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中学生 勉強が得意になる

しばらくは歴史に強くなるをテーマにやります

お家騒動

2023-08-17 10:42:52 | 歴史が得意になる

栗山大膳 画像おかりしました

江戸時代の初期は、諸藩のなかもまだ落ち着かず、多くのお家騒動がありました。それまで、実力で天下を取ろうとしていた風潮から、秩序ある社会へと変化していくのにうまく適合できない、藩のなかの恨みを訴えるといったことが起きてしまいました。

そのなかでも有名な黒田騒動を取り上げてみようと思います。

黒田藩は藩祖如水、初代長政と天下に響いた名将が筑前の地に52万石の所領をもった大藩でした。

長政は長男忠之の性格を気に入らず、三男の長興に後を継がせようと考えました。これを近臣の栗山大膳は、

「徳川の世は才よりも秩序です」(といったかわかりませんが)

本来の長男である忠之の相続をほかの藩士とともに主張しました。そのため忠之が二代藩主になりましたが、長政の心配通り、長政が亡くなったあと忠之はうるさい大膳などの家臣を退けて、言うことを聞く足軽組の若い倉八十太夫を重用しました。

十太夫がいう大型の船「鳳凰丸」を建造して藩の財政を傾け、真言宗の僧の占いを信じるなどの行いに、大膳は意を決して幕府に「忠之謀反の疑いがある」と訴えました。

公儀は大膳の訴えを退け奥州へ流罪としましたが、忠之は藩主としてとどまりました。

現代もそうですが、大きな地位のあとを継ぐのはなかなか難しいですよね。


天草四郎を考える

2023-08-16 09:05:01 | 歴史が得意になる

画像お借りしました

 

キリシタンの美少年天草四郎が多くの民を率いて、一揆をおこし、一地域の騒動ではなく、幕府軍を動かして、ついには日本を鎖国という政策をとらせた。

という風に考えられています。

近年はこの天草島原の乱について多くの考察が行われて、キリシタンの暴動ではなく領主の圧政に苦しんだためだ、天草四郎は虚像だ、とさまざまな見方が示されます。

宣教師の記録では天草四郎は「高貴な両親の間に生まれ、もともと肥後(天草)の生まれでヒエロニモ(ジェロニモ)益田四郎(時貞)というわずか18歳の青年であった。」とします。

数えの18歳なので16,7歳の若者であった。家は大矢野氏に仕えて、キリシタン大名小西行長が肥後を統治した時にその家臣となったようです。つまり武士の家柄のようです。

天草の乱の首謀者たちが小西家の浪人のキリシタンという言い方をしますが、小西行長の統治は関ヶ原の戦い(1600年)までなので、乱の頃(1636年)には二世代ほど間があります。

ただ、一揆(とします)に加わったもののなかには武芸に秀でた人物がいた可能性は高いと思われます。

1612年にママコフ神父が25年後に救世主となる若者があらわれる、という予言をしたといいますが、これもこの伝え以外にあらわれない人物のようです。

また、四郎が目の不自由な少女の目を治したり、天草と島原の海を渡ったり、という奇跡をおこしたことももちろん信ぴょう性は低いと思われます。

ただ、ポルトガル人のようなひだエリのある美しい衣装をまとっていたのは事実かもしれません。

周りから持ち上げられて、一揆の主導者となったカリスマともいわれますが、宣教師が、四郎が主導した、と書き、一商人が四郎が軍を率いているのを見たという証言から、指示を与えていた可能性は高いようです。

幕府軍は原城を攻めて、四郎らしい若者の首をいくつも集めて母親に確認させたとされます。あるいは四郎は生き延びたとも伝えられますが、それはキリシタンにとってあまり意味のないことかもしれません。

天才やカリスマのことは凡人にはおそらくわからないものです。

 

 


笑いは上方(関西)から?

2023-08-15 08:15:54 | 歴史が得意になる

落語の発祥は安楽庵策伝(あんらくあん さくでん)の『醒睡笑(せいすいしょう)』といわれます。策伝は浄土宗の僧で茶人としても知られます。江戸時代初期に笑い話をまとめました。

その内容の多くは京都を中心とした話です。

織田信長が京都に来たときに、築造がさかんになり、

 花より団子の京になりにけり

 きょうも’いしいし’、あすも’いしいし’

と、はやすのが流行ったというけれど、それは「いしいし」が団子をしめす女官の言葉だったらしく、織田信長が団子好きだったことを揶揄したらしいのです。

同じ時期に「昨日は今日の物語」といった笑話集もあるので、江戸時代になって庶民が笑いに興じることができるようになったのかもしれない。

こうした話は多く上方を中心としたものです。

1600年代後半、浮世草子の作者井原西鶴も大坂を中心に活動しました。

こうした笑いに関する話の多くが上方から出ていることから、笑いはやはり関西からと思わせます。


なぜこんなにほがらか?

2023-08-14 11:09:10 | 歴史が得意になる

風神雷神は日本美術を代表する名作ですね。

作者の俵屋宗達についてはよくわかっていません。江戸時代初期に芸術家本阿弥光悦らと行動を共にした町衆と考えられています。

大胆ですぐれたデザインの和歌の下絵など、その才能の豊かさを感じますが、なによりこの風神雷神は一度見たら忘れません。

どうしてこんなに神様(仏様)がほがらかに笑っているのか?

長い戦乱の日々からやっと平穏に暮らせるようになったことを神様も喜んでいるのかもしれません。

風神雷神は千手千眼観音の眷属(家来)の二十八部衆のなかに見られますが、太平の世になった人々にはそんな風や雨も恵みのように思えたのでしょうか。

この絵からは、新しい世の豊かな町の人の喜びや楽しさを伝えている気がします。


細川ガラシャと松浦メンシア

2023-08-12 19:43:29 | 歴史が得意になる

細川ガラシャ 画像お借りしました。

明智光秀の娘で細川忠興の妻となった細川ガラシャ(玉子)はキリスト教に入信したが、夫からは棄教を命じられた。忠興が上杉征討へ向かっている間に石田三成から人質にされようとしたが、細川家の家老加賀山秀清の介錯によって亡くなった。キリシタンは自殺することが許されなかったためである。加賀山もキリシタンであった。

ガラシャは信仰と貞節を守った人として知られている。

松浦(まつら)メンシアは大村純忠の娘で松浦久信の妻となった。幼いころからキリシタンであったが、夫久信や息子隆信から棄教を迫られたが、従わなかった。

幕府に召喚され、メンシアは江戸の寺に謹慎されたが、殺されることはなかった。一生、信仰を貫いて、島原・天草の乱後も生き残った。

メンシアは娘(清浄院)、息子(隆信)を次々と失い、自分は生き残った。

一説にキリスト教を棄教したともするが、家族や信者を失って寺に幽閉された人生を望んだとは思えない。

松浦メンシア