影巫女の部屋

御朱印紹介や、趣味の小説を主に投稿していきます。

御朱印 不動院

2023-02-15 20:00:00 | 御朱印

本日は千葉県富津市にある不動院に行ってきました。

御朱印巡りで富津市に来ていた時に、携帯で調べてでてきたお寺でした。

歴史

不動院は、伏見天皇の永仁2年(1294年)に僧願行(名は賢聖)が開基といわれています。本尊は不動明王です。願行は鎌倉時代の僧で将軍久明親王の要請で竹岡の地に巡錫しました。その折、夜海に光を放つものがありやがて海岸に漂着したものを霊木として不動明王の像と二脇侍の像をきざみ新たにお堂を建てて安置しました。境内には阿弥陀如来を安置する本堂と山裾に建てられた不動堂があります。

上総の七福神の「布袋尊」を祀る寺院として知られています。

影巫女が訪れた際に、ちょうど墨を切らしていたそうで…

なぜかボールペンで書かれていました( ;∀;)

後日、ほかのお寺のご住職が気を使っていただき、筆ペンでなぞってくれました。

ご住職様、ありがとうございます(^^♪

*参照したもの*

まるごと E!ちば


月別御朱印 小松寺

2023-02-15 15:49:00 | 御朱印

前回紹介した小松寺のイラスト御朱印です。

このイラスト御朱印、実は月変わりでイラストが変わっていくのです。

☆彡2020年2月

☆彡2020年3月

かわいいですよね(^^)

通な人はこのイラスト御朱印を求め、毎月小松寺に通うのだそうです。

影巫女はここ最近、小松寺のイラスト御朱印をもらいに行ってない…。

コロナがもう少し落ち着きたらまた、行きたいです!!


限定御朱印 真野寺

2023-01-15 22:35:00 | 御朱印

今回は以前紹介した真野寺の限定御朱印の紹介です。

🎵真野大黒天祭2020年🎵

2020年2月6日開催の真野大黒天祭、限定御朱印です。

大黒天様がとっってもかわいいです(⋈◍>◡<◍)。✧♡

🎵あじさい祭り2020年🎵

あじさいが咲く6月いっぱいの限定御朱印です。

押し花の御朱印は書置きのみとなります。

🎵真野大黒天祭2021年🎵

2021年2月6日開催の真野大黒天祭、限定御朱印です。

今年はコロナの影響で2月5日~2月7日の3日間で限定御朱印が受け取れました。


御朱印 真野寺

2023-01-15 10:00:00 | 御朱印

千葉県南房総市にある真野寺に行ってきました。

真野寺は商売繁盛の祈祷をしてくれるお寺として有名で、毎年2月6日に行われる真野大黒天祭には多くの参拝者が訪れます。

歴史

千葉県南房総市久保にある神亀2年(725年)に開創された真言宗智山派のお寺です。本尊は行基作と伝えられる、全国でも例のない、お面を付けた覆面千手観音です。
古くから商売繁盛、金運上昇の朝日開運大黒天として、多くの方に参詣いただいております。真野寺から貸与される小槌を飾ると金運を呼び込むと言われ、毎年2月の大祭時には新しい小槌へ交換される方で賑わいます。

真野寺は神亀二年(725)行基菩薩によって千手観音を本尊として、開山されました。当初は現在の場所から東に1kmほど離れた高倉山の山頂に開かれたと伝わります。


貞観二年(860)、慈覚大師(円仁)は、度重なる災害に苦しむ、房総の民の不幸を哀れみ、当山に参籠し、救済の祈りを捧げます。すると大黒天が朝日が昇るなか、東の雲より現れ、慈覚大師はそのお姿を像に刻みました。依頼、その因縁と霊験により、朝日開運大黒天として、崇拝されるようになりました。

建永元年(1206)には火災に遭うも、まもなくして大黒天の信仰厚い、北条義時公が私財を投じ、現在の地に七堂伽藍を建立しました。その後も徳川家の庇護を受け、また里見家を中心とした安房一帯の祈願所となり、今日に至ります。

毎年2月6日開催の大黒天祭と6月6日開催のあじさい祭りでは限定御朱印がいただけます。

今回は通常の御朱印3種類を紹介します。限定御朱印は次回ご紹介しますね!

*参照したもの*

真野寺 ホームページ


御朱印 最上寺

2023-01-13 10:25:00 | 御朱印

千葉県富津市にある最上寺に行ってきました。

このお寺は、ぼけ封じの観音様がいることで地元ではとても有名なんだそうです。

歴史

当山は、人皇第38代天智天皇の時代(668~71)、修験道の祖と仰がれる役の行者(えんのぎょうじゃ)がこの地を訪れ、四海道路を開くべく祈願してお堂が建てられました。このお堂に不動明王を安置して、悪鬼退散・万民豊楽を祈り、済珠密院(さいしゅみついん)最上寺(さいじょうじ)と称しました。
背後の山は、「普く和らぎが与えられますように」と願いが込められて「普和山(ふわざん)」と名付け、その後この山が、役の行者を「神変大菩薩(じんぺんだいぼさつ)」と崇拝する行者達による修行の場となり発展していきました。

第82代後鳥羽天皇の時代(1185~97)、京仏師の雲慶(うんけい)が諸国巡礼の際にこの地へ立寄り、十一面観世音菩薩の尊像を謹刻し、併せて天照明神・春日明神の霊体を両脇士として勧請し、別殿を造立しました。鎌倉長谷寺の観音様の映しともいわれ、霊験あらたかとも称されて寺門愈々興隆し、参詣者絶えず振わいました。ところが、弘治の変(1556)に際し、堂宇は一朝にして悉く焼失してしまい、住時の盛観は見るよしもなく、かろうじて僅かに御本尊不動明王と十一面観世音菩薩だけがその災禍を免れました。

その後、法灯は連綿として代を重ね、江戸期綱吉公の時代には十一面観音菩薩の両脇に春日明神(かすがみょうじん)と雨宝童子(うほうどうじ)が新たに造立され、その容貌は現在に受け継がれています。しかしながら、再三の火災や天災にも遭い、時代の流れによる紆余曲折や窮迫の時もありました。殊に明治期の神仏分離では寺領が没収され、御本尊をはじめとする寺宝の護持にも困る有り様でありました。このため、堂宇の老朽は甚だしく、懸命に護持興降に腐心しなければなりませんでした。
しかし、本尊大日大聖不動明王や観世音菩薩の御利益に帰依する報恩謝得の檀信徒は多く、昭和期に入り中興第19世・義嶽和尚(ぎがくわじょう)は、檀信徒と共に一致協力して鋭意寺門の興降に専心しました。
最上寺中興の祖と伝わる伝順僧都(でんじゅんそうず)は、その焦土と化した境内に小屋を立てて両尊像を仮安置しました。

ついに昭和24年(1949)の春、戦後の物資が乏しい中、別殿観音堂を普和山の山腹に建立し、寺門復興に勤しみました。ところが、戦後における寺領であった農地開放は寺院経営に困難をもたらしてしまい、復興事業が滞ってしまいました。第22世・義昭和尚(ぎしょうわじょう)は昭和43年(1968年)に法灯を継承すると、檀信徒の教化活動に励む傍ら、改めて寺門復興を願い奔走し、ついに昭和47年(1972年)の春に本堂の再建を成し遂げて今日の様相を呈するようになりました。
その後、伝順僧都とその弟子僧、そして地元郷民の協力によって堂宇が再建され、再び賑わいを取り戻していきました。

影巫女がうかがった日、ご住職は車の祈祷に行かれていたそうで…奥様・ご住職のお母さまが御朱印を書いてくれました。

*参照したもの*

最上寺 ホームページ