東京でカラヴァッジョ 日記

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「生誕120年・没後100年 関根正二展」(神奈川県立近代美術館 鎌倉別館)

2020年02月17日 | 展覧会(日本美術)
生誕120年・没後100年
関根正二展
2020年2月1日〜3月22日
神奈川県立近代美術館・鎌倉別館
 
 
   2019年は、関根正二の生誕120年かつ没後100年にあたる年。僅か20歳で亡くなった夭折の画家であるが、こうして120、100、20と数字を並べられると、その人生の短さを改めて感じさせられる。なお、画業は僅か5年ほどであったらしい。
 
    1899年に福島県白河に生まれ、1919年に結核にスペイン風邪が重なって亡くなった関根正二。2019年から福島で始まった回顧展は、三重を経て鎌倉に巡回。関根の回顧展に行くのは初めてであるが、神奈川県立近代美術館の鎌倉別館に行くのも初めて。鎌倉駅から結構距離がある。
 
    回顧展に行くのは初めてだが、その作品を見る機会は相応にある。東京国立近代美術館の常設展での《三星》は定番鑑賞作品であるし、展覧会でも例えば2011年の平塚市美術館「画家たちの二十歳の原点」展では、《死を思う日》《姉弟》《自画像》《小供》《三星》と、一挙に5点もの油彩画を見ている。本回顧展は、もともと現存数の少ない関根の作品の多くを集めているようだ。
 
   前期が2/16までの16日間で、後期が2/18からの34日間、その割合が1:2と変則的。大原美術館所蔵《信仰の悲しみ》が2/18から登場することにあわせての設定のようで、同作は重要文化財に指定されているため、展示日数に上限が課されているらしい。他の油彩画は通期展示、素描は前後期で入替えのようである。なお、アーティゾン(旧ブリヂストン)美術館所蔵の服の朱色(ヴァーミリオン)が印象的な《子供》は、同美術館の開館記念展に展示中のようで、鎌倉会場には展示されない。
 
 
   以下、油彩画を中心に出品作の一部をメモ。
 
   《死を思う日》1915年・福島県立美術館は、河野通勢風。16歳で二科会に初入選した作品。
   《牛舎》1915年頃・福島県立美術館は、東京・深川の牛舎を描く。
   《井上郁像》1917年・福島県立美術館寄託は、セザンヌ風の色彩。
   《村岡みんの肖像》1917年・神奈川県立近代美術館は、目元が綾瀬はるかさんを想起。
   《少年》1917年・個人蔵は、手に持つチューリップを凝視する頬赤の少年を真横から描く。本展のメインビジュアル。
   《小供》1918年・個人蔵は、セザンヌ風のというより、セザンヌ風の安井曾太郎風の色彩の作品。
   《自画像》1918年・福島県立美術館は、元所蔵者が関根の没後両親に返却し、その後長く行方不明になっていた作品。
   《婦人像》1918年頃・東京国立近代美術館は、一心不乱に歩を進める一人の女性。
   《姉弟》1918年・福島県立美術館は、小さな弟を背負う姉。弟のえらく大人びた表情。
   《神の祈り》1918年頃・福島県立美術館は、《信仰の悲しみ》の女性二人バージョン。
   《天使(断片)》1918年頃・三重県立美術館は、大部分が焼失し、中央部分が断片として残る。焼失部分を拡大した白黒写真により補完。
   《少女》1919年・個人蔵は、1919年の遺作展後行方不明になっていたパステル作品、100年ぶりの公開。
   《天平美人》1917年・大阪中之島美術館は、失恋間もない画家が元恋人を想いつつ描いたとされる二曲一隻屏風。
   《三人の顔》1919年頃・ポーラ美術館は、二人の女性と、水平に浮かんでいる子供の頭部。習作風か。
   《三星》1919年・東京国立近代美術館は、中央は画家のゴッホ風の自画像、右は画家の姉、左は画家の片想いの女性、との説。
 
    関根の絶筆「慰められつゝ悩む」1919年は、所在不明で、当時作られた絵葉書でその図像が知られている。本回顧展にはその絵葉書が関連資料として展示されている。
 
 
    関根正二の資料・書簡の展示や、関連作家として、河野通勢、伊東深水、有島生馬、安井曾太郎、長谷部英一、上野山清貢、東郷青児、村山槐多、久米正雄の作品の展示もある。
 
    特に関根と同じ年に僅か22歳で亡くなった村山槐多は、見応えのある4点の展示(前期。後期は3点が入れ替わっての4点となる)。夭折の画家の二大巨頭、関根正二と村山槐多。関根が友人宅に村山のデッサンを預けたという伝説があるものの、両者の関係は今なお不明とのこと。
 
 
 
 
 
 


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