プログラム作りと表現の自由②

①のことから、もう少し深く考えてみます。

 5年前のかみしばいクラブの設立当時、私の様子が堅苦しくて、会員さんに悪いことばかり言って、会員さんには「息苦しい」と言われることが多かったです。私はいつも自分や会が間違えないか失敗しないか、不安でした。だから、その気持ちがそのまま会員さんの前で出たのでしょう。
 私はわりと、瞬間的に人とは違うことをしようとする傾向があり、セオリーどおりのプログラムを作ることが苦手です。優等生から見ると変なプログラムを作る人としてお荷物人間で、いわゆるこわれれ者かもしれません。それでも会ではちゃんとしなくちゃと、5年前は他の人を指導しようとしたのですね。それが会の皆さんを不安にさせました。
 そんなことは長続きするはずはなく、謝って方針転換をしたことは、昔の投稿にあります。「自分たちはコンクールに出るわけではない」「自分たちは細く、長く、協調してやりたいだけ」「人と競争までする気はない」「人に尊敬されなくても構わない」・・・だいたい、そういう理由です。
 そういうことで、人が思い感じることは目の眩むほど幅広いことを理解し、教えることをやめたのです。もちろん口をついて出ることはあります。ただ、「こうしてみたら」と言っても、ご自分のやり方を通す方も多いですから、こっちも気楽です。自分で何か感じることに向かうのは、それは自由というものでしょう。
 
 最初はどなたも、どんな紙芝居があるかよくわからないのですから、聞き手選書型も始めました。もちろん、持ち込むボランティアは自分の今の段階で良いと感じるものを選んで持ち込むのですから、それはボランティアの自由な意思によるものです。それは尊重されて当たり前です。
 人生の出会いに例えると、間違いのない流れに沿った人生よりも、どこでどんな人に出会うかわからないほうが楽しいと思うタチです。どんな本や紙芝居に、どういう順番で出会うかなど、気にすることもなく、出会いがしらの偶然を喜べばいいかなあと思います。
 やがて、会員さんそれぞれが慣れてきて作品もわかってきたころ、ちょこちょこと順番を決めてからやり始める場合も出てきました。上下関係なく楽しいプログラム作りのままの雰囲気が語り手の表情に出ることも、いいことでした。

 私はかつて、「これこれこういう理由でプログラム作りは大切なのよ~」と説明を受け、受講生全員で“大切なのね~”と刷り込まれるような現場も経験しました。その時はそう思って納得するのですが、少し経つと、「ほんとにそうかな~」と思うへそ曲がりの性質も私はあります。それ以前に、一斉に聞いて、一斉に思い込む、そういう雰囲気を恐ろしいと思います。


 話は変わって、かつて私の家族が、図書館講演会で県外某図書館の司書さんの講演を聴いたときの話をします。氏は「例えば病気になったら、薬や病気の事を利用者が自分で調べて治療を自分で決められるように役立つのが図書館」と話されたそうです。
 しかし、家族は帰宅後、「その本に書いてあることが本当かどうか、疑ってかかる人間を育てるのが図書館」と言っていました。まあ、意見の違いでしょうか。

 つまり、この場合に当てはめれば、「あちこちにプログラムづくりのセオリーがあることを調べられる」のが司書さんの考えですね。しかし私たちは「あちこち」でなく、「一つだけ」のセオリーしか提示されなかったと感じています。もっと他はないか自分で探せば良かったですかね。
 そして、家族の考えに照らすと「そのセオリーを疑ってかかるような人を育てるのが図書館」ということです。思い出せば、そのセオリーどおりのプログラムでやってきた私たちは、かつてほとんど聞き手がなかった時代を経験しました。このことを、古いボランティアは新人に伝えなくてはならない。セオリーより先に。

 ボランティアは、その一つのセオリーという常識を疑い、例え失敗しても笑われても 違うことを試して当たり前だという気がしてならないのです。こういうのをボランティアの先進性というのではないでしょうか。
(「ボランティア活動の4原則」へ

 司書は、本を幾つか提示した後で、「コレでいいかどうか疑って下さい」くらいは言えばいいのではないでしょうか。でも、セオリーそのものを教える必要はないと思うのです。もちろん先輩から教え込むというのにも反対です。私がこう書いても、皆さんは笑われるだけかも知れませんが。
 私の考えが過激なのかも知れません。言っても言っても、理解していただけないこともあるでしょう。淡々と自分の道を行くだけです。でも、くりかえさせて下さい。時間内に収まるのですから、いろいろなプログラムは表現の自由の範囲内です。新しい人がやりやすいように、ベテランは道を開くのが仕事だと思います。怒っているわけでなく、表現の自由とか人権とか、そういうのは意識して守っていかないと壊れやすいものだと思います。

 私が何故、図書館に直接言わずにブログに書くかと言えば、新潟だけでなく世の中全体が、システムに押しつぶされる様子が感じられるからです。一人ひとりが習ったことを疑わない限り、そのシステムに乗っかった者が勝っていくことになる。あの戦争の時、なんでもない普通の心優しい大人が狂っていった、そんなイメージが重なるのです。
 
 本当に、先日はとっさに反論の声が出なくて、ここにこんなこと書いて我ながら情けないのです。口下手で、頭の中を整理するのに書かないとわからないのです。そして口をついて出るのは「・・・・気楽にやりましょう」だけです。なーんて語彙の少ない私。
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コメント
 
 
 
参加しました (yamamotoyama)
2010-03-03 22:42:00
時々拝見しています。
はじめて投稿します。
私もプログラム作りに参加しました。
参加は初めてです。
中央図書館のボランティアさん(多分)に仕切られました。
「中央では○○だから」と・・・
そうかあ、中央のプログラム作りに来たのかあと思って、自分の意見は引っ込めました。
いろいろあっていいんです。好きなように楽しくやりましょう。
わたしも「ぽとんぽとんはなんのおと」を最後にやるのはどうかなと思った一人です。
その理由としては、
1、春といっても実演を前提にしている以上、春一般ではなく何月何日と言うことが想定されるだろうに最後にやるにはどうかなあと言うこと
2、私的には、「ぽとんぽとん・・」は2月または、冬の終わりの本だと思っているので。
3、一番初めにやれば問題ないけどと思ったから
です。
あなたも好きのやればいいのです。
ただ違う意見の人がいたなあ、でも私はこれでいいのだ、「気楽にやりましょう」と軽く考えてくださいね。
私は常にそう思っています。
 
 
 
ありがとうございます (石倉)
2010-03-04 23:37:20
そうですか、中央のプログラムですかぁ(笑)。
気楽にと言っている本人が、一番肩に力が入っていたようですね。ありがとうございました。
 
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