コックピットの上に見える窓は航空士(星を観測し位置を割り出す要員)のための小窓です。当時は自動操縦装置はあくまでそのままの針路・高度保持で補正は航空士の役目でした。なのでコックピット内は機長、副操縦士、航空機関士、航空士の4名乗務でした。ジャンプシートはその名残で、VORによる自動操縦の補正技術はおそらくこの後(ちょっと自信なし)、INS(ジャイロ)による洋上自動操縦はアポロの技術がB747で搭載されたのが初だったと記憶しています。(なのでレーダーマーカーのある列島に沿って飛ぶような航路がメインで今のように、成田サンフランシスコは不可能でした、+当時のレギュレーションで3発以上のエンジンを搭載していないと陸からある程度離れた飛行は禁止でした。(Boeing727やロキードL-1011トライスターやマクダネルダグラスDC-10はそうした背景で登場したのです)今ですとGPSもありますし、カーナビにだってジャイロは載ってる。通信だってテレックスじゃなくてインターネット、、、隔世の感がありますね)
※パンナムが1958年にBoeing707で大西洋線に就航していたそうです。
※ノースウェウスト航空が、1970 東京-ホノルル-ロサンゼルス便の運航を開始。 1971 マニラへボーイング747機を初就航だそうです。1970年に就航した747の初期モデルはパンアメリカン航空によって同年1月にニューヨーク―ロンドン線に路線就航。B707もVORくらいはついてたかもしれませね(2009/12/6追記)
ちなみに航空会社はEgyptAirで、南回りのヨーロッパ行きです。
(当時は南回りかアンカレッジ経由の北海経由のヨーロッパでした)
私は最初の寄港地であるマニラで降りましたが、その後もジャカルタ、ボンベイ、カルカッタ、カイロ、ローマ、パリ、ロンドンと当時のヨーロッパはとても遠かったのです。
年度は成田空港が開港した年(1978年:昭和53年)、ゲートは北ウイングの4番ゲートのはずが、下からバスで駐機スポットまで移動しタラップでの乗機でした。(後ろにフィリピンエアとJALの尾翼が見えますね)
三里塚闘争(さんりづかとうそう)の真っ最中で管制塔が占拠された直後(開港が5/8)で私の渡航は7月でした。
このために飛行機に乗るまでの間になんと都合14回もの荷物検査がありました。
ちなみに私の荷物にはいとこへのお土産の日本のお菓子が山ほど詰まっていて、係員の苦笑を買ってました。
懐かしい思い出です。連れて行ってくれた母に感謝です。
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