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「生誕100年 山下清展」(SOMPO美術館)

2023年08月10日 | 展覧会(現代美術)
生誕100年 山下清展 - 百年目の大回想
2023年6月24日~9月10日
SOMPO美術館
 
 
 山下清(1922〜71)。
 初めてまとまった数の作品を見る。
 
 
1922年、東京市浅草区田中町(現・台東区日本堤)に生まれる。
1923年(1歳)、関東大震災で家が焼失(浅草区では建物の96%が焼失したという)。翌年、一家で父の故郷・新潟市に移り住む。
1925年(3歳)、重い消化不良にかかる。3ヶ月後に完治するが、軽い言語障害が残る。
1926年(4歳)、一家は東京に戻る。
1932年(10歳)、父が逝去。
1934年(12歳)、千葉の「八幡学園」に入園。「ちぎり絵」に出会う。
 
 本展の第1章は、8〜10歳頃の鉛筆画、および「八幡学園」に入園した年(12歳)の「ちぎり絵」。
 
 第2章の前半は、1935〜39年(13〜17歳)の「八幡学園」時代に制作した「ちぎり絵」。
 
 「上手い」としか言いようがない。
 《上野の地下鉄》1937年は、銀座線のホーム(黄色い車両やホーム上の乗客たち)を描く。私的には杉浦非水の一連の銀座線開通ポスターと甲乙つけがたい出来。
 《ともだち》1938年は、うつむく女の子とその右腕を勇気づけるように握りしめる男の子を描く。素材は使用済み切手。細かくされているが、図柄や消印を確認できる。
 学園生活画、風景画や静物画のほか、戦争を描いた作品4点の登場に驚き。《観兵式》、《鉄条網》、《軍艦》、《高射砲》。いずれも1937年(15歳)の制作。学園から与えられた戦意高揚の画題であったようだ。
 
 山下の作品は、美術界で評判となる。
 
 
 
 1940年(18歳)、学園を抜け出し、千葉県各地を転々とする。住み込みで働いていたようである。
 1943年(21歳)5月、徴兵適齢期を過ぎたと思いこんで実家に戻るが、母に急かされて、徴兵検査を受ける(判定は兵役免除)。
 同年12月、再び、放浪に出る。千葉県各地を放浪。以降、時折り実家に戻るが、戦争が終わってからは、関東、甲信越、福島、静岡など行動範囲が拡大していく。
 1951年(29歳)からの放浪の旅は、全国各地となる。
 
 自由気ままだが、過酷な旅。
 毎日、長い道のりを歩く。道に迷わないため、線路を歩く。鉄橋やトンネルも歩く。宿は駅の待合室。食事は家々を訪ねて貰う。タイミングが重要で10軒に1軒くらい貰える。お金が貯まったら、電車に乗れる。リュックサック(実物展示あり)も貯めたお金で購入する。
 
 1954年(32歳) 1月6日、朝日新聞に捜索記事が掲載される。
 
「日本のゴッホいまいずこ?」「かつての特異児童山下清君」「消息絶って二年余 油絵の大作二つを残し」「景色にあこがれ放浪か」。
 
 その4日後、鹿児島県にて男子高校生により発見され、東京に連れ戻される。
 放浪の時代は終わりを告げるとともに、日本で一番有名な画家となる。
 
 
 
第2章の後半は、1940〜54年の放浪期の作品。
 
 代表作《長岡の花火》1950年はやはり素晴らしい。花火と夜空の描写も素晴らしいが、花火が写る川の描写も素晴らしく、観衆の細かい描写にいたっては驚愕ものである。
 
《長岡の花火》1950年
 
 ゴッホの模写ちぎり絵《ラ・ムスメ(娘)》1940年、自画像《自分の顔》1950年など。
 制作途上で残された《伊豆大島の風景》1954年は、山下の制作過程が伺える。まず、記憶した風景を鉛筆で下書きし、手前のほうから色紙を貼っていく。
 
 山下は、放浪先では絵をほとんど制作していない。そもそも道具を持参していない。すべて放浪先から(一時的に)実家や学園に戻ったときに、記憶をもとに制作する。その記憶力たるや、景色を正確に描くし、一度制作した絵を数年後に全く同じように再制作するほど。山下は凄いが、画家の記憶力の体系は一般人とは異なるようである。
 
 放浪時代終了直後の1954-55年制作の絵日記帳(鉛筆画18点)。これらも記憶をもとに放浪時代を描いている。
 
 
 
第3章から第5章は、山下画伯時代の作品。
 
 一躍、日本で一番有名な画家となった山下。
 どれほど有名かというと、
 
 1956年(34歳)のときに東京・大丸百貨店にて開催された「山下清作品展」は、会期26日間で80万人超の入場者があったという。
 1日あたり入場者数は約31千人。(本展解説でも触れているが)日本歴代1位の美術展入場者数を記録した1974年の「モナ・リザ」展の1日あたり入場者数は約31千人と同水準。入館待ち時間がニュースになった2016年の「若冲展」は14.3千人だから、その倍を上回る。
 東京・大丸百貨店の会場は、中2階、4階特設画廊、6階ホールの3つに分かれていたらしいのでトリプルカウントしたのでは、と疑いたくなるほどの過熱ぶり。
 
 1957年には全国50箇所で開催される作品展。
 映画化、書籍化、各種メディア対応、注文に応じた作品制作。
 1960年には、テレビのバラエティー番組にレギュラー出演(1年間)する。
 
 なお、あの体型は、頻繁な接待によるもので、放浪時は健康的に痩せていたらしい。
 
 あまりにも有名人すぎて放浪はできなくなり、以降は取材旅行として、メディアなどの同行のもと、スケッチブックを片手に、日本全国そしてヨーロッパを旅することとなる。
 
 
第3章は、油彩とペン画、新たな試みである。
 
 油彩画では、若冲の模写である《群鶏》1960年。ゴッホ風の《ぼけ》1951年など。絵具が乾くのを待つのがまどろこしっかったようで、制作数は少ないという。
 ペン画では、日本各地の名所画が並ぶなかで、徳川夢声にけしかけられて浅草のストリップ劇場の楽屋で描いた《ストリップ嬢》1956年や、東京オリンピックを描く《東京オリンピック》1964年も。描き直しのきかない油性ペンでの制作だが、多忙となり、加えて目の不調後の山下は、貼絵制作を控えめにし、ペン画制作を増やす。
 
 「進化する」貼絵も、2点。
 
《グラバー邸》1956年、個人蔵
 
 
 
第4章は、ヨーロッパ旅行。
 
 1961年(39歳)、約40日間でアンカレッジ経由で、ドイツ、スウェーデン、デンマーク、オランダ、イギリス、フランス、スイス、イタリア、エジプトを巡り、香港経由で帰国する。
 ハイデルベルク、パリ、スイス、ロンドン、ストックホルム、オランダ、コペンハーゲン、ベニス、アラスカを描いた貼絵、ペン画、水彩画が展示される。
 
《スイス風景》1963年
 
 
第5章は、円熟期。
 
 陶磁器、富士山を描いた絵、遺作となった東海道五十三次のペン画・版画が展示。
 
 
 
 1971年、自宅で脳溢血で倒れ、2日後に逝去。享年49歳。
 
 なお、芦屋雁之助主演のテレビドラマ「裸の大将放浪記」が放映されたのは、1980〜97年のこと。
 
 
 本展の出品作は、そのほとんどが山下清作品管理事務所の所蔵。ということは、出品作以外に、他の者が所蔵する作品も相応にあるのだろう。
 素材ゆえに、今後の劣化と保存対策が気になるところ。


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