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【画像メモ】藤田嗣治で見る小企画「修復の秘密」- 2023年3月のMOMATコレクション

2023年03月23日 | 東京国立近代美術館常設展
 今期(2023/3/17〜5/14)の「MOMATコレクション」展示。
 
 2階ギャラリー4にて小企画「修復の秘密」を開催中。
 「修復」を切り口に、MOMATコレクションの18点が展示される。
 
 以下、藤田嗣治作品を見る。 
 
 
藤田嗣治
《自画像》
1929年、61.0×50.2cm
 愛用の硯や筆、額装された女性像、猫などとともに描かれた、特徴的なおかっぱ頭の藤田。
 本作は、制作当時の絵肌をそのまま今日まで残す貴重な作品です。
 滑らかな白い地塗り層の上に薄く絵具層を重ね、下地に反射した光の効果をねらうことで、均質で艶消しであるにもかかわらず、潤いを感じさせる独自の絵肌を獲得しています。
 マッチ箱のマッチを擦るさらさらした茶色い側面や硯等の質感描写へのこだわりも見のがせません。
 
 

藤田嗣治の《五人の裸婦》と《自画像》の科学調査と修復プロジェクト

 令和3-4年度にかけて、藤田嗣治の《五人の裸婦》と《自画像》(油彩)の科学調査と修復を行いました。 
  《五人の裸婦》は、当館収蔵前に行われた旧修復によって、オリジナルの画肌が広範囲に失われていました。
 今回、ダメージが大きかった裸婦部分を中心に補彩(失われた絵具層を自然なかたちで埋めて色を入れる処置)を取り除き、過去の修復の検証とともに、本来の表現に近づける処置を行いました。
 また制作当時の状態を保つ、きわめて希少な作品である《自画像》について調査を実施し、藤田の代名詞である1920年代の「乳白色の下地」の秘密の解明に取り組みました。 
 《五人の裸婦》はなぜ強い光沢を放っているのか、なぜ黄色味を帯び、重くぼってりとした裸婦なのかという違和感、そして艶のない、繊細かつ滑らかな表面をした《自画像》との差異 そういった疑問が今回のプロジェクトのきっかけとなりました。
 
 
藤田嗣治
《自画像》(素描)
1929年、70.1×43.8cm
 
 
 
《自画像》の来歴と修復について
 
 油彩と素描の《自画像》(1929年) は、藤田の義兄で元陸軍軍医総監、中村緑野氏の遺贈品として、1981年4月に当館に収蔵された作品です。
 油彩の《自画像》は、親族の手元で長年保管されてきたおかげで、第三者の手がほとんど入っていない貴重な作品と言われてきました。
 実際、今回の科学調査の結果、古い修復のあとは認められず、現在の状態がオリジナルをほぼ完全に残していることが確認されました。
 そのため、ドライクリーニング程度の最小限の処置にとどめています。
 素描の《自画像》は、シミ部分の洗浄や脱酸性処置・漂白などの処置を行い、欠損部を色調を合わせた紙で補填しました。 
 
 
 
《自画像》(油彩)の調査報告から
 ー1920年代の藤田オリジナルの絵肌の秘密
 
 この作品の大きな特徴は、制作後一度もワニスが塗布されていない点です。
 よって一般に油絵の特徴とされる強い光沢はなく、独特の均質な彩色によって画面に統一感がもたらされています。
 藤田はキャンバスの細かい布目を覆い隠すように、炭酸カルシウムと白を混合した油性の白い地塗りをヘラで塗り、滑らかな下地を作っています。
 そして地塗りの上に細い描線を引き、明部は白い地塗りをそのまま残し、立体感を表現する陰影の部分は灰色の薄塗りで描いています。
 この明暗表現の上に、それらが透けるように薄く、油絵具の彩色が重ねられています。
 本作では、油絵具にタルク(滑石粉、ベビーパウダーにも使用)を混ぜていることが確認されました。
 ワニスが塗布されていないため、タルクを混ぜることで得られた発色や質感をよく見て取れます。
 タルクを含んだ絵具層は光を乱反射して艶消しのような効果を生じさせ、同時に、強い透明性を和らげる効果もあると推測されます。
 結果として、均質でマットな画面の中に、かすかな透明性と深い色調を感じさせる表現が生まれています。
 作品完成後に藤田本人がワニスを塗布したのかどうかが、しばしば議論の対象となってきました。
 しかし、ワニスはタルクによる質感を損なうため、画家はワニスを用いなかったであろうと思われます。 
 
 
 
藤田嗣治
《五人の裸婦》
1923年、169.0×200.0cm
 藤田嗣治は1920年代のバリで大成功を収めた画家です。
 人気の秘密は、まるで日本画のようなしっとりした白い下地と細く美しい墨色の線描で、この作品にもその特徴がよくうかがわれます。
 五人の女性はそれぞれ、布を持つ=触覚、耳を触る=聴覚、口を指す=味覚、犬を伴う=嗅覚と、人間の五感を表すとも言われます。
 中央を占める女性は、絵画にとって一番重要な視覚というわけです。
 
 
 
《五人の裸婦》の来歴と過去の修復について
 
 過去の修復がなぜなされなければならなかったのか。
 来歴や過去の修復についても探りました。
 当館が本作を購入した時の所蔵者はフランク・E.シャーマン(Frank Edward Sherman、1917-1991)で、敗戦直後にGHQの印刷・出版担当官として来日し、藤田ら多くの日本人芸術家と交流し、作品を収集したことでも知られた人物です。
 シャーマンは1963年6月21日にスイスの個人からバイエラー画廊経由で本作を購入しますが、日本への輸入時にフォークリフトの先端が作品に刺さるという事故が起こります。 
 これがきっかけで、修復が行われたと推察されます。
 旧補修者は洋画家の竹内健(1897-1970)。
 1965年12月号の『芸術新潮』に、《五人の裸婦》修復中の竹内自身の姿が掲載されています。
 1923年の《五人の裸婦》の複製写真(国立西洋美術館蔵)と見比べると、竹内の補修は当初のイメージをがらりと変えるような処置をしたようには見えませんが、広範囲の画面洗浄と補彩により、オリジナルの絵具や下地が失われました。修復後、1967年に国立近代美術館に収蔵されました。 
 
 
 
 
関連資料展示
 
 
 
《五人の裸婦》の調査、修復作業について
 
 今回の修復は、旧補修を取り除き、オリジナルの表現に近づけることを目標にしたものです。
 しかし、キャンバスと裏板とがべったり貼りつき、両者の分離が難しいため、表からしか処置ができず、また溶剤で補彩を除去するのは容易でないことが判明しました。
 そのため、さらなる調査・分析と修復作業を同時に行いながら、損傷状態、旧補修の問題点などを確認していきました。
 そしてオリジナルの絵具と補彩絵具の違いを明らかにし、洗浄や補彩を慎重に進めました。
 紫外線蛍光写真を見ると、人体部分への補彩が特に多いことが分かります。
 そして補彩部分では、絵具の透明性を活かした藤田本来の画肌を感じにくい状態になっていました。
 今回の修復により、強い光沢やムラのある黄色く分厚い絵具層の印象は後退し、控えめな光沢とふわっとした色白の、この時代の藤田特有の裸婦のイメージが戻ってきました。
 
 
 
藤田嗣治
《ソロモン海域に於ける米兵の末路》
1943年、193.0×258.5cm
 (省略)ジェリコーの《メデュース号の筏》(1819年、ルーヴル美)やドラクロワの《地獄のダンテとウェルギリウス》(1822年、ルーヴル美)といった、フランスのロマン主義絵画との関連が指摘されています。
 
 
 
藤田嗣治の戦争記録画《ソロモン海域に於ける米兵の末路》の修復について 
 
 1938(昭和13)年の国家総動員法によって、国民すべてが戦争協力を迫られるなか、美術家も戦争記録画を描くようになりました。
 戦後、戦争記録画のうち主要な153点は接収され、1951年にアメリカ合衆国へ移送されます。
 返還要求の声が実り、日本に戻ってきたのは1970年のことです。
 傷みの激しい作品も多く、6年をかけて計111点の作品が修復されました。
 藤田嗣治の《ソロモン海域に於ける米兵の末路》は、70年に修復家の山領まり氏 (1934-2020)によって修復された作品です。 
 「とても悩んだ作品です。2m以上もある大きな画面は、複数のキャンバスをつないだものです。つぎ目が目立たないように裏打ち(和紙や布などを裏面に貼って補強すること)するには工夫が要りました。今は裏打ちをしなければ補強できないとは思いませんが、当時は修復や補強するためには裏打ちが必要という考え方だったのです。
 ですからワックスと樹脂を混ぜて一生懸命裏打ちをしました。絵は丈夫になりますし、戦争画の風合いには合っていたかもしれないですが......(山領まり氏)」 
 
 
 
 別展示室(2階6室)より。
 
内田巌(1900-53)
《ラ・ペ(平和)》
1952年、90.8×73.2cm


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