2011/11/20 の朝鮮日報の記事。
記事入力 : 2011/11/20 08:46 16世紀の朝鮮、「嫁いだ娘は他人」ではなかった 【新刊】イ・スング著『朝鮮の家族、千の表情』(ノモブックス) 光海君が朝鮮国王だった1614年、反逆の陰謀を捜査していたところ、一組の男女が捕まった。呉彦寛(オ・オングァン)と李女順(イ・ヨスン)だった。2人は反逆とは無関係だったが「風俗事犯」に問われた。両班(朝鮮時代の貴族階級)の婦女が、親類でもない男性と共に山野を遊覧したという事実が問題になったのだ。 李女順は、後に吏曹判書(人事を司る官庁の長官)の位に就いた文臣・李貴(イ・グィ)の娘だった。尋問を受けた李女順は、15歳で嫁ぎ、禅宗に心酔して夫と道を学んだが、呉彦寛はその時一緒に学んだ友人だと話した。夫は「あなたのような妻がおり、呉彦寛のような友人がいることは、私の一生の幸運だ」と語ったという(『光海君日記』巻81、6年8月己亥条)。夫が亡くなると、李女順は呉彦寛に従って山に入った。臣下は、李女順を処罰すべきと声を上げたが、光海君は、姦通の根拠が明確ではないとして赦免した。男女の区分が厳格だった朝鮮後期にも、夫の友人と学問的友情を維持した女性がいたというのは興味深い。 女性史・家族史を専攻するイ・スング国史編さん委員会編史研究官が手掛けた本書には、男性と同等の権利と責任を分かち合い活動していた女性の、活気に満ちた姿が描かれている。士林(儒学者)の宗祖に挙げられる金宗直(キム・ジョンジク)=1431-1492=は、密陽で生まれた。父・金叔滋(キム・スクチャ)は慶尚北道善山が故郷だが、結婚後は妻の実家がある密陽に移ったからだ。 16世紀までは、結婚した女性は実家でそのまま暮らし、男性が定期的に自分の家と妻の実家を行き来するか、あるいは妻の実家でずっと暮らすというケースが多かった。結婚することを意味する「丈家に行く」という韓国語の表現は、本来は「丈人(妻の父親)の家に入る」という意味だった。地方では20世紀初めまで、新婦が1-2年ほど実家に滞在した。 祭祀(さいし)も、息子と娘が順に執り行うというケースがしばしばあった。17世紀、南平趙氏の女性が残した日記には、実家の母の祭祀を執り行う場面が出てくる。この女性の夫は漢城判尹(現在のソウル市長)を務め、身分も家柄も高い人物だった。一方で実家の父の祭祀は、女性の兄が受け持った。しかし性理学が支配的な朝鮮後期になると、息子が祭祀を引き受けるようになった。236ページ、1万5000ウォン(約1000円)。 金基哲(キム・ギチョル)記者 朝鮮日報/朝鮮日報日本語版 http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2011/11/20/2011112000100.html 注)せいり‐がく 【性理学】 中国で宋代から明代にかけて隆盛だった儒学の一学説。漢・唐代の訓詁(くんこ)学に対し、宇宙の原理としての理を究明し、人間の本性を明らかにしようとしたもの。宋学の中核をなす。 |
>性理学が支配的な朝鮮後期になると、息子が祭祀を引き受けるようになった。
記事にもあるとおり性別に関係なく相続権が女性にもあったのだが、農業しか主な産業がなく、かといって農地を新たに広げるわけでもなく頭割り相続を続けていては立ち行かなくなったため相続権を制限したためというのが本当ではないか。
性理学がその方便として使われているだけ。朝鮮人としては経済が破たんしましたとは言えまい。