【1.人口問題関係=>3.南京城の周辺は無人地帯ではなかった&城外の人口の資料】
この南京事件FQAサイトのこの記事の【主張】について反論する前に、情報収集として城外に大量の非戦闘員が居たのかという記録が無いかを調べてみる。
初めに、小野賢二著『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち:第十三師団山田支隊兵士の陣中日記』から始めて見る。
因みに、【引用】ではなく、当方の要約である為、個人の印象や判断は異なるので、原文は書籍(*1)を読まれることをお薦めする。
【11 [遠藤高明(=偽名)]陣中日記】
P.211 11 [遠藤高明]陣中日記
所属:歩兵65連隊>第二大隊>第8中隊・第3次補充
階級:少尉
11月29日 午前6時30分呉淞着。午前8時30分大阪商船碼頭上陸。帖和紡績会社宿営。
11月30日 晴。単独で江陰攻略中本体に追求すべき命令を受ける。居留民は大部分復帰。商店も再開。
12月01日 午後呉淞の領事館に加藤氏を訪問。帰営。
12月02日 陸路の予定が午前9時日清汽船宜陽丸乗船。午後3時30分に滸浦鎮着。
午後6時30分、夕食後に梅李鎮へ向け夜間行軍。午後11時着。農業倉庫宿営。
午後12時空襲。一時焚き火などの火類を消す。寒さで眠れず。
【《A》笠原十九司氏の南京事件の範囲開始】
12月03日 午前10時梅李鎮発し、常熟へ向かう。途上支那民の死骸多数有。気持ちが悪くなる。
午後3時30分常熟着。爆撃の跡多し。小雨学校宿営。午後4時30分同行少尉自殺。原因不明。
野菜徴発。寒さの為眠れず。
12月04日 晴後曇。午前6時無錫向け常熟発。距離13里(約52km)の行軍で落伍者多数。
小隊半数(20〜25名ほど)になり、収容班を組織して本隊より送れた者を迎えながら行軍。
午後9時無錫着。民家に宿営。
12月05日 夜明けと共に市街に空襲防禦の地下壕を掘る。遺体家屋に無数に遺棄。
午前9時無錫発、七里先(約21km)の青陽鎮へ向かう。
途中江陰へ転属、約11里(約44km)の強行軍。午後10時30分着。疲労困憊。宿営。
12月06日 晴。午前9時編成。第8中隊附となる。午後3時、本部に報告。午後6時中隊幹部会食。宿営。
12月07日 晴。鎮江要塞攻略の為行軍。58連隊、116連隊26旅団は江陰より対岸渡河。午前8時30分発。
午後5時■(九+彡)窟鎮着。鶏徴発。宿営。
12月08日 晴。午前8時発。本道から外れ畦道を八里半(約30km)行軍。悪路の為難航。
午後5時江巷鎮着。寒村に宿営。
12月09日 晴。午前6時江巷鎮発。午後4時姫庄着。途中第11師団天谷支隊が鎮江を攻略したと情報があり。
部隊から喜びが湧く。
12月10日 晴。午前8時姫庄発。午後4時鎮江着。敗残兵による略奪の様子無い。
攻撃などの被害少なく水道電灯に問題無い。午後5時宿営。徴発(砂糖、サイダー、栗など)。
渡河の噂あるが、明日の行軍命令無し。
12月11日 晴。突然の命令で午前9時渡河準備。午前11時出発。途中より高資駅方面へ南京鉄路沿い行軍。
午後6時橋頭鎮着。宿営。糧秣無く携行食を食べる。
12月12日 晴。橋頭鎮在。大小行李の給養を受け取る為鎮江へ戻る。
鎮江にて米国人経営の園芸学校より果物瓶詰、果汁など多数得る。
104連隊は鎮江帰還後対岸へ渡河。65連隊は明朝13日発の予定が突然午後6時発。
夜間行軍三里(約12km)。午後9時30分ぶ倉頭鎮着。仮宿営。
12月13日 午前8時30分発烏龍山砲台攻略へ。途中棲霞山麓にて盛んに銃声を聞く。
敗残兵との交戦。午後5時分于村着。小隊同村南側の山に警備。時々飛弾有。
山上は寒さは厳しい。午後12時交代。南京陥落の報を受ける。
12月14日 午前5時分于村発。幕府山要塞攻略へ向かう。月が沈み暗黒で歩行困難の行軍。
分于村西方2kmの地点で埋設の手榴弾罠の為第1分隊戦死者が出る。
第1大隊太平山付近で敗残兵数百名の鹵獲。敵は既に戦意を失った状態。夕刻上元里に宿営。
民家少ない。夕刻より更に400名余り敵兵鹵獲。
12月15日 晴。午前7時起床。午前9時敗残兵掃討を実行。306名鹵獲。1万近い敵兵を鹵獲したと聞く。
午後1時引き返す。午後9時日直服務。午前1時頃、銃声に目覚める。
第8中隊より立哨敵兵を射撃中聯隊本部の連隊伝令員を誤射し負傷。報告と報告書作成。
【土下座強要派】の小野賢二氏の資料は、その【真偽】は兎も角、面白い資料である。このサイトや土下座強要派の方々から【幕府山】での【日本軍の犯罪行為】の【根拠】とされる文献だが、日記が本物ならば面白い事が判る資料でもある。
このサイトの方々の【事件】なるものの主張範囲は【《A》笠原十九司氏の南京事件の範囲開始】であるから、12月3日以降を見てみると、第3次補充隊員の為、基本的に本隊に追求ばかりである。
12月3日の梅李鎭から常熟への陸路の行軍中での【支那民】が【一般人】を指すのか【兵卒】を指すのか不明だが、【一般人】としても、戦闘に巻きこまれたのか、【故意】に殺害されたのかも不明である。この後から来た人物にそれを知る由はない。12月10日に【敗残兵による掠奪の様子無い】ことに触れているが、当時の【少尉】以上の軍人の認識としては、【支那軍】が【退却】には【掠奪】を行うという認識、もしくは【先入観】があったようである。
12月13日 【棲霞山麓にて盛んに銃声を聞く】を聞いているが、敗残兵との交戦で、大きな戦果があったとも明記が無く、散発的なものと考えられる。どちらにしても【一般人】が【大勢居た】ことも【民間・兵卒】共に【大勢が殺害された】こと等は、一切記述にないのは言う迄もない。
この人物は、16日に火災と【軍命令】で第1大隊による捕虜の3分の1の処刑、17日の夜(時間不明)に残余1万余の捕虜を処刑したことを日記に記している。但し行動への参加はしていない。今回のテーマではなかったので詳細は示さず紹介に止めておく。興味のある方は書籍を読んで頂く事をお薦めする。
国際社会で流布している【歴史観】で、ジョシュア・A・フォーゲル『歴史学のなかの南京大虐殺』(*2)という書籍に書かれているようなハーバード学派の歴史学者達の南京に於ける日本兵のイメージとしての次の文面と比較すると、ほぼ間違いなく間違っていると言わざるを得ない。
この遠藤高明という人物は、楽しんでいる様子を記していないし、【個人】として軍事上不必要な殺害は行っていない。
引用 チャールズ・メイヤー(*3)【まえがき】《
個人としての兵士が、銃弾のみならず刀や銃剣を使っておそらくは何万人もの民間人をしばしば陽気な気分で殺害したことを意味するがゆえに、それだけいっそう残虐であるように思われる。
《中略》
退廃や人間性喪失を増幅させることにも一役買った。
》
日記の記述には、殺害を陽気な気分で行っているとは記述していない。特に人間性を喪失している記述も見られない。
こういう誤った【思い込み】による【歴史認識】が【世界】では【主流】ということは、【近代史】という【学問】【科学検証】への【質】を劣化させている一因になっている事は間違いない。
この遠藤高明の資料でも、BBCの2019年09月2日の記事【南京大虐殺で、多くの中国人救ったデンマーク人 没後36年目の顕彰】でのベルンハルト・アルプ・シンドバーグ氏のいうセメント工場での話という日本軍がセメント工場から徴発あるいは攻撃した話は爪の先程も出てこない。棲霞山麓付近での銃撃があったようだが、大きな交戦で敗残兵相手に大きな戦果を挙げたということすらも書かれていない。因みに、記事を読むと日本軍から守ったのであって、セメント工場の中の避難民が殺害された訳ではないことは言うまでもない。
【参考文献・参照】
(*1)小野賢二著『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち:第十三師団山田支隊兵士の陣中日記』
全416頁 大月書店 1996年3月14日 【Amazon】
(*2)ジョシュア・A.フォーゲル『歴史学のなかの南京大虐殺』 柏書房 2000年5月1日 【Amazon】
(*3)チャールズ・メイヤー wiki 【Link】
【参考サイト・Twitter】
ZF殿サイト及びTwitter
・補記10 幕府山事件(地理編) 【Link】
・ZF殿のTwitter 地理のスレッド 【Link】
・ZF殿のTwitter 収容所の位置 【Link】
・ぎよみどん殿のTwitter 幕府山の画像(7年後の1944年撮影) 【Link】
貴殿の詳細な考察ありがたいものです。そもそも支那は戦時国際法適用以前の、古代の殺すもの勝ちの野蛮国と考えます。
現代においてもその傾向は不変と考えます。貴殿の南京攻略戦の考察を今後も期待します。
>小生は「南京大虐殺」はもちろん「歴史として記録すべき「南京事件」すらなかった
これはまったく、同意見です。
先師先達の教えやTwitterで知り合った当方の師匠連の教えなどを元に、コツコツと情報提供をしていきたいと考えております。
又、暇な時にでも、見て頂けると有難いです。