中学生 勉強が得意になる

しばらくは歴史に強くなるをテーマにやります

暴れん坊将軍は、開化的?

2023-09-10 18:09:56 | 歴史が得意になる

暴れん坊将軍として有名な徳川吉宗は、1720年、洋書輸入の禁をゆるめました。幕府の学者青木昆陽と医者野呂元丈を長崎に派遣して西洋の書を学ばせました。

そのころオランダ語を学んでいた長崎の通訳は本を読んではいけないことになっていましたが、これも許可したそうです。

この青木昆陽の弟子が、前野良沢、杉田玄白たちで、彼らは1771年に「解体新書」を翻訳出版しました。洋書の翻訳出版の最初でした。

1800年代になると、オランダよりもフランスやイギリスが勢力をのばすとフランス語やイギリス語の学習が盛んになりました。そのほかロシア語の学習も行われました。

1811年、幕府は天文学や医学を研究する天文台(研究所)に蛮書和解御用方をもうけて、外国語研究をすすめました。これは洋楽所~蕃書調所~洋書調所と名前を変えて、さらに1863年には開成所となりました。すなわち、のちの東京大学、東京外国語大学のもとになります。

日本は鎖国政策をとりましたが、吉宗以来、西洋の文化への関心をもって、研究をしていたのですね。


信念の人 高山右近

2023-09-06 17:32:39 | 歴史が得意になる

画像お借りしました

 

高山右近は若いころスーパースターだったと思われます。

いくさに行っては戦勝を上げ、茶は千利休の弟子、そのほか文芸にも優れたようです。いわゆる文武両道です。そして、彼はキリスト教に入信します。仲の良い蒲生氏郷や牧村利貞といったやはり茶にも関心のある武将にも入信をすすめました。

しかし、豊臣秀吉にしたがって九州へ下った時に、秀吉が伴天連禁止令(キリスト教の布教を禁じる命令)を出して、従わなかったために領地を没収され追放されてしまいます。

右近は絶大な権力を持った秀吉にわびることがなかったのです。右近は北国前田家に預けられます。最初はひどい待遇で、失望したようですが、それは前田利家が右近をまもるためにわざとひどい待遇にしたようです。

その後は25年以上前田家にとどまります。しかし、江戸時代になって徳川の世になり、いよいよキリシタンが取り締まられるようになると、右近は改宗することなく長崎に送られます。

そして、マニラ(フィリピン)に送られて、まもなく病気で亡くなりました。

その後、まもなくして天草島原の乱がおこり、キリシタンはことごとく排除されようになりました。

 


運命の人 ガラシャ夫人

2023-09-04 09:37:04 | 歴史が得意になる

画像お借りしました

ガラシャ夫人は細川忠興の奥さんです。玉子、玉、珠などと名前が記されますが、「たま」と呼ばれていたのではないでしょうか。

父親は明智光秀です。政略結婚という言葉がありますが、戦国時代の家をつなぐ道具として結婚が使われ、女性が犠牲となりました。

明智光秀がお父さんなので本能寺の変で光秀が織田信長を倒して、その後が大変でした。光秀ばかりでなく一族が処刑されてしまいます。光秀が信長攻略を誘いますが、細川忠興やその父親の幽斎はその誘いに乗りませんでした。また、本能寺の変の後にたまを離縁して、丹後の山に数年閉じ込めたといいます。これは残酷なようですが、たまの命を守るため、また、細川家の関係を断つために必要なことだったかもしれません。

たまと忠興は復縁して、また夫婦になります。たまはキリスト教に関心を持ちました。これを光秀に信仰があったという説もありますが、たまと親しかった侍女の清原いと、という人は父親が漢学者の清原技賢でありながら、なぜかキリシタンだった人の娘だったようです。いとは丹後にかくまわれたときに一緒でした。おそらく彼女からキリスト教のことを知ったのではないかと思います。

たまは教会に行ってみたいと思っていましたが、屋敷から出ることを許されず、忠興が秀吉に従って九州へ下っているときに一日だけ大坂の教会へ行くことが出来ました。そこで布教師の話を聞いて、洗礼を受けたいと願い出ましたが、断られます。秀吉の配下の女性と思われたようです。もう外へ出ることが出来ないたまは、代理による洗礼を受けます。これは神父に代理の人を出して洗礼を受けるというものです。この代理にはいとが受けました。たまはガラシャという洗礼名をもらいました。しかし、夫の忠興には黙っていました。

ガラシャの最後は、忠興が徳川家康に従って、上杉とのいくさに出た時でした。大坂城にいる石田三成が人質として出頭するよう求めてきたのです。三成は諸将の奥さんを人質として集めようとしましたが、その最初に細川家をえらびました。

ガラシャは屋敷を出ないで、神のもとへ旅立つことを決めました。キリシタンは自害できないので、近臣の小笠原少斎に介錯(かいしゃく)して、屋敷に火をつけるよう命じました。これには清原いとも従いました。ガラシャは死に、屋敷は焼けてしまいます。

その行いは貞女の鑑(かがみ)として、周りからたたえられましたが、戦国の女性の運命のはかなさを感じます。

 


宮本武蔵はひきょうもの?

2023-09-02 10:52:05 | 歴史が得意になる

宮本武蔵は剣豪として知られます。

一人で吉岡一門を相手にして勝つなど、非常に強いイメージがあります。

そのなかでも有名なのが関門(山口県の下関と福岡県の門司)の島で行われた巌流島の決闘です。

吉川英治の小説でとても有名で、映画にも描かれますが、わざと試合の時間に遅れて、相手の佐々木(巌流)小次郎をいらだたせて、小次郎の三尺(1mくらい)の長い刀に負けないよう船のかじを削って木刀にして小次郎にダメージを与えた。

というものですが、木刀では致命傷にはならなかったので、ほんとうは加勢の供を連れてはならないのに弟子たちが小次郎を死に至らしめたというのです。

歴史家はどうして江戸時代に入って(1612年頃)、このような果し合いが細川藩のもとで行われたのか、不思議に考えています。

両者は藩の剣の指南役で二人が争った上の決闘だとか考えられますが、武蔵は後に細川藩に召し抱えられますが、この時はそうではないようです。佐々木小次郎もよくわからない人で、福岡添田の人だとか、墓のある山口県阿武郡の人などとされます。

近年、確認された細川藩家老の沼田氏の記録に、巌流島の決闘のあと小次郎の門人が武蔵を追ってきたときに沼田氏を頼って来たので、豊後杵築にいる武蔵の父無二のもとへ送ったと書いているそうです。

つまりこの沼田氏が小次郎を倒すために武蔵を使ったというのが事実のようです。

なぜこのようなことをしたのか?

小次郎の妻はキリシタンだという説があります。キリシタンの剣の指南を藩内に置いておきたくないという考えで、そのころ剣豪として知られた武蔵を使ったのではないでしょうか。

藩の外の人が見ない離れ島で木刀で倒して、命を奪うというのは計画として周到で、武蔵だけで行える仕業ではないようです。

ちょうどこのころ幕府のキリシタン禁制が再度出されて、藩主の細川忠興は領内の棄教・改宗を進めているときでした。

でも実は、忠興の兄弟やこどもにキリシタンがいたのです。ちなみに忠興の奥さんは有名な細川ガラシャです(この時には亡くなっています)。


温故知新 やまと心 もののあはれ

2023-08-31 10:30:44 | 歴史が得意になる

本居宣長 画像お借りしました

 

多くの文化人、のちにいう科学者が長崎を目指したのと反対に、古典の言葉の世界に身をおきながら、そのことばの用例に気を配ったのが本居宣長であろう。

宣長は源氏物語を読んで、「もののあはれ」ということばにしめされる、その時の人の心を尊重した。

そして、そこから日本本来の感情、心をよみとるということを行った。さらにこれは万葉集の詩歌を読むことでさらに高まった。

というような内容を小林秀雄氏が言及している。

古典の物語や詩歌にその時代の人々の、感情(あはれ)を読みとるという現代人には困難な作業であるが、そこに「やまとだましひ(魂)」を感じるということを重視した。

宣長は契沖を「やまとだましひ」なる人とよび、在原業平の歌をひいて、

つひにゆく 道とはかねて 聞きしかど きふけふ(昨日今日)とは おもはざりしも

とこれが人の「まことの心」であるとしたことを共感している。

これは業平のいわば辞世の歌で、のちの世の「ことごとしき」詩歌、つまり漢語を用いたはなばなしい気取りや見栄もないとする。

無論、漢語や修辞を非難するのではなく、そこに日常のすなおな感情があると認めたのである。