中学生 勉強が得意になる

しばらくは歴史に強くなるをテーマにやります

日本の美術の価値を教えてくれた フェノロサ

2023-09-17 16:06:06 | 歴史が得意になる

 

フェノロサ

 

前回も書きましたが、明治になって西洋文化がどんどんと受け入れられると、古い日本の文化は価値がないように考えてしまいました。それと明治になるときに、神社を中心にして、外から受け入れた仏教を排除しようという動きから、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)というお寺やそこにあるものを排除しようとしました。そのためにお寺やそこにまつられた仏像などがこわされ、無くなってしまうことがありました。

こうした風潮の中、日本にお雇い外国人教師、つまり西洋の文化、学問を日本に導入するために雇われた外国人教師の中にアーネスト・フェノロサがいました。フェノロサはアメリカのボストンの郊外のセーラムという町の出身で、ボストンのハーバード大学で学びました。セーラムは魔女の町として有名ですが、そこから考古学者モースがすでに日本に来ていて、彼の推薦でフェノロサが呼ばれたのだと思われます。セーラムにはモースのコレクションを飾った博物館もあります。

フェノロサは政治学や哲学を学び、美術の専門家ではありませんでしたが、日本に住むうちに日本の美術に関心を持ち、美術とは何かということを講演しました。それまで日本には美術という考えや観念がありませんでした。

そして、日本の伝統的な美術を調査して、その優れた点を指摘しました。法隆寺で金堂の秘仏を調査するのに寺の僧が「秘仏を開けると雷神がお怒りになる」と言っても、フェノロサは政府の任務だといって強引に開封させるとそこには美しい観音像(救世観音)が包まれていました。

フェノロサと一緒に調査を行い、美術学校の建設に力を尽くしたのは岡倉天心でした。天心は古代の服装に身を包み、馬で学校に通いました。

フェノロサは帰国し、天心もスキャンダルで学校を追放されることがありましたが、彼らがいなければ日本の美術の価値は早く見出だされなかったと思います。


ゴッホの目は確か 浮世絵

2023-09-16 10:15:14 | 歴史が得意になる

ゴッホが写した広重の江戸名所百景・亀戸梅屋舗

 

今では日本の美術を代表する存在の浮世絵ですが、明治になると西洋の文化を大事にして、古いつまらないものと思われるようになりました。

しかし、海の向こうヨーロッパで、その価値を深く理解してくれる人がいました。その一人がヴィンセント・ヴァン・ゴッホです。

浮世絵を手に入れて、その構成、彩色、表現を愛してくれました。自ら浮世絵を写した作品がいくつもあります。

日本の浮世絵は明治になる以前、すでに1855年のパリ万国博覧会に一部参加していましたが、1867年の二回目のパリでの万国博覧会では正式に参加して、日本の文物が紹介されました。そのなかに浮世絵も含まれています。1872年のウィーン万国博覧会ではグッズの販売も行われ、浮世絵も販売されたようです。

ゴッホはパリのサミュエル・ピングの店で浮世絵を安く(数百円)で手に入れ、友人と交換するなど楽しんでいました。ゴッホの浮世絵コレクションは現在のこされているもので500点ほどで、そのほかに100点以上持っていたといわれます。

ゴッホにとって浮世絵はどのような存在でしょう。

ゴッホの絵はほかの印象派の画家のような遠近感、奥行きを感じさせません。また、着色が強烈でおどろかされます。黄色を多く使うので視力に問題があるのでは、と考える人もいますが、浮世絵の写しなどの彩色は正確です。

このようなゴッホの絵の特徴が当時は弱点のようにも思われましたが、浮世絵の深い理解が今日の高いゴッホの評価につながるのだと思います。


ペリー来航より先にアメリカに渡った日本人 万次郎

2023-09-15 10:00:03 | 歴史が得意になる

1853年、浦賀にマシュー・ペリー率いるアメリカの東インド艦隊4隻(うち2隻が蒸気船)が入港しました。

その10年前に土佐(高知)の中浜(なかのはま?)に生まれた万次郎は、アメリカに初めて渡った日本人でした。万次郎は井伏鱒二の小説でジョン万次郎として知られます。

14歳で漁船に乗った万次郎は、足摺岬沖で難破して、伊豆諸島の鳥島へ漂着します。そのときにアメリカの捕鯨船に助けられ、ハワイへ行きます。その後、捕鯨船に乗り組み、世界各地を回り、1843年にマサチュウーセッツ州ニューベッドフォード(東海岸のボストンのやや南)に帰港しました。

捕鯨船の乗組員やゴールドラッシュのカリフォルニアで坑夫としてはたらき、1851年琉球から薩摩へ渡り、長崎での訊問を終えて、故郷高知へ帰りつきました。

1853年にペリーが来航すると、江戸に呼ばれてアメリカについて助言をしました。そののち1860年に福沢諭吉らの遣米使節の一員となって、同行しました。

明治になる前にすでに日本はアメリカやヨーロッパに使節を送っていました。

万次郎はアメリカで言語や民主主義など近代の文化を学び、日本の近代化に一役を担ったのです。

それにしてもペリーが来航したのも、万次郎が助かったのも捕鯨のためだったというのが、今の捕鯨反対の風潮からは考えにくいですね。

 


間宮林蔵と伊能忠敬

2023-09-13 20:35:48 | 歴史が得意になる

樺太が島であることを突き止めた間宮林蔵は、伊能忠敬(ただたか)の晩年に師事した。

林蔵は自分が探検した場所を確かに記録したいと思い、忠敬は彼に地図測量を教えた。

林蔵はなかなか野趣あふれる人柄で多くの人は避けがちだったが、忠敬は彼を好み弟子として慈しんだ。林蔵も晩年の忠敬の体を心配して卵を送るなどして子弟の情を交わしたようだ。

林蔵は北のアイヌたちの支援を得て、樺太までの極寒の地の調査を行った。それは幕府の命によるものであったが、ほかのものではできなかったことであった。

忠敬は50歳まで家業を務めたが、西洋の地理測量を学んで日本の正確な地図を制作した。

二人の立場は異なっていたが、日本の地形を正確に知るために大きな働きをしたことに間違いない。

しかし、忠敬の測量した正確な日本地図をオランダ人医師シーボルトに渡したとして、測量の上司高橋景保が捕まり獄死した。(シーボルト事件)

これは林蔵が密告したといわれていたが、どうも同僚の最上徳内の仕業だったといいます。そのため忠敬の仕事を継承することが難しくなったようです。

二人は探検や測量に人生をかけた人たちでした。


関東のサツマイモのルーツは? 

2023-09-12 09:14:04 | 歴史が得意になる

画像お借りしました

 

徳川吉宗が重用した学者、青木昆陽はサツマイモを植えさせたことで知られます。

やせた土地でも育つサツマイモは荒れ地に植えて、飢饉に備えることが出来ると考えたのです。

原種は中央アメリカらしいのですが、大航海時代の行き来によって、中国にもたらされたものが、琉球~薩摩(鹿児島)に伝わりました。それを徳川吉宗の命で、江戸小石川で育て、各地へ広がったとされます。

青木昆陽は江戸の魚屋の子として生まれますが、もとは蒲生氏の一族と伝えています。蒲生氏郷の一族は江戸時代初期に断絶となって、家臣は浪人となりました。

春日局のあとを継いだ祖心尼の夫町野氏も蒲生家の家臣で、江戸に出てきたところを奥さんの方が大奥にスカウトされたということがありました。そのために町野氏も幕臣となったようです。

青木昆陽が幕府に登用されたのは南町奉行大岡越前守の推薦だったようです。犯罪者ばかりでなくすぐれた人も見抜いたのでしょう。

青木昆陽はサツマイモで有名ですが、長崎に行ってオランダ学を学び、その門下から「解体新書」を出版した前野良沢を出しています。