ジョス・リーフェリンクス(活動:1493〜1503/08)
《イレーネに介抱される聖セバスティアヌス》部分
1497年頃、81.3×54.8cm
フィラデルフィア美術館
聖セバスティアヌスの物語
3世紀のこと。
セバスティアヌスは、ローマ皇帝ディオクレティアヌスの治下、近衛軍団の士官を務めていたが、密かにキリスト教を信仰していた。
仲間のマルクスとマルケリヌスの2人が、キリスト教信仰のため、死を宣せられる。その両親や妻・子どもは、2人に棄教を嘆願する。
セバスティアヌスが2人に言う。
「おお、キリストの強力な戦士たちよ、哀願や甘美な言葉のために永遠の冠をうばわれてはなりません。」
そして、両親や妻・子どもたちに向かって、甘美な言葉をかける。
「怖れることはありません。この若者たちは、あなたがたから別れていくのではなく、星辰のあいだにあなたがたの住居を準備するために出かけるのです。・・・」
こうして、セバスティアヌスがキリスト教徒であることが露見し、皇帝の前に連れられる。
Saint Sebastian before Diocletian
皇帝はセバスティアヌスに言う。
「ずっとそちをわしの宮殿の腹心のひとりとして遇していた。」
「それなのにひそかにわしと神々に楯をついていたのか。」
セバスティアヌスは答える。
「わたしはいつも陛下の幸福のためにキリストをうやまい、いつもローマ帝国のために在天の神に祈ってまいりました」。
皇帝は、セバスティアヌスを弓矢で射殺するように兵卒たちに命ずる。
Saint Sebastian Pierced with Arrows
セバスティアヌスは、野原のまんなかの杭にしばりつけられる。
兵卒たちは大量の矢を射かける。
そのため、セバスティアヌスは、はりねずみのようになる。
兵卒たちは、彼を死んだものとおもって、彼を置いて帰る。
Saint Sebastian Cured by Irene
しかし、いずれの矢も急所をはずれており、傷は深いが、致命傷には至らない。
寡婦イレネがセバスティアヌスの看病をし、回復させる。
Saint Sebastian Destroying the Idols
回復したセバスティアヌスは、皇帝の前に現れる。重ねて自らの信仰を公言する。
「これは、このあいだ矢で射殺すように命じておいたセバスティアヌスではないか。」
「あなたがたに直接会って、あなたがたがキリストのしもべたちにくわえた迫害を責めるようにと、主がわたしを死から呼びさまされたのです。」
The Martyrdom of Saint Sebastian
皇帝は、セバスティアヌスを打ち殺すよう命じる。
セバスティアヌスは、長いこと棍棒で打たれ、ついに死す。
その遺体は、殉教者として崇敬することができないように、ローマの大下水道クロアカ・マクシマに投げ捨てられる。
セバスティアヌスは、ルキナというキリスト教信者の女性の夢枕にあらわれ、自分の遺体の在り方を伝え、使徒たちの足もとに埋葬するよう頼む。ルキナはそのとおりにする。
Pilgrims at the Tomb of St Sebastian
アッピア旧街道にあるその地には、現在、サン・セバスティアーノ・フオーリ・デ・ムーラ教会が立ち、その地下に聖セバスティアヌスの墓がある。
Saint Sebastian intercedes for the plague-stricken
画像は、ジョス・リーフェリンクス(Josse Lieferinxe)作の「聖セバスティアヌスの生涯」7点からなる連作パネル。
画家は、南ネーデルラント出身で、1493〜1503/08年に南仏(エクス=アン=プロヴァンスとマルセイユ)に滞在し活動した。
本連作パネルは、1497年頃にマルセイユの「Notre-Dame-des-Accoules」のために制作されたもの。
画家の作品は当初、本連作パネルをめぐって再構成されたことから、「聖セバスティアヌスの画家」という総称が与えられている。
以下、掲載順に。
《ディオクレティアヌス帝の前の聖人》
エルミタージュ美術館
《矢で射られる聖人》
フィラデルフィア美術館
《イレーネに介抱される聖人》
フィラデルフィア美術館
《偶像を破壊する聖人》
フィラデルフィア美術館
《聖人の殉教》
フィラデルフィア美術館
《聖人の墓を巡礼する者たち》
バルベリーニ国立古典絵画館、ローマ
《疫病退散を取り成す聖人》
ウォルターズ美術館、ボルティモア