フェノロサ
前回も書きましたが、明治になって西洋文化がどんどんと受け入れられると、古い日本の文化は価値がないように考えてしまいました。それと明治になるときに、神社を中心にして、外から受け入れた仏教を排除しようという動きから、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)というお寺やそこにあるものを排除しようとしました。そのためにお寺やそこにまつられた仏像などがこわされ、無くなってしまうことがありました。
こうした風潮の中、日本にお雇い外国人教師、つまり西洋の文化、学問を日本に導入するために雇われた外国人教師の中にアーネスト・フェノロサがいました。フェノロサはアメリカのボストンの郊外のセーラムという町の出身で、ボストンのハーバード大学で学びました。セーラムは魔女の町として有名ですが、そこから考古学者モースがすでに日本に来ていて、彼の推薦でフェノロサが呼ばれたのだと思われます。セーラムにはモースのコレクションを飾った博物館もあります。
フェノロサは政治学や哲学を学び、美術の専門家ではありませんでしたが、日本に住むうちに日本の美術に関心を持ち、美術とは何かということを講演しました。それまで日本には美術という考えや観念がありませんでした。
そして、日本の伝統的な美術を調査して、その優れた点を指摘しました。法隆寺で金堂の秘仏を調査するのに寺の僧が「秘仏を開けると雷神がお怒りになる」と言っても、フェノロサは政府の任務だといって強引に開封させるとそこには美しい観音像(救世観音)が包まれていました。
フェノロサと一緒に調査を行い、美術学校の建設に力を尽くしたのは岡倉天心でした。天心は古代の服装に身を包み、馬で学校に通いました。
フェノロサは帰国し、天心もスキャンダルで学校を追放されることがありましたが、彼らがいなければ日本の美術の価値は早く見出だされなかったと思います。