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趣味の写真をちょこちょこと

2024.10.10 六甲山系摩耶山天上寺に「アサギマダラ」を観に行ってきました

2024年10月19日 | 日記

アサギマダラ(浅葱斑、学名:Parantica sita)は、チョウ目タテハチョウ科マダラチョウ亜科に分類されるチョウの1種。翅の模様が鮮やかな大型のチョウで、長距離を移動する。

成虫の前翅長は5 - 6 cmほど。翅の内側が白っぽく、黒い翅脈が走る。この白っぽい部分は厳密には半透明の水色で、鱗粉が少ない。和名にある「浅葱(あさぎ)」とは青緑色の古称で、この部分の色に由来する。翅の外側は前翅は黒、後翅は褐色で、ここにも半透明水色の斑点が並ぶ。

オスとメスの区別はつけにくいが、オスは腹部先端にフェロモンを分泌するヘアペンシルという器官を持つ。また翅を閉じたときに、尾に当たる部分に濃い褐色斑があるものがオスである。性票であり、メスにはない。

忉利天上寺(とうりてんじょうじ)は、兵庫県神戸市灘区摩耶山町にある摩耶山真言宗の大本山の寺院。山号は佛母摩耶山。本尊は十一面観音菩薩と仏母摩耶夫人尊。

釈迦の生母である摩耶夫人を本尊とする日本唯一の寺である。通称は天上寺という。新西国三十三箇所第22番札所。

忉利天上寺は大化2年(646年)に孝徳天皇の勅願により、インドの伝説的な高僧法道仙人が開創したと伝わる。

後に空海(弘法大師)が渡唐した際、梁の武帝自作の摩耶夫人尊像を持ち帰り、同寺に奉安したことから、この山を「摩耶山」と呼ぶようになったとされる。

寺号は摩耶夫人が転生した忉利天に因むものである。鎌倉時代末期の摩耶山合戦(幕府軍対赤松氏)で知られる摩耶山城をこの寺とする説がある。

最盛期には多くの塔頭、僧坊を抱えており、最も栄えた頃は3,000人の僧を擁する摂津地方第一の大寺だったと伝わる。

宗派を越え、皇族・武将なども含め、広く信仰され、花山・正親町両天皇の御願所でもあった。

1976年(昭和51年)1月30日未明、賽銭泥棒による放火のため、仁王門や一部の塔頭・庫裏を除いて全焼した。

現在は北方約1 kmにある摩耶別山(天上寺創生の地とされる)に場所を移して再建された。

旧境内は摩耶山歴史公園として整備されており、旧伽藍の解説板などが整備されているほか、焼け残った仁王門も残されており、石垣や石段なども往時を偲ばせる。

ただ、仁王門以外の建物(庫裏など)は整備されておらず、朽ちかけている。

2020年(令和2年)4月3日高野山真言宗から独立し、新しい包括宗教法人として摩耶山真言宗を設立し、その総本山となる。

江戸時代には将軍徳川家光により摂津国の鎮護寺(護国寺)に選定され、紀州徳川家が将軍家の代参の役をつとめた。

このため天上寺の紋は、天皇家より賜った五七の桐紋と徳川家より賜った三つ葉葵紋を合わせた二種紋となっている。

アサギマダラの成虫は長年のマーキング調査で、秋に日本本土から南西諸島・台湾への渡り個体が多く発見され、

または少数だが初夏から夏にその逆のコースで北上している個体が発見されている。

日本本土の太平洋沿岸の暖地や中四国・九州では幼虫越冬するので、春から初夏に本州で観察される個体の多くは本土で羽化した個体と推測される。

秋の南下では直線距離1,500 km以上移動した個体や、1日あたり200 km以上の距離を移動した個体も確認されている。

移動の研究は、捕獲した成虫の翅の半透明部分に捕獲場所・年月日・連絡先などをマジックインキで記入(マーキング)、放蝶するという方法で個体識別を行われている。

このマーキングされた個体が再び捕獲された場所・日時によって、何日で何 km移動したか、あるいは同所で捕獲した場合何日そこに居たかが分かる。

調査のための『アサギマダラネット』のインターネットによる電子ネットワークがあり、その日のうちに移動情報が確認できることもある。

調査のための捕獲手段として、白いタオルの一方をつかんでぐるぐる回すとアサギマダラが寄ってくることが知られる。

利き手で網を持ち逆の手でタオルを回すと捕獲しやすい。

研究者達によって、夏に日本本土で発生したアサギマダラのうち、多くの個体が秋になると南西諸島や台湾まで南下することが判明したものの、

集団越冬の場所や、大量に死んでいる場所も見つかっていない。

南西諸島で繁殖、もしくは本土温暖地で幼虫越冬した個体は春の羽化後にその多くが、次の本土冷涼地での繁殖のために北上する傾向にあることが明かになった。

移動の具体的な事例として、2009年9月下旬に岐阜県下呂市で放蝶された個体が、10月12日に200km離れた兵庫県宝塚市で捕獲された。

2011年8月19日に「道南虫の会」が北海道函館市近郊の山から放蝶した「アサギマダラ」が、

2011年10月24日に山口県下関市の市立公園・リフレッシュパーク豊浦のバタフライガーデン「蝶の宿」に飛来し捕獲された。

2011年10月10日に和歌山県から放たれたマーキングしたアサギマダラが、83日後の12月31日に約2,500 km離れた香港で捕獲された。

途中高知県でも捕獲されていて、世界第二位の長距離の移動が確認された。

 


葛城古道に曼殊沙華の花を訪ねて

2024年09月20日 | 日記

葛城一言主神社
境内は祭神の一言主大神が現れた神降の地とされ、神秘的な雰囲気が漂う。正しくは葛城一言主神社。一言主神は雄略[ゆうりゃく]天皇が葛城山を訪れた際にも現れ、「吾[あ]は悪事[まがごと]も一言、善事[よごと]も一言、言離[ことさか]の神、葛城の一言主の大神なり」と名乗ったという。地元で「一言さん」と親しまれ、一言の願いなら何でもかなうと信じられている。境内には推定樹齢1200年の大イチョウや土蜘蛛[つちぐも]を埋めたとされる蜘蛛塚、松尾芭焦の句碑などもある。

大和平野の東を走る「山の辺の道」に相対するように、西の葛城連山の麓には「葛城古道」が走っています。道沿いには古代豪族の 葛城(かつらぎ)氏・鴨(かも)氏ゆかりの古社が散在し、神さびた雰囲気が漂います。 
 起点となる近鉄御所駅から西進、六地蔵石仏を目印に南へ折れると、すぐに田園風景が広がり、大和平野が一望にできます。千体石仏のある九品寺(くほんじ)から先、道は徐々に細くなりますが、そんな中、杉の巨木の間にひっそりと第2代綏靖(すいぜい)天皇の高丘宮跡(たかおかのみや)の碑が立っています。近くの葛城一言主神社は、一言ならどんな願いも叶えてくれると信仰されます。 
 趣きある古民家が多い名柄(ながら)の集落を抜け山道を登ると、橋本院に出ます。金剛山腹のこの台地一帯は、天照大神が統治した天上界 「高天原(たかまがはら)」の伝承地。特に杉の巨樹が茂る高天彦(たかまひこ)神社参道は、神秘的な雰囲気があります。 麓にある高鴨神社は全国の鴨(加茂) 社の総社。京都にある世界遺産の下鴨(しもがも)・上賀茂(かみがも)両社も、源流はこの神社にあります。参拝後は国道に下り、風の森バス停にゴールします。

ヒガンバナ)は、ヒガンバナ科]ヒガンバナ属の多年草である。

別名は曼珠沙華(マンジュシャゲ)、カミソリバナ、トウロウバナ、スイセン、アマリリスなど。学名からリコリス・ラジアータとも呼ばれる。
原産地は中国大陸であり、日本においては史前帰化植物に分類される。

分布は日本全国である。秋の彼岸(9月)の頃に、花茎の先に強く反り返った鮮やかな赤い花を咲かせ、秋の終わりに葉が伸びて翌年の初夏に枯れるという、

多年草としては特殊な性質を持っている。地下の鱗茎(球根)に強い毒性を有する有毒植物であるが、かつて救荒作物として鱗茎のデンプンを毒抜きして食べられていた。

彼岸花、曼珠沙華

日本では各地方のみで通じた異名が派生し、別名・地方名・方言は数百から1000種以上あると言われている。

葬式花(そうしきばな)、墓花(はかばな)、死人花(しびとばな)、地獄花(じごくばな)、幽霊花(ゆうれいばな)、火事花(かじばな)、

蛇花(へびのはな)、剃刀花(かみそりばな)、狐花(きつねばな)、捨て子花(すてごばな)、灯籠花(とうろうばな)、天蓋花などがその例で、

不吉な別名が多く見られる。それに加え、開花時に葉が無く花と葉を同時に見られないため、葉見ず花見ず(はみずはなみず)の別称も有する。

 

 

 


このはな万博スタンプラリーを歩いてきました

2024年09月10日 | 日記

2025年 関西万博を盛り上げる一環で、「このはな万博」も大盛り上がり!
今回、このはな万博スタンプラリーが開催中(期間:2024年10月6日[日]まで)で、チャレンジしてみた。

▲舞洲の西にあるホテル・ロッジ舞洲から 林の中を南へ行くと2025このはな万博の工事現場が望めます

▲大阪エベッサプロバスケットチームのホーム・おおきにアリーナ舞洲

▲大阪広域環境施設組合舞洲工場を見ながら常吉大橋を渡って北港マリーナへ入ります

▲ヨットハーバーの上を越えるアオサギ

▲大阪北港マリーナのシンボル・二ーケー像

▲此花スーパー堤防と伝法水門を通り伝法地区へと入ります

▲正連寺川公園の2025大阪・関西万博シンボル ミャクミャク

▲正連寺川公園の此花水龍

▲梅香地区にあるミューラルアート

▲梅香地区にあるミューラルアート