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朝の光(聖書の言葉)

へブル人への手紙 解説  重要な言葉 2017.9.9



へブル人への手紙

 

へブル人の手紙は,

著者はパウロだとする説も

ありますが,

はっきりとはわかりません。

 

ローマにいたユダヤ人キリスト者に

宛てて

書かれているように思われます。

 

この手紙では,

ユダヤ教よりキリスト教の

すぐれていることが

書かれています。

 

イエス・キリストと

キリストの贖罪が

取り上げられています。

 

このブログでは,

1章に数節を選びだし,

短い解説を付けました。

 

 

 

 

御子は神の本質の現れ

 

(ヘブル1:1-3)


「神は,むかし先祖たちに,

預言者たちを通して,

多くの部分に分け,

また,

いろいろな方法で語られましたが,

この終わりの時には,

御子によって,

私たちに語られました。

神は,御子を万物の相続者とし,

また御子によって

世界を造られました。

御子は神の栄光の輝き,

また神の本質の完全な現れであり,

その力あるみことばによって

万物を保っておられます。

また,罪のきよめを成し遂げて,

すぐれて高い所の

大能者の右の座に着かれました。」

 

御子イエス・キリストは

万物を造られた方であり,

「神の栄光」の輝きです。

 

 そして,神の本質の現れ,

すなわち神御自身です。

 

イエス・キリストは,

生涯と十字架の死により

「罪のきよめを成し遂げ」

(1:3)ました。

 

そして,

神の「右の座に着かれました。」

(1:3)。

 

 ○

 

 

受肉

 

(へブル2:14,15)


「そこで,

子たちはみな血と肉とを

持っているので,

主もまた同じように,

これらのものを

お持ちになりました。

これは,その死によって,

悪魔という,

死の力を持つ者を滅ぼし,

一生涯死の恐怖につながれて

奴隷となっていた人々を

解放してくださるためでした。

 

 主が受肉されたのは,

十字架の死によって,

 わたしたちが悪魔,

死の奴隷から

解放して下さるためでした。

 

 

試練

 

(へブル2:17,18)


「そういうわけで,

神のことについて,

あわれみ深い,

忠実な大祭司となるため,

主はすべての点で

兄弟たちと同じように

ならなければなりませんでした。

それは民の罪のために,

なだめがなされるためなのです。

主は,ご自身が試みを受けて

苦しまれたので,

試みられている者たちを

助けることが

おできになるのです。」

  

イエスが試練を受けたのは,

わたしたちが

試練に打ち勝つためでした。 

 

 

イエスはモーセに勝る

 

(ヘブル3:4-6)


「家はそれぞれ,

だれかが建てるのですが,

すべてのものを造られた方は,

神です。(3:4)

モーセは,

しもべとして

神の家全体のために忠実でした。

それは,

後に語られる事を

あかしするためでした。

しかし,キリストは御子として

神の家を忠実に治められるのです。

もし私たちが,確信と,

希望による誇りとを,

終わりまでしっかりと

持ち続けるならば,

私たちが神の家なのです。」

 

「すべてのものを造られた方は,

神です。」

(3:4)

 

神は万物を造られました。

 

モーセは神の家である,

幕屋を造りました。

 

神の家は,

イエス・キリスト御自身です。


イエス・キリストを

信じるわたしたちも神の家です。

 


イエスは,次のように言いました。

 

(ヨハネ2:19,21)

「イエスは彼らに答えて言われた。

『この神殿をこわしてみなさい。

わたしは,

三日でそれを建てよう。』

そこで,ユダヤ人たちは言った。

『この神殿は建てるのに

四十六年かかりました。

あなたはそれを,

三日で建てるのですか。』

しかし,

イエスはご自分のからだの

神殿のことを言われたのである。」

 

 

安息に入る

 

(へブル4:3)


「信じた私たちは

安息に入るのです。

『わたしは,

怒りをもって誓ったように,

決して彼らを

わたしの安息に入らせない。』

と神が言われたとおりです。

みわざは創世の初めから,

もう終わっているのです。」

 

イエス・キリストを信じる者は,

天で永遠に神と共に住み,

安息が与えられます。

 

 

神のことば


 (ヘブル4:12)


「神のことばは生きていて,

力があり,両刃の剣よりも鋭く,

たましいと霊,

関節と骨髄の分かれ目さえも

刺し通し,

心のいろいろな考えや

はかりごとを

判別することができます。」


聖書の言葉は,

神によって啓示されたものです。


神の霊と言葉は,

「生きていて,力があ」ります。


そして,

人間の心の深いところまで到達し,

人間の考えを判断します。

 

 

メルキゼデクと同じ大祭司

 

(ヘブル5:6-10)


「別の個所で,こうも言われます。

『あなたは,とこしえに,

メルキゼデクの位に等しい

祭司である。』

キリストは,

人としてこの世におられたとき,

自分を死から

救うことのできる方に向かって,

大きな叫び声と涙とをもって

祈りと願いをささげ,

そして

その敬虔のゆえに

聞き入れられました。

キリストは御子であられるのに,

お受けになった

多くの苦しみによって従順を学び,

完全な者とされ,

彼に従うすべての人々に対して,

とこしえの救いを与える者となり,

神によって,

メルキゼデクの位に等しい

大祭司ととなえられたのです。」

 

メルキゼデクは,

いと高き神の祭司であり,

サレムの王です。

 

イエス・キリストは,

メルキゼデクに等しい祭司です。

 

 (創世記14:17-20)

「こうして,

アブラムがケドルラオメルと,

彼といっしょにいた王たちとを

打ち破って帰って後,

ソドムの王は,

王の谷と言われるシャベの谷まで,

彼を迎えに出て来た。

さて,シャレムの王メルキゼデクは

パンとぶどう酒を持って来た。

彼はいと高き神の祭司であった。

彼はアブラムを祝福して言った。

『祝福を受けよ。アブラム。

天と地を造られた方,

いと高き神より。

あなたの手に,

あなたの敵を渡されたいと

高き神に,

誉れあれ。』

アブラムはすべての物の

十分の一を彼に与えた。」

 


キリスト教の初歩

 
(へブル6:1-4 口語訳)

「そういうわけだから,
わたしたちは,
キリストの教の初歩をあとにして,
完成を目ざして進もうではないか。
今さら,
死んだ行いの悔改めと神への信仰, 
洗いごとについての教と按手,
死人の復活と永遠のさばき,
などの基本の教を
くりかえし学ぶことを
やめようではないか。 
神の許しを得て,
そうすることにしよう。」
 
 
著者はこの初歩の教えは,

ここでは繰り返さないといいます。

 
パウロの手紙に

書かれていることですが,
 
ローマ人への手紙には,

この教えを正しく書いてあります。
 

初歩であり,

基本であり,最も大切な教えです。

  



大祭司イエス

 

(ヘブル6:19,20)


「この望みは,

私たちのたましいのために,

安全で確かな錨の役を果たし,

またこの望みは

幕の内側に入るのです。

イエスは私たちの先駆けとして

そこに入り,

永遠にメルキゼデクの位に

等しい大祭司となられました。」

 

キリストは,

単に大祭司であるばかりか,

天の幕屋に入ることの

「先駆け」(6:20)

となりました。

 

すなわち

彼の後から神の民がついて行き,

幕屋に入ることが

出来るようになります。

 

これはレビ族の祭司にはなかった,

キリストの祭司職の

特異な点であります。

 

こうしてヘブル書では,

メルキゼデクに等しい

大祭司キリスト論を

展開します。

 

 

完全に救う

 

(へブル7:24)


「キリストは

永遠に存在されるのであって,

変わることのない

祭司の務めを持っておられます。

したがって,

ご自分によって神に近づく人々を,

完全に救うことが

おできになります。

キリストはいつも生きていて,

彼らのために,

とりなしをして

おられるからです。」

 

キリストの救いは完全でした。

 

そして今,生きていて,

わたしたちのとりなしを

してくださっています。

 

 

型に従って

 

(ヘブル8:5)


「その人たちは,

天にあるものの写しと影とに

仕えているのであって,

それらは

モーセが

幕屋を建てようとしたとき,

神から御告げを

受けたとおりのものです。

神はこう言われたのです。

『よく注意しなさい。

山であなたに示された型に従って,

すべてのものを作りなさい。』」

 

パウロは,

ギリシャの哲学を

知っていたかもしれません。

 

あるギリシャの哲学者は,

はじめ神が見えない

完全な世界を創造し,

その亜流として見える世界を

創造したと考えました。

 

モーセが幕屋を山で示された

型どおりのものを作るようにと

神に教えられました。

 

聖書は,

天にあるものが

地でなされると教えています。

 

 

契約の仲介者

 

(ヘブル8:6)


「今,

キリストはさらにすぐれた務めを

得られました。

それは彼が,

さらにすぐれた

約束に基づいて制定された,

さらにすぐれた

契約の仲介者であるからです。」


イエス・キリストは,

神とわたしたちの新しい契約の

仲介者です。

 

神は,石の板ではなく,

わたしたちの心に直接に記される

新しい契約を

結ぶと約束していました。

 

次のように預言されていました。

 

(エレミヤ31:31)

「見よ。その日が来る。

─ 主の御告げ ─

その日,わたしは,

イスラエルの家とユダの家とに,

新しい契約を結ぶ。」

 

(ヘブル8:13)

「神が新しい契約と

言われたときには,

初めのものを古いとされたのです。

年を経て古びたものは,

すぐに消えて行きます。」

 

●●

 

永遠の贖い(あがない)

 

(ヘブル9:12)


「やぎと子牛との

血によってではなく,

ご自分の血によって,

ただ一度,まことの聖所に入り,

永遠の贖いを

成し遂げられたのです。」

 

神の子のイエス・キリストは

完全な贖(あがな)いとしての

供え物でした。

 

カルバリ山で,イエス・キリストは

ご自身を父なる神に

献(ささ)げられました。

 

いま,わたしたちは,

犠牲の供え物を献げる必要は

なくなりました。

 

 

「とこしえの御霊によって」

 

(ヘブル9:14)


「まして,

キリストが傷のないご自身を,

とこしえの御霊によって

神に おささげになった 

その血は,

どんなにか私たちの良心を

きよめて

死んだ行ないから離れさせ,

生ける神に

仕える者とすることでしょう。」

 

 イエスの贖いは,

聖霊によりました。

 

イエスは十字架につけられて

贖いの死を全うしました。

 

イエスの贖いは,

「とこしえの御霊によって」

(ヘブル9:14),

イエス御自身を

神にささげることによって

成されました。

 

 

罪の赦し

 

(ヘブル9:22)


「律法によれば,

すべてのものは

血によってきよめられる,

と言ってよいでしょう。

また,

血を注ぎ出すことがなければ,

罪の赦しはないのです。」

 

イエス・キリストが

血を流すことによって,

信じる者の罪は赦されます。


聖書では,

血は命をあらわしています。


わたしたちが
イエス・キリストを信じると,
罪が赦され,
義(正しい)とされます。

義認と呼びます。


(義認) 


 

 

イエス・キリストの再臨

 

(ヘブル9:27,28)


「そして,人間には,

一度死ぬことと死後にさばきを

受けることが

定まっているように,

キリストも,

多くの人の罪を負うために一度,

ご自身をささげられましたが,

二度目は,罪を負うためではなく,

彼を待ち望んでいる

人々の救いのために

来られるのです。」

 

イエス・キリストは,

私たちの罪を負うために

来られました。

 

そして,信じる者の完全な聖め,

からだの回復と完成という

全きの救いのために,

もう一度来られます。

(再臨)


 再臨のとき,

わたしたちの救いの完成するときを

栄化といいます。

(栄化)

 

 

 

聖なるものとされる


 (へブル10:10)


「このみこころに従って,

イエス・キリストのからだが,

ただ一度だけ

ささげられたことにより,

私たちは聖なるものと

されているのです。」


キリストが

ご自身を神にささげたことにより,

私たちの罪は赦され,

罪から解放され,

聖なるものとされるのです。


「聖なるもの」とは,

この世から離れて,

「神のもの」となることです。 


信じる者が

聖なるものとされることを,

「聖化」と呼びます。


(聖化) 


 

 

イエスの血

 

(へブル10:19,20)


「こういうわけですから,

兄弟たち。

私たちは,イエスの血によって,

大胆にまことの聖所に

入ることができるのです。

イエスはご自分の肉体という

垂れ幕を通して,

私たちのために

この新しい生ける道を

設けてくださったのです。」

 

血は命を表しています。

 

イエスは,

ご自身の命を

ささげることによって,

私たちが,

神と交わることが

できるようになりました。

 

(レビ17:14)

「すべての生き物の命は

その血であり,

それは生きた体の内に

あるからである。

わたしはイスラエルの人々に言う。

いかなる生き物の血も,

決して食べてはならない。

すべての生き物の命は,

その血だからである。

それを食べる者は断たれる。」

 

 

信仰

 

(ヘブル11:1)


「信仰は望んでいる

事がらを保証し,

目に見えないものを

確信させるものです。」

 

信仰とは,神を信じること,

イエス・キリストを信じること,

聖霊を信じることです。

 

そして,イエスのなされたこと,

イエスが

私たちにしてくださることを

信じることです。

 

信仰は目に見えないものが,

本当にあるように

確信することです。

 

それは,信仰の本質です。

 

☆彡


(へブル11:1-3)


「信仰は望んでいる事がらを

保証し,

目に見えないものを

確信させるものです。

昔の人々はこの信仰によって

称賛されました。

信仰によって,私たちは,

この世界が神のことばで

造られたことを悟り,

したがって,

見えるものが目に見えるものから

できたのではないことを

悟るのです。」

 

 

よみがえり(復活)の信仰

 

(ヘブル11:17-19)


「信仰によって,アブラハムは,

試みられたとき

イサクをささげました。

彼は約束を与えられていましたが,

自分のただひとりの子を

ささげたのです。

神はアブラハムに対して,

『イサクから出る者が

あなたの子孫と呼ばれる』

と言われたのですが,

彼は,神には人を死者の中から

よみがえらせることもできる,

と考えました。

それで彼は,

死者の中から

イサクを取り戻したのです。

これは型です。」

 

アブラハムが

イサクをささげたのは,

アブラハムに,

復活の信仰があったのです。

 

 

イエス・キリスト,

神の御座の右に着座される


(ヘブル12:1,2)


「こういうわけで,

このように多くの証人たちが,

雲のように私たちを

取り巻いているのですから,

私たちも,

いっさいの重荷と

まつわりつく罪とを捨てて,

私たちの前に置かれている競走を

忍耐をもって

走り続けようではありませんか。

信仰の創始者であり,

完成者であるイエスから

目を離さないでいなさい。

イエスは,

ご自分の前に置かれた

喜びのゆえに,

はずかしめをものともせずに

十字架を忍び,

神の御座の右に着座されました。」

 

イエス・キリストは,

父なる神を信じ,従順でした。

 

イエス・キリストは

十字架につけられ,

復活し,

神の右に着座されています。

 

この生きているイエス・キリストを

目を離さないで

いなさいといいます。

 

 

 

信仰の創始者であり,

完成者であるイエス

 

(ヘブル12:2)


「信仰の創始者であり,

完成者であるイエスから

目を離さないでいなさい。

イエスは,

ご自分の前に置かれた

喜びのゆえに,

はずかしめをものともせずに

十字架を忍び,

神の御座の右に着座されました。」

 

 イエス・キリストは

十字架につけられ,

復活し,

今は神の右に着座しています。

 

このイエス・キリストを

見続けましょうと言います。

 

イエスは十字架に架けられるとき,

十字架の後の復活,昇天,

主の栄光と勝利を見ていました。

 

イエスは,

勝利を見ることによって,

十字架に耐えられました。

 

ルカに二人の強盗の話があります。

イエス御自身も十字架の後の復活,

昇天の勝利を見ていたはずです。

 

 

 

 

愛し合う

 

(へブル13:1)


「兄弟愛を

いつも持っていなさい。」

 

 兄弟愛はキリストにある

神の贖罪の愛による,

実であります。


ヨハネはつぎのように言います。


(1ヨハネ3:16-18)

「主は,
わたしたちのために
いのちを捨てて下さった。
それによって,
わたしたちは
愛ということを知った。
それゆえに,わたしたちもまた,
兄弟のために
いのちを捨てるべきである。 
世の富を持っていながら,
兄弟が困っているのを見て,
あわれみの心を閉じる者には,
どうして神の愛が,
彼のうちにあろうか。 
子たちよ。
わたしたちは
言葉や口先だけで
愛するのではなく,
行いと真実とをもって
愛し合おうではないか。」

 

次のことばは,

キリスト者の倫理の

「黄金律」と呼ばれます。

 

(マタイ7:12)

「それで,何事でも,

自分にしてもらいたいことは,

ほかの人にもそのようにしなさい。

 これが律法であり預言者です。」

 

 

 

永遠に変わらないイエス

 

(ヘブル13:8)


「イエス・キリストは,

きのうもきょうも,

いつまでも,同じです。」

 

イエス・キリストは

永遠に存在する方です。

 

イエス・キリストが

十字架でなされた

救いの業は完全であり,

永遠に有効なものです。

 

 

来たるべき都・神の国

 

(へブル13:14,15)


「私たちは,

この地上に永遠の都を

持っているのではなく,

むしろ後に来ようとしている都を

求めているのです。(14)

ですから,

私たちはキリストを通して,

賛美のいけにえ,

すなわち御名を

たたえるくちびるの果実を,

神に絶えずささげようでは

ありませんか。(15)」

  

私たちは,

この地上の歩みにおいて

「永遠の都」(14)

を求めています。

 

そして,

神への「賛美のいけにえ」,

すなわち,神に賛美をし,

礼拝をしましょう。(15)

 

「永遠の都」は,

イエス・キリストが

もう一度来られるとき,

信じる者に与えられるところです。

 

 

キリストの栄光・再臨

 

(ヘブル13:20)


「永遠の契約の血による

羊の大牧者,

私たちの主イエスを

死者の中から導き出された

平和の神が,

イエス・キリストにより,

御前でみこころにかなうことを

私たちのうちに行い,

あなたがたが

みこころを行うことが

できるために,

すべての良いことについて,

あなたがたを

完全な者として

くださいますように。

どうか,キリストに栄光が

世々限りなくありますように。

アーメン。」

 

イエス・キリストの十字架,

復活の後,神の右の座にいます。

 

そして再臨されます。

 

そのとき,

わたしたちは

完全なものとなります。

 

そして,

キリストの栄光が現されます。

 

 

 

 

2017.9.9


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