暴れん坊将軍として有名な徳川吉宗は、1720年、洋書輸入の禁をゆるめました。幕府の学者青木昆陽と医者野呂元丈を長崎に派遣して西洋の書を学ばせました。
そのころオランダ語を学んでいた長崎の通訳は本を読んではいけないことになっていましたが、これも許可したそうです。
この青木昆陽の弟子が、前野良沢、杉田玄白たちで、彼らは1771年に「解体新書」を翻訳出版しました。洋書の翻訳出版の最初でした。
1800年代になると、オランダよりもフランスやイギリスが勢力をのばすとフランス語やイギリス語の学習が盛んになりました。そのほかロシア語の学習も行われました。
1811年、幕府は天文学や医学を研究する天文台(研究所)に蛮書和解御用方をもうけて、外国語研究をすすめました。これは洋楽所~蕃書調所~洋書調所と名前を変えて、さらに1863年には開成所となりました。すなわち、のちの東京大学、東京外国語大学のもとになります。
日本は鎖国政策をとりましたが、吉宗以来、西洋の文化への関心をもって、研究をしていたのですね。
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