へブル人への手紙
へブル人の手紙は,
著者はパウロだとする説も
ありますが,
はっきりとはわかりません。
ローマにいたユダヤ人キリスト者に
宛てて
書かれているように思われます。
この手紙では,
ユダヤ教よりキリスト教の
すぐれていることが
書かれています。
イエス・キリストと
キリストの贖罪が
取り上げられています。
このブログでは,
1章に数節を選びだし,
短い解説を付けました。
○
御子は神の本質の現れ
(ヘブル1:1-3)
「神は,むかし先祖たちに,
預言者たちを通して,
多くの部分に分け,
また,
いろいろな方法で語られましたが,
この終わりの時には,
御子によって,
私たちに語られました。
神は,御子を万物の相続者とし,
また御子によって
世界を造られました。
御子は神の栄光の輝き,
また神の本質の完全な現れであり,
その力あるみことばによって
万物を保っておられます。
また,罪のきよめを成し遂げて,
すぐれて高い所の
大能者の右の座に着かれました。」
御子イエス・キリストは
万物を造られた方であり,
「神の栄光」の輝きです。
そして,神の本質の現れ,
すなわち神御自身です。
イエス・キリストは,
生涯と十字架の死により
「罪のきよめを成し遂げ」
(1:3)ました。
そして,
神の「右の座に着かれました。」
(1:3)。
○
受肉
(へブル2:14,15)
「そこで,
子たちはみな血と肉とを
持っているので,
主もまた同じように,
これらのものを
お持ちになりました。
これは,その死によって,
悪魔という,
死の力を持つ者を滅ぼし,
一生涯死の恐怖につながれて
奴隷となっていた人々を
解放してくださるためでした。」
主が受肉されたのは,
十字架の死によって,
わたしたちが悪魔,
死の奴隷から
解放して下さるためでした。
○
試練
(へブル2:17,18)
「そういうわけで,
神のことについて,
あわれみ深い,
忠実な大祭司となるため,
主はすべての点で
兄弟たちと同じように
ならなければなりませんでした。
それは民の罪のために,
なだめがなされるためなのです。
主は,ご自身が試みを受けて
苦しまれたので,
試みられている者たちを
助けることが
おできになるのです。」
イエスが試練を受けたのは,
わたしたちが
試練に打ち勝つためでした。
○
イエスはモーセに勝る
(ヘブル3:4-6)
「家はそれぞれ,
だれかが建てるのですが,
すべてのものを造られた方は,
神です。(3:4)
モーセは,
しもべとして
神の家全体のために忠実でした。
それは,
後に語られる事を
あかしするためでした。
しかし,キリストは御子として
神の家を忠実に治められるのです。
もし私たちが,確信と,
希望による誇りとを,
終わりまでしっかりと
持ち続けるならば,
私たちが神の家なのです。」
「すべてのものを造られた方は,
神です。」
(3:4)
神は万物を造られました。
モーセは神の家である,
幕屋を造りました。
神の家は,
イエス・キリスト御自身です。
イエス・キリストを
信じるわたしたちも神の家です。
イエスは,次のように言いました。
(ヨハネ2:19,21)
「イエスは彼らに答えて言われた。
『この神殿をこわしてみなさい。
わたしは,
三日でそれを建てよう。』
そこで,ユダヤ人たちは言った。
『この神殿は建てるのに
四十六年かかりました。
あなたはそれを,
三日で建てるのですか。』
しかし,
イエスはご自分のからだの
神殿のことを言われたのである。」
○
安息に入る
(へブル4:3)
「信じた私たちは
安息に入るのです。
『わたしは,
怒りをもって誓ったように,
決して彼らを
わたしの安息に入らせない。』
と神が言われたとおりです。
みわざは創世の初めから,
もう終わっているのです。」
イエス・キリストを信じる者は,
天で永遠に神と共に住み,
安息が与えられます。
○
神のことば
(ヘブル4:12)
「神のことばは生きていて,
力があり,両刃の剣よりも鋭く,
たましいと霊,
関節と骨髄の分かれ目さえも
刺し通し,
心のいろいろな考えや
はかりごとを
判別することができます。」
聖書の言葉は,
神によって啓示されたものです。
「生きていて,力があ」ります。
人間の心の深いところまで到達し,
人間の考えを判断します。
○
メルキゼデクと同じ大祭司
(ヘブル5:6-10)
「別の個所で,こうも言われます。
『あなたは,とこしえに,
メルキゼデクの位に等しい
祭司である。』
キリストは,
人としてこの世におられたとき,
自分を死から
救うことのできる方に向かって,
大きな叫び声と涙とをもって
祈りと願いをささげ,
そして
その敬虔のゆえに
聞き入れられました。
キリストは御子であられるのに,
お受けになった
多くの苦しみによって従順を学び,
完全な者とされ,
彼に従うすべての人々に対して,
とこしえの救いを与える者となり,
神によって,
メルキゼデクの位に等しい
大祭司ととなえられたのです。」
メルキゼデクは,
いと高き神の祭司であり,
サレムの王です。
イエス・キリストは,
メルキゼデクに等しい祭司です。
(創世記14:17-20)
「こうして,
アブラムがケドルラオメルと,
彼といっしょにいた王たちとを
打ち破って帰って後,
ソドムの王は,
王の谷と言われるシャベの谷まで,
彼を迎えに出て来た。
さて,シャレムの王メルキゼデクは
パンとぶどう酒を持って来た。
彼はいと高き神の祭司であった。
彼はアブラムを祝福して言った。
『祝福を受けよ。アブラム。
天と地を造られた方,
いと高き神より。
あなたの手に,
あなたの敵を渡されたいと
高き神に,
誉れあれ。』
アブラムはすべての物の
十分の一を彼に与えた。」
○
大祭司イエス
(ヘブル6:19,20)
「この望みは,
私たちのたましいのために,
安全で確かな錨の役を果たし,
またこの望みは
幕の内側に入るのです。
イエスは私たちの先駆けとして
そこに入り,
永遠にメルキゼデクの位に
等しい大祭司となられました。」
キリストは,
単に大祭司であるばかりか,
天の幕屋に入ることの
「先駆け」(6:20)
となりました。
すなわち
彼の後から神の民がついて行き,
幕屋に入ることが
出来るようになります。
これはレビ族の祭司にはなかった,
キリストの祭司職の
特異な点であります。
こうしてヘブル書では,
メルキゼデクに等しい
大祭司キリスト論を
展開します。
○
完全に救う
(へブル7:24)
「キリストは
永遠に存在されるのであって,
変わることのない
祭司の務めを持っておられます。
したがって,
ご自分によって神に近づく人々を,
完全に救うことが
おできになります。
キリストはいつも生きていて,
彼らのために,
とりなしをして
おられるからです。」
キリストの救いは完全でした。
そして今,生きていて,
わたしたちのとりなしを
してくださっています。
○
型に従って
(ヘブル8:5)
「その人たちは,
天にあるものの写しと影とに
仕えているのであって,
それらは
モーセが
幕屋を建てようとしたとき,
神から御告げを
受けたとおりのものです。
神はこう言われたのです。
『よく注意しなさい。
山であなたに示された型に従って,
すべてのものを作りなさい。』」
パウロは,
ギリシャの哲学を
知っていたかもしれません。
あるギリシャの哲学者は,
はじめ神が見えない
完全な世界を創造し,
その亜流として見える世界を
創造したと考えました。
モーセが幕屋を山で示された
型どおりのものを作るようにと
神に教えられました。
聖書は,
天にあるものが
地でなされると教えています。
○
契約の仲介者
(ヘブル8:6)
「今,
キリストはさらにすぐれた務めを
得られました。
それは彼が,
さらにすぐれた
約束に基づいて制定された,
さらにすぐれた
契約の仲介者であるからです。」
イエス・キリストは,
神とわたしたちの新しい契約の
仲介者です。
神は,石の板ではなく,
わたしたちの心に直接に記される
新しい契約を
結ぶと約束していました。
次のように預言されていました。
(エレミヤ31:31)
「見よ。その日が来る。
─ 主の御告げ ─
その日,わたしは,
イスラエルの家とユダの家とに,
新しい契約を結ぶ。」
(ヘブル8:13)
「神が新しい契約と
言われたときには,
初めのものを古いとされたのです。
年を経て古びたものは,
すぐに消えて行きます。」
●●
永遠の贖い(あがない)
(ヘブル9:12)
「やぎと子牛との
血によってではなく,
ご自分の血によって,
ただ一度,まことの聖所に入り,
永遠の贖いを
成し遂げられたのです。」
神の子のイエス・キリストは
完全な贖(あがな)いとしての
供え物でした。
カルバリ山で,イエス・キリストは
ご自身を父なる神に
献(ささ)げられました。
いま,わたしたちは,
犠牲の供え物を献げる必要は
なくなりました。
○
「とこしえの御霊によって」
(ヘブル9:14)
「まして,
キリストが傷のないご自身を,
とこしえの御霊によって
神に おささげになった
その血は,
どんなにか私たちの良心を
きよめて
死んだ行ないから離れさせ,
生ける神に
仕える者とすることでしょう。」
イエスの贖いは,
聖霊によりました。
イエスは十字架につけられて
贖いの死を全うしました。
イエスの贖いは,
「とこしえの御霊によって」
(ヘブル9:14),
イエス御自身を
神にささげることによって
成されました。
○
罪の赦し
(ヘブル9:22)
「律法によれば,
すべてのものは
血によってきよめられる,
と言ってよいでしょう。
また,
血を注ぎ出すことがなければ,
罪の赦しはないのです。」
イエス・キリストが
血を流すことによって,
信じる者の罪は赦されます。
(義認)
○
イエス・キリストの再臨
(ヘブル9:27,28)
「そして,人間には,
一度死ぬことと死後にさばきを
受けることが
定まっているように,
キリストも,
多くの人の罪を負うために一度,
ご自身をささげられましたが,
二度目は,罪を負うためではなく,
彼を待ち望んでいる
人々の救いのために
来られるのです。」
イエス・キリストは,
私たちの罪を負うために
来られました。
そして,信じる者の完全な聖め,
からだの回復と完成という
全きの救いのために,
もう一度来られます。
(再臨)
再臨のとき,
わたしたちの救いの完成するときを
栄化といいます。
(栄化)
●
聖なるものとされる
(へブル10:10)
「このみこころに従って,
イエス・キリストのからだが,
ただ一度だけ
ささげられたことにより,
私たちは聖なるものと
されているのです。」
キリストが
ご自身を神にささげたことにより,
私たちの罪は赦され,
罪から解放され,
聖なるものとされるのです。
「聖なるもの」とは,
この世から離れて,
「神のもの」となることです。
信じる者が
聖なるものとされることを,
「聖化」と呼びます。
(聖化)
○
イエスの血
(へブル10:19,20)
「こういうわけですから,
兄弟たち。
私たちは,イエスの血によって,
大胆にまことの聖所に
入ることができるのです。
イエスはご自分の肉体という
垂れ幕を通して,
私たちのために
この新しい生ける道を
設けてくださったのです。」
血は命を表しています。
イエスは,
ご自身の命を
ささげることによって,
私たちが,
神と交わることが
できるようになりました。
(レビ17:14)
「すべての生き物の命は
その血であり,
それは生きた体の内に
あるからである。
わたしはイスラエルの人々に言う。
いかなる生き物の血も,
決して食べてはならない。
すべての生き物の命は,
その血だからである。
それを食べる者は断たれる。」
○
信仰
(ヘブル11:1)
「信仰は望んでいる
事がらを保証し,
目に見えないものを
確信させるものです。」
信仰とは,神を信じること,
イエス・キリストを信じること,
聖霊を信じることです。
そして,イエスのなされたこと,
イエスが
私たちにしてくださることを
信じることです。
信仰は目に見えないものが,
本当にあるように
確信することです。
それは,信仰の本質です。
☆彡
(へブル11:1-3)
「信仰は望んでいる事がらを
保証し,
目に見えないものを
確信させるものです。
昔の人々はこの信仰によって
称賛されました。
信仰によって,私たちは,
この世界が神のことばで
造られたことを悟り,
したがって,
見えるものが目に見えるものから
できたのではないことを
悟るのです。」
○
よみがえり(復活)の信仰
(ヘブル11:17-19)
「信仰によって,アブラハムは,
試みられたとき
イサクをささげました。
彼は約束を与えられていましたが,
自分のただひとりの子を
ささげたのです。
神はアブラハムに対して,
『イサクから出る者が
あなたの子孫と呼ばれる』
と言われたのですが,
彼は,神には人を死者の中から
よみがえらせることもできる,
と考えました。
それで彼は,
死者の中から
イサクを取り戻したのです。
これは型です。」
アブラハムが
イサクをささげたのは,
アブラハムに,
復活の信仰があったのです。
○
イエス・キリスト,
神の御座の右に着座される
(ヘブル12:1,2)
「こういうわけで,
このように多くの証人たちが,
雲のように私たちを
取り巻いているのですから,
私たちも,
いっさいの重荷と
まつわりつく罪とを捨てて,
私たちの前に置かれている競走を
忍耐をもって
走り続けようではありませんか。
信仰の創始者であり,
完成者であるイエスから
目を離さないでいなさい。
イエスは,
ご自分の前に置かれた
喜びのゆえに,
はずかしめをものともせずに
十字架を忍び,
神の御座の右に着座されました。」
イエス・キリストは,
父なる神を信じ,従順でした。
イエス・キリストは
十字架につけられ,
復活し,
神の右に着座されています。
この生きているイエス・キリストを
目を離さないで
いなさいといいます。
○
信仰の創始者であり,
完成者であるイエス
(ヘブル12:2)
「信仰の創始者であり,
完成者であるイエスから
目を離さないでいなさい。
イエスは,
ご自分の前に置かれた
喜びのゆえに,
はずかしめをものともせずに
十字架を忍び,
神の御座の右に着座されました。」
イエス・キリストは
十字架につけられ,
復活し,
今は神の右に着座しています。
このイエス・キリストを
見続けましょうと言います。
イエスは十字架に架けられるとき,
十字架の後の復活,昇天,
主の栄光と勝利を見ていました。
イエスは,
勝利を見ることによって,
十字架に耐えられました。
ルカに二人の強盗の話があります。
イエス御自身も十字架の後の復活,
昇天の勝利を見ていたはずです。
○
愛し合う
(へブル13:1)
「兄弟愛を
いつも持っていなさい。」
兄弟愛はキリストにある
神の贖罪の愛による,
実であります。
ヨハネはつぎのように言います。
次のことばは,
キリスト者の倫理の
「黄金律」と呼ばれます。
(マタイ7:12)
「それで,何事でも,
自分にしてもらいたいことは,
ほかの人にもそのようにしなさい。
これが律法であり預言者です。」
○
永遠に変わらないイエス
(ヘブル13:8)
「イエス・キリストは,
きのうもきょうも,
いつまでも,同じです。」
イエス・キリストは
永遠に存在する方です。
イエス・キリストが
十字架でなされた
救いの業は完全であり,
永遠に有効なものです。
○
来たるべき都・神の国
(へブル13:14,15)
「私たちは,
この地上に永遠の都を
持っているのではなく,
むしろ後に来ようとしている都を
求めているのです。(14)
ですから,
私たちはキリストを通して,
賛美のいけにえ,
すなわち御名を
たたえるくちびるの果実を,
神に絶えずささげようでは
ありませんか。(15)」
私たちは,
この地上の歩みにおいて
「永遠の都」(14)
を求めています。
そして,
神への「賛美のいけにえ」,
すなわち,神に賛美をし,
礼拝をしましょう。(15)
「永遠の都」は,
イエス・キリストが
もう一度来られるとき,
信じる者に与えられるところです。
○
キリストの栄光・再臨
(ヘブル13:20)
「永遠の契約の血による
羊の大牧者,
私たちの主イエスを
死者の中から導き出された
平和の神が,
イエス・キリストにより,
御前でみこころにかなうことを
私たちのうちに行い,
あなたがたが
みこころを行うことが
できるために,
すべての良いことについて,
あなたがたを
完全な者として
くださいますように。
どうか,キリストに栄光が
世々限りなくありますように。
アーメン。」
イエス・キリストの十字架,
復活の後,神の右の座にいます。
そして再臨されます。
そのとき,
わたしたちは
完全なものとなります。
そして,
キリストの栄光が現されます。
2017.9.9