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京都 大文字の火床に行ってきました

2024年10月30日 | 日記

京都 大文字の火床に行ってきました

JR東海道本線 山科駅から山科毘沙門堂に向かって歩き始め、最初に出会うのが琵琶湖疎水です

 

琵琶湖疏水は、第1疏水(1890年に完成)と第2疏水(1912年に完成)を総称したものである。両疏水を合わせ、23.65m3/sを滋賀県大津市三保ヶ崎で取水する。

その内訳は、水道用水12.96m3/s、それ以外に蹴上発電所による水力発電、農地の灌漑、下水の掃流、工業用水などに使われる。

また、疏水を利用した水運も行われた。蹴上発電所による水力発電は通水翌年の1891年6月から運転が開始された。

これは営業用発電所として日本初であり、世界的に見ても先進的な取り組みであった。

その電力は日本初の電車(京都電気鉄道、のち買収されて京都市電)を走らせるために利用され、さらに工業用動力としても使われて京都の近代化に貢献した。

疏水を利用した水運は、琵琶湖と京都、さらに京都と伏見、宇治川を結んだ。

落差の大きい蹴上と伏見にはケーブルカーと同じ原理のインクラインが設置され、船は線路上の台車に載せて移動された。

水運の消滅に伴いインクラインはいずれも廃止されたが、蹴上インクラインは一部の設備が静態保存されている。

無鄰菴や平安神宮神苑、瓢亭、菊水、何有荘、円山公園をはじめとする東山の庭園に、また京都御所や東本願寺の防火用水としても利用されている。

吽形像

阿吽像

禊をおえて

本  堂

本尊・毘沙門天が祀られているお堂です。

徳川家寄進により建てられた本殿や唐門は日光東照宮の建築様式を色濃く受け継いでおり、通常の寺院建築にはあまり見られない鮮やかな彩色や装飾もぜひご覧ください。

 

アオサギ君の見送りを受けて

キセキレイ君もみう送ってくれました

 

山は荒れていました

 

京都タワーもよく見えました

弘法大師堂

大文字送り火は従来から護摩木に自分の名前と病名を書いて火床の割木の上に載せて焚くと、その病が癒るという信仰があります。

又消炭を持ち帰って粉末にして服すると、持病が癒るともいわれています。送り火点火前に先祖の霊や生存する人の無事息災が護摩木に記されます。

この護摩木は送り火の点火資材として当日山上ヘ運ばれ、当夜7時から山上の弘法大師堂でお灯明がともされ、大文字寺(浄土院)住職及び会員らにより般若心経があげられます。

火床は75箇所、第一画の長さは80m、第二画は160m、第三画は120mあります。

大文字の火床は、江戸初期には、杭を打ち、その杭に松明を結びつけていましたが、寛文・延宝の頃より現行の積木法にかわりました。

自然の山膚(山の斜面)に若干土盛し、大谷石を設置し、その上に薪を井桁に組んで積み重ね(高さ約1.3m)、その間に松葉を入れます。

大の中心には金尾と称して特別大きく割木を組んで入れて点火します。

大文字で一番大きな火床です 一画、二画の交点であり三画目の打ち込みになります

毎年8月16日には美しく燃え上がります

その後このお灯明を親火に移し、合図により一斉に送り火が点火されます。

大文字は市内中心部のどこからでも眺望できる位置ですが、足利家が最も眺めのよいように―条通を正面にした、京都御所の池泉にうつるようにしたなど、諸説があります。

ここは三画目の払いの火床になります


三田市の波豆川にコスモスを観に行ってきました

2024年10月19日 | 日記

コスモス(学名:Cosmos)は、キク科コスモス属の総称。また、種としてのオオハルシャギク Cosmos bipinnatus Cav. を指す場合もある。アキザクラ(秋桜)とも言う。

一年生植物の草本。茎は高さ2 - 3mになり、よく枝を出す。葉は対生で二回羽状複葉。細かく裂け、小葉はほぼ糸状になる。頭花は径6 - 10cm、周囲の舌状花は白から淡紅色、あるいは濃紅色。

中央の筒状花は黄色。葯は黄褐色。通常は舌状花は8個。開花期は秋で、短日植物の代表としても知られる。

 

秋に桃色・白・赤などの花を咲かせる。花は本来一重咲きだが、舌状花が丸まったものや、八重咲きなどの品種が作り出されている。

本来は短日植物だが、6月から咲く早生品種もある。

熱帯アメリカ原産。1789年、メキシコからスペインのマドリード王立植物園に送られ、1791年にアントニオ・ホセ・カヴァニレスによってCosmosと名づけられた。

日本には1879年(明治12年)に渡来した。これは美術学校の教師ラグザーがイタリアから持ち込んだものである。秋の季語としても用いられる。

観賞用に栽培される。 日当たりと水はけが良ければ、やせた土地でもよく生育する。

景観植物としての利用例が多く、河原や休耕田、スキー場などに植えられたコスモスの花畑が観光資源として活用されている。

ただし、河川敷の様な野外へ外来種を植栽するのは在来の自然植生の攪乱(かくらん)であり、一種の自然破壊であるとの批判がある。

観賞用のほか食用品種(食用コスモス)もある。

 

 

 

 

 


2024.10.17 大阪府を流れる「淀川を散歩してきました」

2024年10月19日 | 日記

淀川(よどがわ)は、大阪湾に注ぐ日本の一級河川。

滋賀県、京都府および大阪府を流れる淀川水系の本流である。琵琶湖から流れ出る唯一の河川である瀬田川(せたがわ)が宇治川(うじがわ)、淀川と名前を変える。

流路延長75.1 km、流域面積8,240 km2。なお、先述の流路延長は琵琶湖南端よりの延長であり、河口から最も遠い地点は滋賀県・福井県の分水嶺である栃ノ木峠であり、淀川の源の石碑が設置されている。

敦賀駅より北に位置するこの場所は琵琶湖へ流入する河川・高時川の水源地であり、そこからの河口までの直線距離は約130 km、流路延長に換算すると約170 kmとなる。

瀬戸内海に流入する河川の中で流域面積が最も広く、流域人口は西日本で最も多い。

また琵琶湖に流入する河川や木津川などを含めた淀川水系全体の支川数は965本で日本一多い。

第2位は信濃川(880本)、第3位は利根川(819本)となっている。大津市で琵琶湖から流れ出る。ここでは瀬田川と呼ばれる。

京都府に入る辺りで宇治川と名を変え、さらに京都府と大阪府の境界付近、大山崎町で桂川・木津川と合流する。

この合流地点より下流が狭義での淀川となる。その後も大阪平野をおおむね南西に流れ、大阪市で大阪湾に注ぐ。

都島区付近で旧淀川と分流し、以降の本流を新淀川と称する場合もある。旧淀川は大川・堂島川・安治川と名前を変えて大阪湾に注ぐ。

なお、河川法上では琵琶湖が淀川の水源としている。したがって、琵琶湖より流出する瀬田川・宇治川は法律上では淀川本流である。

また、琵琶湖に注ぐ全ての河川も、水系では淀川水系として扱われる。さらに、派川(分流)である神崎川に合流する安威川・猪名川などの河川も淀川水系として包括される。

江戸時代までは大和川も淀川に合流していたが[注釈 2]、付け替えによって本流が分離され、現在は独立した水系として扱われている。

ただし、大和川の旧本流である長瀬川、および平野川が現在でも大和川から分流し、第二寝屋川・寝屋川を経て旧淀川に合流している。

大阪市域は海が近いため地下水には塩気があり、江戸時代には淀川の水が飲料水として使われた。

2001年時点では、水環境の研究者の目線で言えば大阪の水は京都の水と同じくまずい水の最右翼に入るとされているが、天明年間など江戸時代には水は京か大坂かともてはやされていた。

「瀬田川」は瀬田、「宇治川」は宇治、「淀川」は巨椋池の出口にある淀(川が緩んでできた淀みを意味)など、沿岸の地名に由来する。

 


2024.10.10 六甲山系摩耶山天上寺に「アサギマダラ」を観に行ってきました

2024年10月19日 | 日記

アサギマダラ(浅葱斑、学名:Parantica sita)は、チョウ目タテハチョウ科マダラチョウ亜科に分類されるチョウの1種。翅の模様が鮮やかな大型のチョウで、長距離を移動する。

成虫の前翅長は5 - 6 cmほど。翅の内側が白っぽく、黒い翅脈が走る。この白っぽい部分は厳密には半透明の水色で、鱗粉が少ない。和名にある「浅葱(あさぎ)」とは青緑色の古称で、この部分の色に由来する。翅の外側は前翅は黒、後翅は褐色で、ここにも半透明水色の斑点が並ぶ。

オスとメスの区別はつけにくいが、オスは腹部先端にフェロモンを分泌するヘアペンシルという器官を持つ。また翅を閉じたときに、尾に当たる部分に濃い褐色斑があるものがオスである。性票であり、メスにはない。

忉利天上寺(とうりてんじょうじ)は、兵庫県神戸市灘区摩耶山町にある摩耶山真言宗の大本山の寺院。山号は佛母摩耶山。本尊は十一面観音菩薩と仏母摩耶夫人尊。

釈迦の生母である摩耶夫人を本尊とする日本唯一の寺である。通称は天上寺という。新西国三十三箇所第22番札所。

忉利天上寺は大化2年(646年)に孝徳天皇の勅願により、インドの伝説的な高僧法道仙人が開創したと伝わる。

後に空海(弘法大師)が渡唐した際、梁の武帝自作の摩耶夫人尊像を持ち帰り、同寺に奉安したことから、この山を「摩耶山」と呼ぶようになったとされる。

寺号は摩耶夫人が転生した忉利天に因むものである。鎌倉時代末期の摩耶山合戦(幕府軍対赤松氏)で知られる摩耶山城をこの寺とする説がある。

最盛期には多くの塔頭、僧坊を抱えており、最も栄えた頃は3,000人の僧を擁する摂津地方第一の大寺だったと伝わる。

宗派を越え、皇族・武将なども含め、広く信仰され、花山・正親町両天皇の御願所でもあった。

1976年(昭和51年)1月30日未明、賽銭泥棒による放火のため、仁王門や一部の塔頭・庫裏を除いて全焼した。

現在は北方約1 kmにある摩耶別山(天上寺創生の地とされる)に場所を移して再建された。

旧境内は摩耶山歴史公園として整備されており、旧伽藍の解説板などが整備されているほか、焼け残った仁王門も残されており、石垣や石段なども往時を偲ばせる。

ただ、仁王門以外の建物(庫裏など)は整備されておらず、朽ちかけている。

2020年(令和2年)4月3日高野山真言宗から独立し、新しい包括宗教法人として摩耶山真言宗を設立し、その総本山となる。

江戸時代には将軍徳川家光により摂津国の鎮護寺(護国寺)に選定され、紀州徳川家が将軍家の代参の役をつとめた。

このため天上寺の紋は、天皇家より賜った五七の桐紋と徳川家より賜った三つ葉葵紋を合わせた二種紋となっている。

アサギマダラの成虫は長年のマーキング調査で、秋に日本本土から南西諸島・台湾への渡り個体が多く発見され、

または少数だが初夏から夏にその逆のコースで北上している個体が発見されている。

日本本土の太平洋沿岸の暖地や中四国・九州では幼虫越冬するので、春から初夏に本州で観察される個体の多くは本土で羽化した個体と推測される。

秋の南下では直線距離1,500 km以上移動した個体や、1日あたり200 km以上の距離を移動した個体も確認されている。

移動の研究は、捕獲した成虫の翅の半透明部分に捕獲場所・年月日・連絡先などをマジックインキで記入(マーキング)、放蝶するという方法で個体識別を行われている。

このマーキングされた個体が再び捕獲された場所・日時によって、何日で何 km移動したか、あるいは同所で捕獲した場合何日そこに居たかが分かる。

調査のための『アサギマダラネット』のインターネットによる電子ネットワークがあり、その日のうちに移動情報が確認できることもある。

調査のための捕獲手段として、白いタオルの一方をつかんでぐるぐる回すとアサギマダラが寄ってくることが知られる。

利き手で網を持ち逆の手でタオルを回すと捕獲しやすい。

研究者達によって、夏に日本本土で発生したアサギマダラのうち、多くの個体が秋になると南西諸島や台湾まで南下することが判明したものの、

集団越冬の場所や、大量に死んでいる場所も見つかっていない。

南西諸島で繁殖、もしくは本土温暖地で幼虫越冬した個体は春の羽化後にその多くが、次の本土冷涼地での繁殖のために北上する傾向にあることが明かになった。

移動の具体的な事例として、2009年9月下旬に岐阜県下呂市で放蝶された個体が、10月12日に200km離れた兵庫県宝塚市で捕獲された。

2011年8月19日に「道南虫の会」が北海道函館市近郊の山から放蝶した「アサギマダラ」が、

2011年10月24日に山口県下関市の市立公園・リフレッシュパーク豊浦のバタフライガーデン「蝶の宿」に飛来し捕獲された。

2011年10月10日に和歌山県から放たれたマーキングしたアサギマダラが、83日後の12月31日に約2,500 km離れた香港で捕獲された。

途中高知県でも捕獲されていて、世界第二位の長距離の移動が確認された。

 


野鳥の「コマドリ」です

2024年10月16日 | 野鳥

コマドリ(駒鳥、Luscinia akahige)は、鳥綱スズメ目ヒタキ科コマドリ属に分類される鳥類。
中華人民共和国南部、日本、樺太南部、南千島に分布。
夏季に日本やサハリン、南千島で繁殖し、冬季になると中華人民共和国南部へ南下し越冬する。日本では夏季に繁殖のため九州以北に飛来(夏鳥)する。

全長13.5-14.5センチメートル。体重13-20g。嘴の色彩は黒い。後肢の色彩は薄橙色。

幼鳥は嘴の基部から口角にかけて黄色みを帯びる。オスは頭部から上胸にかけての羽衣が橙がかった赤褐色。体上面の羽衣や尾羽、翼は橙褐色。

メスは頭部から上胸、上面が橙褐色、下胸から腹部にかけての羽衣が灰色で、上胸と下胸の色彩の境目が不明瞭。


オスの成鳥は上胸と下胸の境目に黒い横縞が入り、下胸から腹部にかけての羽衣は暗灰色

亜高山帯の渓谷や斜面にあるササなどの下草が生い茂った針葉樹林や混交林、亜種タネコマドリは照葉樹林にも生息する

食性は動物食で、主に昆虫を食べる。低木の樹上や地表で獲物を捕食する

繁殖形態は卵生。崖の下など目立たない場所に木の枝や葉を使って巣を作る

3-5個の卵を産む。抱卵期間は12-14日で、雌が抱卵する。雛は12-14日で巣立つ。ジュウイチに托卵の対象とされることもある

「ヒンカラカラ」と囀る。囀りが馬(駒)の嘶きのように聞こえることが和名の由来である

ウグイスやオオルリと共に日本三鳴鳥の1つとされる。開発による生息地の破壊、

人為的に移入されたニホンイタチによる捕食(三宅島)などにより生息数は減少している