石田潤一郎 「屋根のはなし」 鹿島出版会
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著者は昭和27年鹿児島生まれ。
昭和51年京都大学工学部建築学科卒。
昭和56年京都大学大学院博士後期課程修了。
京都大学助手、工学博士。
ノキ(軒)とは雨ヒサシのように家の外部に出た屋根の一部だが、ヒサシ(庇)は日本家屋の構造の一つで、家屋の部屋の一部なのだ。古くからの増築の手法の一つで日本家屋では一般的な建築手法になっている。
軒(ノキ)と庇(ヒサシ)。似てるけど全く違う。
「庇を貸してモヤを取られる」。これは「軒を貸してお母屋を取られる」と今は誤って使われることが多い。庇も身舎(モヤ)も今となっては古の昔の言葉になってしまっているから、正しい意味などわかるわけも無い。
軒とは屋根の最下部であり家の外になるし、お母屋と言えば主屋と取り違える。であるから、雨でもよけるためか夜露をしのぐためか、家の外の軒を貸した人物に、いつのまにか家の中に入り込まれ、家を取られてしまったと言うちょっと間抜けな事象を戒める例えになる。
庇も身舎(モヤ)も鎌倉期以前の言葉で、庇・身舎(モヤ)は家屋の構造を表す。庇は今の日本家屋でも使われるが、身舎(モヤ)は今は使われない。現在日本家屋の屋根の下部構造に母屋(モヤ)と言うものがあるが、ここで言う身舎(モヤ)はそれとは異なり、柱4本で囲まれた床を持つ空間(部屋)をさす。神社の社を想像して欲しい。
この身舎(柱4本で囲まれた空間)だけでも一間の家屋になるが、部屋数を増やす場合は棟方向に身舎(モヤ)を連結していく。つまり建て増しをすると屋根の長い家になって行く。何故か桁方向には身舎(モヤ)は連結されない。たぶん建築技術的な制限のためではないのか、と説明される。
桁方向に部屋を増築する場合は、別棟として身舎(モヤ)を作りそれに別の屋根を架ける。当然、身舎(モヤ)と身舎(モヤ)の間は屋根の軒が接した形になり、谷を作る。雨じまいの悪い住居だ。この後、身舎(モヤ)と身舎(モヤ)の二つの屋根を一つの大きな屋根で覆ってしまうと言う方法が採用され、雨じまいの悪さは解決されるが、これでは身舎(モヤ)を増やすたびに屋根は大型になり、おのずと制限がかかってしまう。
庇はこの不便さを補う。身舎(モヤ)の屋根の軒の下にさらに傾斜のゆるい屋根を架け、その下に出来る空間を部屋にしたものだ。だから「庇を貸す」とは、すでに家の中に人を入れているのである。
身舎(モヤ)には主人が座り、庇の下には使用人(家来)が座る。鎌倉期の侍館の姿だ。岡山県の西部にある美星町は星の町として有名だが、そこにある美星天文台の横に、鎌倉期の侍館が復元してある。まさしく身舎(モヤ)とその4辺を囲む庇が再現されており、そこには身舎(モヤ)に座る主人とそれに従う庇の下に座る家来の人形まで置いてある。
つまり「庇を貸して身舎(モヤ)を取られる」とは主従の逆転を指すのだ。
【身舎(モヤ)の文字について確認しておくが、身舎と言う字は仏教の影響がある。身舎と言う字を読んで現代人はモヤとは読めないが、当時の人とて読めたわけではない。先にモヤがあり、それに身舎と言う漢字を当てたのだ。】
以下、メモ。
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p22
竪穴住居の屋根
p34
まぼろしの規模表記
ヒサシ(廂)
モヤ (身舎)
間面記法
p35
モヤの外側に片流れの屋根を架けて建物を広げる
この片流れの屋根の部分をヒサシとよぶ
ヒサシは建物の本体を構成する
p76
茅は根元を下にする
穂先を下にするのは「逆葺き」といって嫌われる
ただ初期は「逆葺き」か?
朝鮮は今に至るまで「逆葺き」
間面記法(間と面を数詞とする)
三間ニ面
間はその建物のモヤ部分においてその間口に柱間が何個あるかを示す
モヤの桁行の規模
面とはモヤの四面のうちいくつの面にヒサシが付けられたかを数で表す
9世紀~14世紀末 南北朝の時代の末まで使われる
室町時代になると使われなくなる
「廂を貸してモヤを取られる」
モヤ+ヒサシ+マゴヒサシ
奥行きが必要な場合、双堂(ならび堂)とする 法隆寺細殿
桁行方向へ連結され延びるが桁行方向へ延びることは考えられていなかった
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