中学生 勉強が得意になる

しばらくは歴史に強くなるをテーマにやります

長崎は今日も文化人でにぎわっていた

2023-08-30 21:47:11 | 歴史が得意になる

菅井梅関送別図の一部 仙台市博物館

 

これまでの日本の歴史で鎖国は閉ざされた、取り残されるイメージでとらえられていました。

しかし、この唯一の海外に開かれた場所に当時の文化人は非常に注目していました。

司馬江漢(西洋画)、平賀源内などが長崎に行って、西洋の文化を吸収しようとしましたが、江戸にも長崎屋という西洋の文物を扱う店もできたりしました。

そして、西洋だけでなく、日本は古くから中国の文化を吸収していましたが、続けて明や清の宗教文化や文人文化を吸収しようとしました。

中国に行くことが出来ないので、日本の名所を中国に見たたて、耶馬渓(やばけい)と名付けて愛でたりしました。

東アジアの文化人は詩書画をたしなむのが理想ですが、長崎に来てネイティブの中国人に詩や絵を学びました。ただし、中国の一流の人が来ることはなかったので、やや偏った受け入れ方をしたりしました。

詩で有名な頼山陽も長崎に来て、江芸閣(こううんかく)という人物に会おうとしました。江芸閣は貿易のために来た人ですが、なんどか科挙の試験を受けた(結局落ちたらしい)人で詩文の心得があって、当時の日本の文人が競って会いに来たのです。

残念ながら山陽は江芸閣に会えませんでしたが、手紙はやり取りできたようです。(江芸閣は何度も長崎に来ました)

明治時代になって、海外の渡航ができるようになるとすぐに日本から上海などに文人が行きました。それは江戸時代に交流があって、その人脈をたよって行ったのでした。


天才!?平賀源内

2023-08-25 10:54:58 | 歴史が得意になる

源内が描いた西洋画

 

土用の丑の日はウナギを食べよう、という奨励をした平賀源内は数々のユニークな活動が注目されます。

エレキテル(静電気発生装置)を手に入れて、何とか修理するとそれを見せものにしたりしました。しかし、その原理や活用を追及することが出来ず、結局、日本で電気の発展はなかったのです。

両者の関係は、はっきりはしないのですが、「蘭学事始」(ターヘルアナトミア)を翻訳出版した杉田玄白は、源内が亡くなって「ああ非常の人、非常の事を好み、行(おこない)もこれ非常」と追悼した。両者に交流があったことがわかります。

源内は江戸の秋田藩佐竹氏に西洋の話を伝え、絵師の小田野直武に西洋画の技法を伝授しました。自分でも西洋画を描いています。

これらは源内が長崎に学んだことから、西洋の科学、美術を吸収したことによります。その後も江戸の薬種問屋長崎屋で情報を得たようです。

源内はウナギのキャッチフレーズもそうですが、宣伝活動にも協力したようです。そのほか浄瑠璃の台本を書いたり、文章家でもありました。

また、源内焼きという陶芸をおこしたとされ、さまざまな活動をしました。

道徳や序列を重んじた江戸時代にあって、新しい技術や美術に関心を持ってつぎつぎと実行しました。

どれも中途半端な感じもしますが、どれもかなり成し遂げていることにおどろきます。

裕福ではなく失敗が多かったようですが、自由で素敵な人生だったのではないかと思います。


芭蕉はずるい?奥の細道のフィクション性

2023-08-24 13:21:19 | 歴史が得意になる

旅立つ芭蕉と曽良

 

「奥の細道」は、俳諧の書物としてもっとも有名だといってよいでしょう。

江戸にいた芭蕉が門人曽良と奥州(東北地方)への旅の途中で詠んだ俳句を載せた紀行文形式の俳句集です。

ちかごろ同行の曽良の日記の発見との食い違いから、芭蕉が奥の細道を脚色しているとの指摘がされます。

しかし、思うに「奥の細道」は、紀行文ではなく、俳句を主とした文章だと思います。

悪く言えば、俳句のために書かれた文章、俳句を説明するための文章なのではないかと思います。

つまり、俳句は5,7,5のたった17字の文芸ですから、どうしても状況が分かった方が鑑賞しやすい(とくにしろうとには)。

芭蕉は実は「奥の細道」で自作の俳句を正しく鑑賞させようとしたのでないかと考えてしまいます。

それは現実の事実よりも句の世界を優先していて、ときに曽良の手記と異なって、事実誤認やフィクション性を疑われます。

あらたうと青葉若葉の日の光

と詠む日光では、雨が続いていたらしい。

それは、実際の景観よりも句が先行してできていたのだと思われるのです。

「奥の細道」によって、すぐれた俳句がさらに深みを増して感じられるのは芭蕉のしかけであるようです。

それは「ずるい手段」かもしれませんが、俳句の宿命でもある気もします。


ほがらか?はなやか?

2023-08-23 10:55:07 | 歴史が得意になる

 

左が尾形光琳の風神です。右は俵屋宗達です。

もちろん光琳が宗達の絵を写したのですが、二人の活動時期は重なることはありません。二人の間には師弟関係はありません。

ですが、光琳は宗達を非常に尊敬(オマージュ)して、その絵を写します。そして、彼らの絵の流れをのちに琳派と言いますが、実体的な画派(スクール)ではありません。

琳派はこのオマージュでつながる関係を言います。

光琳ののちは酒井抱一が代表的で、この光琳の風神雷神の屏風の裏に銀地に夏秋の草を描きます。

光琳と宗達の風神の違いはなんでしょう?

宗達からさらにはなやかにデフォルメされている気がします。

でも、先輩の発想にこころから敬意を表しているように思います。もちろんその発想や描写の秘密を取り込む思いも十分です。

いまだと著作権侵犯で訴えられそうです。


お殿様はどこにいるのか?

2023-08-22 13:12:52 | 歴史が得意になる

画像お借りしました

 

江戸時代、殿さまはどこにいるのか?

多くの人は城の天守閣の最上階にいて、下々を見下ろしていると考えているのではないでしょうか。

私もその一人でしたが、天守閣や本丸は戦闘や公的な場所で日常にはあまり使われなかったようです。日常は御殿の生活空間の二の丸などですが、多くの大名は江戸屋敷を持って、参勤交代で国元(領地)と一年おきに行き来していました。

大藩では江戸に上屋敷、下屋敷があり、細川家などは愛宕に中屋敷があったそうです。

江戸には奥さんや子どもがいるので、殿さまも江戸暮らしの方が良いと思う人もいたと思います。肥前平戸の松浦隆信は江戸に10年暮らしたというので、ほとんど国元に帰らない殿様もいたかと思います。

また、引越し大名として映画もできた松平直矩(なおのり)などは、姫路から越後、豊後日田のち奥州など、多くの転封を命じられました。直矩は狩野探幽の大ファンで、その絵をもとめた趣味もあったようですが、生涯、引越しの憂き目を見ました。

東京(江戸)出張は今も昔も公務の一大事で、殿さまは大きな負担を抱えました。