を使っておそらくは何万人もの民間人をしばしば陽気な気分で殺害したことを意味するがゆえに、それだけいっそう残虐であるように思われる。
《中略》
退廃や人間性喪失を増幅させることにも一役買った。
》
日記の記述には、殺害を陽気な気分で行っているとは記述していない。特に人間性を喪失している記述も見られない。上陸した、10月6日の鹵獲した敵兵への銃殺を【惨い】と感じたり、病室から見た支那人家屋の状況を憐れんでいたり、退院後の部隊追求時に、支那人の哀れな姿に同情を寄せたり、支那人の子供にキャラメルを与えるなど人間らしい感性は忘れては居ない。ハーバード学派などの様な【思い込み】による【歴史認識】が【世界】では【主流】ということは、【近代史】という【学問】【科学検証】への【質】を劣化させている一因になっている事は間違いない。
この日記では、棲霞山近辺についての記述は一切無い。軍用車による行軍でほぼ通過点だったようである。BBCの2019年09月2日の記事【南京大虐殺で、多くの中国人救ったデンマーク人 没後36年目の顕彰】でのベルンハルト・アルプ・シンドバーグ氏のいうセメント工場での話という日本軍がセメント工場から徴発あるいは攻撃した話は爪の先程も出てこない。因みに、記事を読むと日本軍から守ったのであって、セメント工場の中の避難民が殺害された訳ではないことは言うまでもない。
【参考文献・参照】
(*1)小野賢二著『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち:第十三師団山田支隊兵士の陣中日記』
全416頁 大月書店 1996年3月14日 【Amazon】
(*2)炊事場で調理された食缶入りの兵食を運び(「飯上げ」)、部屋で食器に盛り分けて食べること。【Link】
(*3)ざぼん(ぶんたん) 柑橘類の果物 【Link】
(*4)戦史叢書第086巻 支那事変陸軍作戦<1>昭和十三年一月まで P.437 コマ番【229】 【Link】
(*5)ジョシュア・A.フォーゲル『歴史学のなかの南京大虐殺』 柏書房 2000年5月1日 【Amazon】
(*6)チャールズ・メイヤー wiki 【Link】
【参考サイト・Twitter】
ZF殿サイト及びTwitter
・補記10 幕府山事件(地理編) 【Link】
・ZF殿のTwitter 地理のスレッド 【Link】
・ZF殿のTwitter 収容所の位置 【Link】
・ぎよみどん殿のTwitter 幕府山の画像(7年後の1944年撮影) 【Link】
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます