【1.人口問題関係=>3.南京城の周辺は無人地帯ではなかった&城外の人口の資料】
この南京事件FQAサイトのこの記事の【主張】について反論する前に、情報収集として城外に【大量の非戦闘員が居た】のかという記録が無いかを調べてみる。
前に、小野賢二著『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち:第十三師団山田支隊兵士の陣中日記』(*1)からの分析に引きつづいての【第38連隊】の【戦闘詳報】、そして【第33連隊】の【戦闘詳報】(*2)から調べてみる。
第33連隊は、第38連隊と共に第16師団の佐々木支隊【第30旅団】で、主に師団の右翼面の左側を進軍していた。ただ、【国立公文書館 アジア歴史史料センター】で公開されている(他に存在するか不明)【戦闘詳報】は、
【南京附近戦闘詳報(12月10日〜14日)】
【其一紫金山の戦闘】
【其二下関揚子江岸戦闘】
【支那事変に於ける歩兵第33連隊隷下部隊戦闘概況表】
のみである。
12月3、4日〜9日間の【戦闘詳報】からの情報はほぼ得られなかった。
因みに、【引用】は、ほぼ無く、原文は【国立公文書館 アジア歴史史料センター】で、第33連隊で検索するか、又はZF殿が纏められておられたので氏のウェブサイトのこの頁の【C】から始まる12桁の数値で表される【レファレンスコード検索】で探して読まれることをお薦めする。
最初に確認しておくが、南京事件FQAサイトのこの記事の【主張】は、主に【城外】に大量の【非戦闘員】が居て、それが戦場における日本軍の不軍紀且つ国際法の陸戦に関する条約の【陸戦法規】に違反する不当行為による殺害で、しかも大量殺害を犯したという主張である。
その根拠としては主に【崇善堂】の【埋葬記録】などである。それ以外にも周辺での【避難】せずに、又は家族の都合などで、村落の大部分の一般住民が取り残されていたものを、【戦闘】及び【徴発の際】などでの日本軍の不当行為で【殺害】したという【主張】である。
この【主張】に則り、範囲としては、【《A》笠原十九司氏の南京事件の範囲開始】である12月3、4日以降の範囲に限定する。でなければ前にも後ろにも収拾がつかず論的に判断できないからである。
それと、【歴史】を調べる上で、【第一次史料】はとても重要であり、当時を【知る】という意味では、【最重要】な【史料】ではあるのは言う間でもない。
後述するが、【蓋然性が高い】かと言えば、【精査】が必要であり、今回の第33連隊の【戦闘詳報】に於いても同じである。
【戦闘詳報】は、リアルタイムで記述されるものでは無く、戦況によって変化する中で、担当者の置かれた状況次第で、後日に書かれることになり、記憶や連絡メモなどを参考に記載される。記憶は忘失・誤記憶があり、連絡メモなどは紛失なども状況に依ってはあり得るので、【想像】による【記載】になることがある。それはいわゆる【蓋然性の低い】と言うことに外ならない。
調べた【戦闘詳報】は以下の通りで、
南京附近戦闘詳報(12月10日〜14日) 【C11111198100】
其一紫金山の戦闘 【C11111197900】
其二下関揚子江岸戦闘【C11111198000】
支那事変に於ける歩兵第33連隊隷下部隊戦闘概況表【C11111198600】
全部で4冊である。
ポイントは、併せて【気象状況・戦闘前の状況・敵の情報・戦闘後の状況・その他の参考にすべき情報】の項目に注意を払って調べてみた。
【住民】の項目は一切無い。当然ながら【紫金山】は、南京城の直ぐ東に接して、東西に連なる低山(第一峰約440m)であり、山頂からは南京城無いが一望できる軍事上重要拠点であり、防衛陣地が重層的に構築されている。
ただ、誰が陣地設計をしたのか北面斜面は崖面の急峻斜面で登攀攻撃は適わなず、南面斜面は霊谷寺、萬福寺、中山陵、明孝陵などの施設が重層的に防衛されているが、東にのびる稜線に関しては、急ごしらえの防衛設備であった為に、その点を日本軍に見抜かれて防禦できなかったと考えられる。その他の重火器類(山砲や速射砲)が殆どなかったのも敗因と見られる。
結論から言うと、この場所は、防衛の要塞で、【一般住民】が居たと言う事は確認されていない。
12月10日から東面の青馬・黄馬から第三大隊を先頭に、やや北面から第二大隊が急峻な面を登攀し、最初の高地の敵陣を攻略し、速射砲中隊と連隊砲中隊がそれぞれ支援の砲撃・射撃を敵陣に攻撃した後、第三大隊が占拠エリアを拡大する方法で、12日の夜に第一峰を占拠している。その間3日間に於いての食糧と水の配給が滞ったようで、部隊の一部を割いて、下山の上炊飯して、水と共に戦場を登るという困難な作戦を行っている。その他にも、負傷兵を後送する為にかなりの兵力を取られて、寡兵でもって占拠できたのは、速射砲と連隊砲が後半に南麓へ配置転換し、攻撃に回ったことで成り得たという感じである。
12日の夜の第一峰の占拠し後、直ぐさま最後の拠点である天文台へ進出するが、第一峰が陥落した後ラッパの音と共に敵兵は潰走し、北部の下関方面へ逃走している。本来なら最後の激戦の拠点となる筈の堅固陣地である天文台は使われることがなかった。
その後、第三大隊、第二大隊とも下山し、太平門を占拠し、一部の部隊を守備に残し、直ぐさま揚子江へ北進している。
ここで、この【戦闘詳報】の肝ともいわれる冊子末の【鹵獲表】がある。
《33連隊 戦闘詳報 鹵獲表》
ここに、【捕虜】の項目に、将校14名、准士官・下士官兵3,082名とあり、欄外に【一、捕虜は処断す】の文言が見られる。これを受けて偕行社の『南京戦史』の編纂者のお一人であった畝本正己氏が、首を垂れてしまったという逸話が残っている。
そして、その欄外には【三、敵遺棄死体(概数)表】があり、13日における死体数を5,500とし、さらにその欄外に【備考、12月13日の分は処決せし敗残兵を含む】と記述されている。
この数値的なことは、ZF殿が詳しく、氏のサイトの記事【《補記9》“太平門虐殺”の真相】に精細な分析が為されている。
33連隊の戦闘詳報では、2,000名を下らずと書いているが、別の【其二下関揚子江岸戦闘】では、揚子江に浮かぶ敵兵数を1,000名を下らないとしているので、適当このうえない。
慌て者の方は、欄外に【一、捕虜は処断す】の文言で、【捕虜】を全て殺害したという方が居られるが、13日の部隊の行動を見ると速やかに【江辺車站(駅のこと)/煤炭港に接続している】に速射砲中隊(TA)を配置し、江上に浮かぶ逃走兵への掃蕩を行っている。確かに煤炭港での掃蕩作戦は、速射砲部隊(TA)のみで、将校・准士官・下士官あわせても97名のみである。其他の部隊がどのような行動をしていたかという詳細は記載されていないが、【捕虜】を取るという本来なら【勲章行為】が記載されていないので、実際に存在したのかも不明である。
この【戦闘詳報】にも名前が出てくる16師団の木佐木 久(きさき ひさし)少佐・後方参謀の偕行社の『南京戦史 史料集Ⅰ』に収載された日記にも14日から16日にはの記述はないが、10日〜13日の記述には【捕虜】の話は出てこない。後方参謀で16師団の司令部にあった下麒麟門・五顆松に中島今朝吾中将司令官と同行していて、【前線】とは異なり安定した情報が入って行くるはずが入っていない事になる。
当時の混乱した情報環境であったことも判るし、実際に部隊が掃討作戦等で敗走兵との戦闘で混乱していたことも判る。
《煤炭港の戦闘経過図》
【分析・考察】
第33連隊の戦闘詳報は、北に38連隊、南を第9連隊・第20連隊が並行し、【紫金山】という【要塞・要害】を攻略した記録であり、【一般住民】がいることはありえない。しかも多数の【一般人】は考えられない。
戦闘詳報は、【戦闘】と【戦果】の記録で、史料として重要な記述が欠落しているので、実際に3,000名近い捕虜が何時何処で鹵獲され、その後どうなったのかが書かれていない為、不明な事が多い。
良く引き合いに出される16師団長の中島今朝吾中将の日記における(偕行社『南京戦史 資料集Ⅰ』 P.326 9行目)の12日の【◎捕虜掃蕩】の【一、後に到りて知る所に…】の文面の中には、3,000名近い捕虜の話は出てこない。佐々木支隊(ほぼ38連隊の)1万5千名、太平門での1,300名、仙鶴門(司令部のあった下麒麟門より北1.6kmに位置する)で7千名とあるのみである。佐々木支隊の件は、前回の記事にも書いたが、10日と14日の重複している記述があり判然としていない。捕虜の取扱に苦慮していることは確かの様だが、12日には攻撃を受けているなど【戦闘】が収束しているわけでもないので、【捕虜】がそれほど鹵獲出来ていたかと云うことは、判然としない。路面には【地雷】などがあり、一体どこに【集結・管理】させたのか。33連隊は、紫金山攻略に追われそれどころではなく、16師団の司令部も当然ながら当事者たり得なかったのは自明のことである。又北部の38連隊も主力部隊が紫金山の丁度北側【岔路口】にいて紅山などの敵陣地の攻略で手一杯の時期である。
つまり、当時の情報が錯綜し、正確な情報に基づいた記述とは考えにくい。当時の状況に於いて相当に混乱していたことしか判らない。
数字だけが先走りして、正確性のない状況であったことが窺われる。
ましてや、これ等の【捕虜】を【武装解除後】に【殺害】したことなどは判らないし、このエリアに【一般住民】がいた事など全くいって判らない。有る無しの【可能性】ならばあるが、【蓋然性】としての【一般住民】などその高低は、全くと言って低く【ほぼ想像】の域を超えない。
《38連隊の12・13日の行動》
【参考文献・参照】
(*1)小野賢二著『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち:第十三師団山田支隊兵士の陣中日記』 全416頁 大月書店
1996年3月14日 【Amazon】
(*2)33連隊の別史料
南京附近戦闘詳報(12月10日〜14日) 【C11111198100】
其一紫金山の戦闘 【C11111197900】
其二下関揚子江岸戦闘【C11111198000】
支那事変に於ける歩兵第33連隊隷下部隊戦闘概況表【C11111198600】
(*3)偕行社『南京戦史 史料集Ⅰ』 P.413 【Link】
【参考サイト・Twitter】
ZF殿サイト及びTwitter
・《補記9》“太平門虐殺”の真相 【Link】
確かに、国際法は別として、そっちは当方も異存ありません。
ただ、一般人が居たかどうかと言う事に関して、33連隊の第2、3連隊は12月3日〜4日の間の記録がありませんのでなんとも言えないのです。
その間、井家又一日記のように武進でのこともありますので、何故残っていないのか不信はあります。
仮に住民が殺害されていても、当時の状況はほぼ不明確ですので、肯定側の主張には、反駁は出来ると考えております。