2006年の朝日新聞の記事。
鉄の見返りに楠の木材を百済や新羅に送ったという内容だが、その使い道が古墳の木棺。
はて?
http://www.asahi.com/culture/update/0220/002.html 韓国の古墳にクスノキの棺 鉄の見返り、日本から運ぶ? 2006年02月20日08時42分 クスノキとわかった棺。大木をくりぬいた舟の形で「海に浮かべて日本から運んだのでは」との見方も出ている=韓国国立昌原文化財研究所提供(05年5月撮影) (クスノキの木棺が見つかった昌寧付近の地図) 朝鮮半島からもたらされた鉄の見返りに、日本から何が運ばれたのか。古代史最大級の謎に、新たな仮説が登場した。木材だ。韓国南部の古墳で昨年、朝鮮半島では自生しないクスノキの棺が発見されたからだ。中国を含む東アジアに特定の樹木を貴ぶ文化があったという新しい歴史像も浮上している。 木棺が見つかったのは、慶尚南道昌寧郡の松●洞古墳群(全23基)の7号墳(5世紀末~6世紀初頭)。当時一帯は加耶(かや)と呼ばれ、小さな国がいくつもあり、7号墳は、そうした国の支配者のものとみられる。 国立昌原文化財研究所の池炳穆(チ・ビョンモク)所長が1月に早稲田大で開かれた研究会に参加し、調査の概要を日本で初めて報告した。 木棺は長さ3.3メートル、幅0.8メートル、高さ40センチほどで重さは258キロ。科学的分析の結果、昨年秋クスノキと判明した。 照葉樹のクスノキは朝鮮半島には自生しない。済州島にはあるが、大きく育たない。古墳の構造や土器の様式から、昌寧一帯は新羅の強い影響下にあったとみられるが、済州島は新羅と敵対する百済の領地だった。台湾や中国南部にはあるが、これも遠隔地。こうした点から、「近い日本から運ばれた可能性が高い」と池所長は考える。 魏志倭人伝にも倭国の産物としてクスノキが記されている。虫がつきにくく長持ちするのが特徴で、特産品として知られていた可能性が高い。 分析結果を受け、早稲田大の李成市教授(朝鮮史)は、過去に韓国の古墳で発見された木材類を改めて調査。すると、百済や新羅の多くの古墳でクスノキやコウヤマキの木片があった。コウヤマキは日本にしかない木だ。 逆に、当時の日本では鉄は未発見で、朝鮮半島からの渡来品は極めて貴重。見返りとしては米や塩、人が考えられてきたが、どれも朝鮮半島にもあり、「対価になりえない」との異論があった。 李教授は「木片は棺だったと考えていいだろう。クスノキなど棺に適した樹木が自生しないため、日本に求めた。その貴重さは鉄との交易に見合うはずだ」と話す。 この新しい歴史像は、「飛鳥時代の仏像がなぜクスノキなのか、という大きな謎を解くきっかけにもなる」(仏教美術が専門の大橋一章・早稲田大教授)という。 日本に残る飛鳥~白鳳時代(7世紀~8世紀初頭)の木製の仏像は20体近くあるが、1体を除くとすべてクスノキ製だ。 中国や朝鮮半島に古い時代の木製仏像が残っていないこともあって、仏像作りは朝鮮半島を経由して伝わったが、素材にクスノキを使うことは日本独自で、当初から自主性を持っていた――との考えが長く有力だった。 大橋教授は「クスノキの仏像は中国の南朝で生まれたのだろう。朝鮮半島の仏像もクスノキで作られていたのだろう。そして、日本で仏像を作ったとすれば、それを手本にしたとも考えられる。外国文化を受け入れる場合、普通は丸のみするものだ」と語る。 鈴木靖民・国学院大教授(東アジア古代史)は「仏像と棺はどちらも死や来世とつながる。東アジア全体に耐久性にすぐれたクスノキなどの木材を大切にする文化が広がっていた可能性がある」と話している。 (●は「山」へんに「見」) |