北区は 語りボランティアの自由を尊重して欲しい

先日、ボランティアステップアップ講座のまとめが文書で来ました。

①「手を(激しく)動かすと、違うものになってしまう」という意見に異論を言います。
どの程度のことか、私の推測ですが、膝に乗せたままきちんと語るというやり方が「ストーリーテリング」だという刷り込みがあります。これは、昔の家元の言葉そのままでしょう。
何度も書くように、「ストーリーテリング」は特定のやり方を指すものではありません。違う物がたくさんあって、ストーリテリングを構成しています。ですから、面白みがあるのだと思います。違うやり方を排除するのはもう時代遅れ。付け加えて多様性を尊重して平和にやりませんか? 今のポップスは(歌謡曲を含めて)歌い手はいろいろな動きをしますよね。それでも歌詞は心に強く残るのです。皆さん安心されると思いますよ。

② 「昔の図書館長に習っている」というような記述もありました。やはり出たか、という感じです。
北区は特にそうですね。その教え子が幅を利かせている。その下にはたくさんの「これから語りをやりたい」という人がいる。みんなを弟子にしたいのでしょうか。
それよりも、現場に出ませんか?暗唱型で真面目にやっても、高齢者施設のお年寄りは、うたたねをするか石を投げる(いい加減にしろと文句を言う)か、でしょう。
現場に出れば、必要に迫られて各自が工夫をします。それぞれの人の個性が引き出されるのです。昔語りはそうやって生き延びてきたのではないでしょうか。ムリに「語法」「きちんと」と軌道を変えたことにより、衰退したように思います。小澤俊夫の新しい本を見ましたが、この方は「民衆の後についていくという研究者の立場」が理解できず、民衆を指導しようという意識が強いようです。ご自身が語りを狭めているのに、他の方はだれも言ってやらないのでしょうか。
発声の講習にしても、やってもいいけど、聞き手はそんな立派な人を望んでいる訳ではないのです。語り手は別にコンクールに出ようとかステージで数百人を相手にやろうとか思っていないのです。望みは必要ですが、低い人を見下げるようにもなります。そんな人の語りを、誰が聞きたいと思うでしょうか。



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