goo

加地卓

「JPCL(日本競技ダンスプロフェッショナル選手会)公式Twitter」(←クリック!)
「JPCL 東部 Facebook」(←クリック!)
「JPCL Instagram」(←クリック!)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

がっしーこと八重樫先生からバトンを受け取りました、加地卓です。現在、埼玉の鴻巣市と東京の西日暮里にて2店舗スタジオを経営、またダンス普及活動として社交ダンス情報ラジオ番組ダンスウェーブを自費制作にて発信しています。

 

今回は・・・・願えば叶うというテーマについて書いてみたいと思います。

僕は大学生の時に学連に所属、そこから2年生の時に中部地区の学年別にてチャンピオンになり、退部。そこからは細々とダンスをしていました。学連が嫌だったわけではないので正直かなり未練があり、ダンスがやりたいというより冬全にて目標を達成したかった・・・というイメージが強かったです。

 

元々、父の影響から劇団、もしくは演劇部に入りたかったのと、それをキッカケにテレビに出たい。とずっと思っていました。

ただ、当時の大学の演劇部はあったようななかったような、そんな存在だったのでこのままでは普通の人生になってしまう・・・そこで、人生を変えるため「一番やりたくないものをやろう!」と思い付き、一番気持ち悪くて興味のなかった社交ダンス部を選択しました。先輩方からは「かっこいいでしょ!?」と写真を見せられたりデモンストレーションを見せてもらったりしましたが何がいいのか分からなくてただ変態の集団だと思っていましたが、流石にこの変態の集団に入れば人生が変わる気がしました。

 

何だかんだあって競技という側面もありダンスにのめり込みましたが学連を退部してしまったのでモチベーションも高くならず困っていたのですが、記念に出てみたJBDFのスーパージャパンカップにて石原正幸選手のチャチャチャを目撃。衝撃を受けました・・・(当時は10ダンスファイナリスト)カッコよすぎる!自分はというと1次予選で100位近くだったような気がします。今考えると20歳ぐらいの年齢で100位ぐらいってどんな踊りをしてたんだ!?と思いますが(笑)

初めて見たセミファイナル以上のパレード。そして石原選手の七分袖の白と黒のラテンシャツ。僕は決意しました。パレードに出てあの選手のようになりたい!と。

 

間も無く岐阜から上京をきっかけにダンスを再開。JBDF全日本セミファイナリストを目指し踊れない青年は進み始めました。

しかしながら上京して再開したころに石原選手はラテン界から姿を消しました・・・。目標の選手と会話することもなくパレード出場の目標に絞りましたが、上京すぐに見に行った日本インターアマチュアラテンにてまさかの衝撃が・・・!黄色と小豆色のグラデーションの衣装で明らかにキレが半端ない選手を目撃。あんなに上手い選手は日本人じゃない!中国人だ!間違いない!と勝手に思っていたのが鈴木ゆうき選手。(岐阜から上京している関係上、ダンス界のトップ選手は3名ぐらいの選手を除きほぼ知りませんでした)回転の数からルーティンのダイナミックさまで一目惚れでした。それからというもの彼が4回転していれば自分も4回転を入れ、彼と同じようなネックレスを探し、ビデオを撮り正直夢中になりました(笑)

 

何だかんだで半年でJBDF東部アマラテンA級を決め、そこから7年~8年間は東部主催の選手権は出場試合全て決勝進出、また同期間関東甲信越ブロックのA級戦は出場試合全て優勝、地方インターでも優勝含め、目標だったパレードにも出続ける事が出来ました。

いつプロになるのか?とよく言われましたが、僕の目標はプロになることではなかったのであまり興味がなく、初めに立てたプランのままアマチュア継続。

 

結果が出た選手は社会貢献するべきというアドバイスの元、社交ダンス情報ラジオ番組ダンスウェーブを立ち上げ普及活動を開始。

普及活動の一環としてスタジオ経営を開始し、活動の幅を広げるためターンプロ。現在に至ります。

 

運がいいのか、僕が上京しすぐに組んだ相手と習いに行ったのがあのダンス界のゆるキャラ「ステッピー」を生んだ大西大輔先生。当初大西先生はまだテレビ番組「ボールルームスターズ」も手がけていない状態で、僕もパートナーの先生というだけでどんな先生かも分からない状態で習いに行きました。都内の先生方に習い始めるまで本当にお世話になりましたし、ラジオ番組のパーソナリティーが出来るかも!?と思ったのも大西先生がテレビ番組の司会をやっていたからと言っても過言ではないと思います。埼玉県鴻巣市という都内とは距離のある街で現在もモチベーションを保てているのも同じ市内で活動している先生の影響であることは間違いありません。

 

そして知る人ぞ知るダンス界のビックイベンター小鳥翔太との出会いも偶然でした。当初、たまたま同じ職場でお互いその時は活動を伏せていた(ダンスウェーブは当時顔出ししていなかった)のですが、話の流れでお互いの活動を話し、そこからはずっとリスペクトしています。彼も漫画、テレビ、舞台、イベントと大きなイベントには必ずと言っていいほど携わっています。今でも「お金の為に動かない」熱意や意欲を勉強させてもらっています。

 

スタジオはというと、西日暮里校オープンしてすぐに、一本の電話が。珍しい人から電話だな・・・と思って出たのが鈴木ゆうき先生(現在は統一全日本ファイナリスト)。スタジオで働きたい!という、もう自分としてはサプライズ過ぎる電話でした。アマチュア戦ではファイナルでいつも戦っていたとは言え、ほとんど話す機会もなかった彼。目標としていた人物からの電話はまさに奇跡だったと思います。

そしてプライベートではラジオ出演をキッカケに遂に話すことが出来た石原正幸先生。同い年ということから緊張しながらも友達になってほしいと伝え、今では本当に仲良くしてもらっています。スタジオでもスタッフとしてレッスンしてもらったり・・・こちらも奇跡です。13年間、話すことが出来なかった壁をラジオが壊してくれました。

 

話は戻して学生時代に抱いていたテレビ出演の夢。社交ダンスのおかげで10回近く出演することが出来ました。

 

どうだったでしょうか?はじめはやりたくなかった社交ダンスが人生を変えてくれた話を長々書いてみました。信じれば夢は叶うとよく言いますが随分叶いました。勿論、まだまだ叶ってない事や、大変なことは沢山ありますが、自分を信じてこれからも頑張っていきたいと思います。

 

さて、次はスタッフのうっちーこと内田晶子先生のリーダー、手塚順一先生にバトンを回してみます!これを機にお話してみたいです(笑)





【真・管理人から皆様へ】

(↑クリックしてね)

コメント ( 1 ) | Trackback (  )