図書館・語り・紙芝居・集団相手の絵本よみ・ボランティアなどについて書きます。
絵解きボランティア
プログラム作りと表現の自由①
「春のおはなし会のプログラムを作る」で、私やSさんを含む5名が作ったプログラムが批判の対象に。プログラムは
①言葉遊びの本 約3分 ②葉祥明のストーリー性のある本、秋から春の盛りまでの展開 5分 ③田島征三のバッタの本 3分 ④お正月によく使われる昔話の本 10分 ⑤動物が冬眠から目覚めるリズム感のある本 5分 合計26分
問題点1 ②と⑤の時間経過が逆ではないか。先に春の盛りになってから早春に戻るので。
問題点2 ③は夏のイメージで、春のおはなし会にそぐわない。
さて、問題解決を検討します。⑤を先・②を後にしてみましょう。すると今度は早春から秋に戻るので、逆にするのもおかしいということになります。がらがらと本そのものを変えることになるでしょう。外国の本を入れることもできたかもしれません。
実は私が根本的に疑問に思っているのは、「時間の流れに重きをおくプログラム作りの物差し」で、「皆がやらなくてはならない」と、「誰がいつ決めたのか」、ということです。特定のやり方でやりましょうと決めると、そうでない人は排除になっていきます。そうではなく、物差しはいくつも用意し、または新しい物差しを作り、多様なやりかたを模索したいと思っています。村上春樹のエルサレムスピーチを引っ張って申し訳ないのですが、「システムが人を殺す」ことは避けたいのです。
そしてこの誰かから習ったと思われるプログラム作りの方法は、「20年以上読み継がれた本が良い本」という「わかりやすい選び方」で人や本を排除してきたことに、何か似ていると感じています。発端はただ想像の発露として言っただけなのに、受け手は「○○先生がそう言った」ということで、どんどん先端化して錦の御旗になったことは何遍も書いてきました。
私はその時は、とにかく大まかに春らしく、気楽に、変わったものを入れて、という感覚でやりましょうと提案しました。流れを大切に山場を作って・・というセオリーは使いませんでした。そのセオリーに疑問を持っているからです。それぞれが本という個別のカードを並べていく感覚でやりました。人が違えばプログラムについての考えも違います。
春の微妙な時期の差は関係なくおおまかに「春の本」とくくりました。また、⑤の最後の画面の「さあ、いくわよ」というイメージが明るい幕切れを表現しているように思えたので、最後はこれで終わらせたいと私が言いました。他の方は不慣れな様子だったので、これがそのまま通ったわけで、ここに検討の余地があったのですが、これはつまり、表現としての工夫なわけです。
②の読み手は大柄な男性で、葉祥明の絵との組み合わせが抜群に面白いので大切にしました。①②⑤が比較的薄い感じの絵ですから、中間は全然関係のないインパクトのある絵を入れることにしました。このことは私が主導しました。赤羽末吉が『だいくとおにろく』で白黒・カラー画面の区別を思いついた程度のことでしょう。
読み手の意向も大きかったバッタの本はオールシーズン使えると私は思っています。これは受ける側のいかんともしがたい感覚ですから、仕方ないですね。これを否定するのは、人が自然に感じることを侵す人権侵害にあたると私は思うのですが、どうでしょう。
そして、本の持ちこみに勘違いがあった人も全て含み入れて、とにかくその場にいる人を全て受け入れて、1人1つづつやることにしました。つまり季節時間の流れにきちんと沿うより、別のことに重点を置いたのです。それも私の考えです。違うグループは違うことに重点を置いて作られたことでしょう。
多様な現場に訪問する中で、私は、プログラムというのは、例えば本が5冊あれば最低5種類くらい考えられ、しかも、それのどれもが正解だと思うようになりました。
付け加えて、本を並べて見ても全体の半分が決まるだけであり、他は読み手の多様な語り口と姿で全然違ったものになっていきます。本の並びはその程度の比重なので、気楽に並べたいと思います。
本の並べ方を一定方向に指導したり読み方を細かく指導することは、自由な表現に踏み込むことになります。私は、そのことに、みんなにもっと気づいて欲しいと思います。表現はベテラン・初心者関係なく、ボランティアとして人は横並びです。生涯学習は、特定の教えを乞うのでなく、お互いに学びあうのですから、新人や違う考えも並べていかなくてはなりません。
おそらく今回、「私たちは図書館の直の会なの」という人々が再生産されたことでしょう。このところが理解されていなことを、私は悲しく思っています。
新人の方々が萎縮するのは、自分の感じたことをそのまま表すと否定されるのではないか、という恐れがいつも付きまとうからで、これをなんとかぬぐわなくてはなりません。本は交流ツールのはずですね。排除のためのツールにならないよう、本より人を大切にしたいと思うタチです。
それから、プログラムを発表応答してくれたSさんはとてもカッコよかったです。自分を押えてキチンと締めてくださいました。私にはとても真似できません。私は今、こうして文章にして思い出しながら組み立てるから説明できるのであり、あの時点ではぼんやりとしたイメージと断片の言葉しか頭にないのです。発表者もそうでしょう。私がとっさに声が出なくて、申し訳なかったと悔やまれます。
質疑応答の方法ですが、「私はこう思いますが、あなたはどうですか?」という姿勢がないと情報交換にならず、ただの攻撃になります。そのことも感じました。私も気をつけます。
先日のその研修会に出た大勢の方々も、プログラム作りはそんなに時間の流れに細かいことを考えるのかと呆然としたでしょう。図書館は、一つの物差しにこだわるよりも、人間の主体性を伸ばす方向に、行ってもらえないでしょうか。
かつて、その物差しでやってきた私たちは、聞き手のほとんどないおはなし会を何年間もやってきたのです。つまり、そのやり方は、何か根本的に問題があるのではないでしょうか。図書館はその失敗のやり方をまだ教え続けるつもりでいるようです。聞き手がちゃんとしている学校などでは通用するかも知れませんが、そこから何事か学ばなくては前に進めないのです。
次のページに、これをもう少し深めて(大げさですが)書いてみます。
①言葉遊びの本 約3分 ②葉祥明のストーリー性のある本、秋から春の盛りまでの展開 5分 ③田島征三のバッタの本 3分 ④お正月によく使われる昔話の本 10分 ⑤動物が冬眠から目覚めるリズム感のある本 5分 合計26分
問題点1 ②と⑤の時間経過が逆ではないか。先に春の盛りになってから早春に戻るので。
問題点2 ③は夏のイメージで、春のおはなし会にそぐわない。
さて、問題解決を検討します。⑤を先・②を後にしてみましょう。すると今度は早春から秋に戻るので、逆にするのもおかしいということになります。がらがらと本そのものを変えることになるでしょう。外国の本を入れることもできたかもしれません。
実は私が根本的に疑問に思っているのは、「時間の流れに重きをおくプログラム作りの物差し」で、「皆がやらなくてはならない」と、「誰がいつ決めたのか」、ということです。特定のやり方でやりましょうと決めると、そうでない人は排除になっていきます。そうではなく、物差しはいくつも用意し、または新しい物差しを作り、多様なやりかたを模索したいと思っています。村上春樹のエルサレムスピーチを引っ張って申し訳ないのですが、「システムが人を殺す」ことは避けたいのです。
そしてこの誰かから習ったと思われるプログラム作りの方法は、「20年以上読み継がれた本が良い本」という「わかりやすい選び方」で人や本を排除してきたことに、何か似ていると感じています。発端はただ想像の発露として言っただけなのに、受け手は「○○先生がそう言った」ということで、どんどん先端化して錦の御旗になったことは何遍も書いてきました。
私はその時は、とにかく大まかに春らしく、気楽に、変わったものを入れて、という感覚でやりましょうと提案しました。流れを大切に山場を作って・・というセオリーは使いませんでした。そのセオリーに疑問を持っているからです。それぞれが本という個別のカードを並べていく感覚でやりました。人が違えばプログラムについての考えも違います。
春の微妙な時期の差は関係なくおおまかに「春の本」とくくりました。また、⑤の最後の画面の「さあ、いくわよ」というイメージが明るい幕切れを表現しているように思えたので、最後はこれで終わらせたいと私が言いました。他の方は不慣れな様子だったので、これがそのまま通ったわけで、ここに検討の余地があったのですが、これはつまり、表現としての工夫なわけです。
②の読み手は大柄な男性で、葉祥明の絵との組み合わせが抜群に面白いので大切にしました。①②⑤が比較的薄い感じの絵ですから、中間は全然関係のないインパクトのある絵を入れることにしました。このことは私が主導しました。赤羽末吉が『だいくとおにろく』で白黒・カラー画面の区別を思いついた程度のことでしょう。
読み手の意向も大きかったバッタの本はオールシーズン使えると私は思っています。これは受ける側のいかんともしがたい感覚ですから、仕方ないですね。これを否定するのは、人が自然に感じることを侵す人権侵害にあたると私は思うのですが、どうでしょう。
そして、本の持ちこみに勘違いがあった人も全て含み入れて、とにかくその場にいる人を全て受け入れて、1人1つづつやることにしました。つまり季節時間の流れにきちんと沿うより、別のことに重点を置いたのです。それも私の考えです。違うグループは違うことに重点を置いて作られたことでしょう。
多様な現場に訪問する中で、私は、プログラムというのは、例えば本が5冊あれば最低5種類くらい考えられ、しかも、それのどれもが正解だと思うようになりました。
付け加えて、本を並べて見ても全体の半分が決まるだけであり、他は読み手の多様な語り口と姿で全然違ったものになっていきます。本の並びはその程度の比重なので、気楽に並べたいと思います。
本の並べ方を一定方向に指導したり読み方を細かく指導することは、自由な表現に踏み込むことになります。私は、そのことに、みんなにもっと気づいて欲しいと思います。表現はベテラン・初心者関係なく、ボランティアとして人は横並びです。生涯学習は、特定の教えを乞うのでなく、お互いに学びあうのですから、新人や違う考えも並べていかなくてはなりません。
おそらく今回、「私たちは図書館の直の会なの」という人々が再生産されたことでしょう。このところが理解されていなことを、私は悲しく思っています。
新人の方々が萎縮するのは、自分の感じたことをそのまま表すと否定されるのではないか、という恐れがいつも付きまとうからで、これをなんとかぬぐわなくてはなりません。本は交流ツールのはずですね。排除のためのツールにならないよう、本より人を大切にしたいと思うタチです。
それから、プログラムを発表応答してくれたSさんはとてもカッコよかったです。自分を押えてキチンと締めてくださいました。私にはとても真似できません。私は今、こうして文章にして思い出しながら組み立てるから説明できるのであり、あの時点ではぼんやりとしたイメージと断片の言葉しか頭にないのです。発表者もそうでしょう。私がとっさに声が出なくて、申し訳なかったと悔やまれます。
質疑応答の方法ですが、「私はこう思いますが、あなたはどうですか?」という姿勢がないと情報交換にならず、ただの攻撃になります。そのことも感じました。私も気をつけます。
先日のその研修会に出た大勢の方々も、プログラム作りはそんなに時間の流れに細かいことを考えるのかと呆然としたでしょう。図書館は、一つの物差しにこだわるよりも、人間の主体性を伸ばす方向に、行ってもらえないでしょうか。
かつて、その物差しでやってきた私たちは、聞き手のほとんどないおはなし会を何年間もやってきたのです。つまり、そのやり方は、何か根本的に問題があるのではないでしょうか。図書館はその失敗のやり方をまだ教え続けるつもりでいるようです。聞き手がちゃんとしている学校などでは通用するかも知れませんが、そこから何事か学ばなくては前に進めないのです。
次のページに、これをもう少し深めて(大げさですが)書いてみます。
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