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元禄時代は生類憐れみの令が出されるなど命を尊ぶ風潮がありました。しかし、
元禄15年12月14日(西暦で1702年1月30日)、赤穂(あこう)藩の旧家老大石内蔵助(くらのすけ)をふくむ47人は切腹した藩主浅野内匠頭(たくみのかみ)のかたき討ちとして、吉良(きら)上野介(こうずけのすけ)の屋敷に押し入り、その首を取るという事件が起こりました。
のちに忠臣蔵(ちゅうしんぐら)として、劇などの題材となった事件です。
江戸時代初期までは藩主が亡くなった時は、仕えた侍が追い腹(切腹)を切り、あとを追いました。しかし、1663年、幕府が殉死を禁じました。忠臣蔵は追い腹を禁じて30年ほど経った事件でした。
また、かたき討ちは父母や兄といった尊属(自分より上の親族)の敵(かたき)を討つことが認められました。
赤穂の志士たちははこの追い腹とかたき討ちを同時にはたしたことになります。
上野介の襲撃への罪状として切腹が申し渡されたが、これは結局、追い腹を認めたことになります。(志士たちが切腹するのを気の毒に思う向きもありますが、彼らの本望であったと思われます)
ただし、この事件が主君へのかたき討ちとして認められるかははっきりしていません。
いまではおどろくような行為ですが、これが主君への忠誠であり、主君の無念を晴らすという武士の思いでした。
公儀(幕府)も表向きは、騒動の処罰という裁決をしますが、志士たちは徳川家康が故郷駿府(静岡)から、江戸に移した品川の泉岳寺に葬られることになりました。
これは幕府が彼らの没後を見守ることにしたのだと思われます。