中学生 勉強が得意になる

しばらくは歴史に強くなるをテーマにやります

ダ・ビンチと雪舟は同時代の人

2023-07-31 09:25:03 | 歴史が得意になる

ルーブル美術館のモナ・リザ

雪舟は1420年から1506年ころまで生きていた。レオナルド・ダ・ビンチは1452年から1519年までということで、ほぼ同じ時代を生きています。雪舟のほうが早く生まれていますが、中国へ行ったのが48歳、山口でアトリエを持ったのが67歳なので、制作時期は重なっています。

 といっても二人に共通したり、ほかに比べるものは少ないのですが、世界の東西で芸術の天才が活動していたのは興味がわきます。

レオナルド・ダ・ビンチ(ビンチ村のレオナルド)はヨーロッパの大きな文化活動ルネサンスの造形やその理論に大きく寄与します。これはみなさんご存じだと思います。

では、雪舟は?

日本では芸術家自身が注目されますが、その後、桃山時代(文化の上で言う時代区分)に大きく花開く芸術活動の発端を切り開いたのではないかと思います。

雪舟が描いた天橋立図はそれまで日本ではあまり描かれなかった高所から見下ろしたような図で、花鳥図は大きな鳥や樹木を画面いっぱいに描き出すのちの狩野派が障壁画で用いた手法でした。

日本絵画が理知的な構成や視点を持てたのは雪舟のおかげであった気がします。

雪舟 天橋立図


一休さんはどんな人?

2023-07-30 08:59:15 | 歴史が得意になる

アニメで有名な一休さんは実在の人です。

幼いころのことはアニメのようだったかわかりませんが、後小松天皇の子で母の顔を知らないという設定もうなづけます。

ほんとうに天皇の子だったか疑う人もいますが、一休さんのお墓は宮内庁が管理して皇族の一人として扱っています。

髪の毛を伸ばしたり、刀を持って街を歩いたり、女性を身近に置くなど禅僧としては特別の存在でした。

大徳寺の住職につくけれども、三門をくぐってそのまま外に出たとも言います。

無茶苦茶な性格のように見えますが、若い時は自分の師匠華叟(かそう)禅師のために滋賀の堅田の寺で仕えます。華叟は大徳寺が嫌で、この寺に来たのですが、一休は師を養うために、毎日十里の道を比叡山を越えて京都でアルバイトをしたそうです。

 堅田 浮御堂

そして、一休の兄弟子、養叟が大徳寺の住職になると猛烈に批判します。正義感が強く、世におもねる者を許せないのです。

一休さんは人間的で正直な人だったのです。

禅宗は師匠と弟子の関係が重要ですが、自分は弟子を取らない、後継者はいないと公言しました。

禅僧のあるべき姿を追及した人だったと思います。


雪舟はほとんど京都にいなかった

2023-07-29 12:20:34 | 歴史が得意になる

 秋冬山水図 冬

日本でもっとも有名な画家雪舟

備前(岡山)で生まれて、京都相国寺、東福寺など五山にのぼり、禅僧となって、絵を描きました。寺では知客(しか)という低い身分で外の人を案内するような役でした。

山口へ下り、中国行きを目指しましたが、実際に遣明船に乗ったのは48歳という歳でした。中国では1,2年の滞在で、山口にすぐ戻ることが出来ず、大分などに滞在しました。やっと山口で雲谷庵というアトリエが持てたのは67歳のときです。その後も京都に戻ることはなく、西国で生涯を終えました。

ですから当時の京都の人がどれほど雪舟のことを知っていたのかはあまりわかりません。

でも、それまでのデリケートな禅宗絵画から力強い水墨表現を生み出し、中国で学んだであろう、自然を目に見えるように描いていく新しい絵画は、その後の狩野派の展開に大きな影響をあたえたと思います。

 雪舟像


室町時代 よく見る建造物  

2023-07-29 10:26:02 | 歴史が得意になる

 鹿苑寺(ろくおんじ) 金閣

中世(鎌倉時代~室町時代)の建造物の中で、もっともよく出題されます。誰もが知っている金閣(以前は金閣寺と言っていましたが、北山鹿苑寺という相国寺の関連のお寺です。相国寺のHPに金閣寺と載っているのでそう呼んでも良いのでしょう)。

壁や軒に金箔がくまなく張られて、まさに金に輝く建築です。

3階は釈迦の骨(舎利)はまつられている禅宗建築様式、2階は武家屋敷、1階は平安時代の寝殿造りの様式とさまざまな様式を織り交ぜています。

もとは西園寺邸という貴族の館だったのを改装したためと思われますが、金箔張りは足利義満の趣味であったと思います。

義満は中国明との貿易を盛んに行い、すぐれた美術品なども集めました。

この金閣と比較されるのが、銀閣ですね。

八代将軍足利義政が東山に建てた建築は、2階建てですが、金箔も張らず、質素な印象です。その敷地にある東求堂の同仁斎という部屋は書院造という書斎の様式です。

将軍が勉強部屋にいるのか?

と思うかもしれませんが、中国の文人文化にならって、ただものを集めるのではなく、詩を読み、絵に親しむという生活を行ったものです。

そこに書画や工芸品を飾り、花を生けるという習慣が出来たと思います。

 東求堂 同仁斎


元寇防塁を見てみると

2023-07-28 09:40:56 | 歴史が得意になる

 福岡市の元寇防塁

福岡市の西部には元寇防塁と呼ばれる石を積み上げた塀がのこります。

鎌倉時代、元(モンゴル)と高麗軍がこの地を襲います。

この2~3mほどの防塁で防げたのでしょうか?(第1回の後造られ、実際には使われてないようです)

これが博多湾の多くの海岸に作られ、総長20㎞ほどに及んだようです。

元軍の一部は筥崎から10㎞ほども侵入したようで、被害も多かったと思います。

元軍が海上の船に戻ったり、暴風が起こり、侵略を何とか免れましたが、その恐怖はこの土地に「ムクリ、コクリ(蒙古、高麗)」という言葉に残っています。

元軍が「てつはう(鉄砲)」を用いたのに、日本軍は馬に乗り、名乗りを上げ、刀で応戦するというむかしながらの戦法で、とうていかなわないと思いましたが、戦賞を要求するような戦いをしたのでしょう。

このころ、モンゴルはフビライハーンが統治する時代で、ベネツイアからマルコポーロが中国(都は今のモンゴル)に来ていました。1275年に来たというので、ほぼ元寇の時期にいたことになります。

日本を襲った記事はなく、黄金にあふれて豊かな国だと「東方見聞録」に書いています。もちろん人の話を聞いて書いたのでしょうが、日本では国を揺るがす大事のときにのんきな話だと思ってしまいます。

博多の地は以後も外敵への警戒を怠らないようにしました。

竹崎季長絵詞