私は1933年(昭和8年)12月6日生まれ、天皇陛下と同月生まれで何かを国から頂いた話を親から聞いた気がする。
そして終戦前後の我が家の中の生活状態が大変であったことが記憶の中にある。
終戦の年、私は小田原市立山王国民学校6年生。父は小田原郵便局で電信主事、敗戦のことは当時小田原局電信は伊豆諸島の島々の郵便局と短波の無線通信で電報の送受をしていて軍の無線を傍受することも出来2、3日前に親から聞き知っていた。その中で日本最後の空襲と言われている小田原空襲が8月15日、午前0時から3時頃小田原市内の中心地の海岸に向かう450メートルの通りの両側が爆撃され、死者48名、負傷者40名、全焼家屋474戸、全壊家屋10戸、罹災者1,666名という記録がある。鎮火から数時間後、玉音放送が流れ太平洋戦争は終結した。この空襲は私の住まいから2・5㎞位離れていたが西の空が真っ赤になっていた。
私は父母と兄弟5人の長男、住まいは6畳と3畳の2部屋で2軒長屋の借家、井戸は隣と共同、勿論風呂は無し、住んで居たところは小田原市網一色(現在の東町)、歩いて小田原駅迄40分位。近くには疎開してきた内閣恩給局、海軍水路部と軍需工場の立川製作所があり、敗戦後はいち早く米軍が進駐してきた。
その頃の記憶を辿ると
「危うく命拾い」
6年生の時、空襲警報、警戒警報が解除となり近くの同級生と学校に行く途中の田んぼで突然米軍の戦闘機P51が低空で現れパイロットの顔まで見え本来だったら、機銃掃射を浴び死ぬところだったが、子どもだと判って機銃掃射をしなかったと思っている。
「母の着物が米に替わった」
戦争が激しくなり、配給の米も満足にこなくなった時、お金の価値も無くなってきて物々交換でなくては米が手に入らなくなり、母は嫁入りの時に持ってきた着物を箪笥から何回も出し知人の農家に持っていき米に変えていた。今改めて思うことはその時の母の気持ちは・・・と。
「さつま芋の買い出し」
終戦直後の食糧難は米が手に入りにくくなり、もっぱらさつま芋一色となり、今でも当時の芋の名前を覚えている。おきなわ、のうりん1号これは不味かった。そして芋の買い出しは学校を休んで学友同士で方々に行く。東海道線では三島駅、そこから8~9キロは歩いたと思う。小田急では伊勢原、大雄山線では塚原とこれが私達の買い出しエリア。毎回リュックサックに4,5貫目背負った。三島では「芋ありますか」と農家に尋ねると「ニャー」と言われ今でもその土地の言葉が耳に残る。芋を背負いながらこの重たい物を何かで運ぶことが出来ないかと考えて歩いた記憶がある。まあ11歳で、今思うと良く頑張って担いだと思う。しかし、買い出しで学校を休んでばかりしたので、旧制中学には受験させて貰えず国民学校の高等科1年へ、その翌年6・3制となり新制中学2年の時に逓信講習所を受験し、中学3年生の昭和23年5月17日に入学、逓信講習所では2年の勉学の筈がマッカーサーの指令とかで9ヶ月となり、それも翌年の1月末モールス信号と和欧文のタイプライターを覚え卒業2月から平塚郵便局電信課に配属トンツー稼業が始まる。
いずれにしても戦争が起因した芋の買い出しが私の人生を決めてしまった。
退職後は戦争体験者として、全電通(NTT労祖)神奈川退職者の会と神奈川高齢・退職者連合(シニア連合)事務局長として「侵略の痕跡残る南京(南京虐殺記念館)を訪ねる」を2回、「沖縄平和学習旅行」
「道東と北方領土を望む旅」
知覧(特攻平和会館学習)と南九州の旅」
「ヒロシマ平和学習と四国の旅」
「ナガサキ平和学習と中九州の旅」
「大津島(回天記念館学習)と萩・秋吉台の旅」
を後世に引き継ぐ為の平和学習旅行として企画・実施してきました。
最後に知覧特攻平和会館での遺書から
「人生の総決算 何も謂ふこと無し」
伍井芳夫中佐 (埼玉県・32歳)
戦死日 昭和20年4月1日
隊名 第23振武隊
「お母さん 大元気で でっかい奴を 沈めます」
加藤虎男少尉 (東京都・18歳)
戦死日 昭和20年5月4日
隊名 第109振武隊
今、再び戦争に狩り出される安保法制関連法案が成立しようとしています。先の第2次世界大戦で何がおき、国民がどんな生活をしたのか、戦争を体験していない多くの人に戦争でこんなこともあったのか知って頂ける一助になればと念じます。
(投稿者 情報労連 野中美久)
そして終戦前後の我が家の中の生活状態が大変であったことが記憶の中にある。
終戦の年、私は小田原市立山王国民学校6年生。父は小田原郵便局で電信主事、敗戦のことは当時小田原局電信は伊豆諸島の島々の郵便局と短波の無線通信で電報の送受をしていて軍の無線を傍受することも出来2、3日前に親から聞き知っていた。その中で日本最後の空襲と言われている小田原空襲が8月15日、午前0時から3時頃小田原市内の中心地の海岸に向かう450メートルの通りの両側が爆撃され、死者48名、負傷者40名、全焼家屋474戸、全壊家屋10戸、罹災者1,666名という記録がある。鎮火から数時間後、玉音放送が流れ太平洋戦争は終結した。この空襲は私の住まいから2・5㎞位離れていたが西の空が真っ赤になっていた。
私は父母と兄弟5人の長男、住まいは6畳と3畳の2部屋で2軒長屋の借家、井戸は隣と共同、勿論風呂は無し、住んで居たところは小田原市網一色(現在の東町)、歩いて小田原駅迄40分位。近くには疎開してきた内閣恩給局、海軍水路部と軍需工場の立川製作所があり、敗戦後はいち早く米軍が進駐してきた。
その頃の記憶を辿ると
「危うく命拾い」
6年生の時、空襲警報、警戒警報が解除となり近くの同級生と学校に行く途中の田んぼで突然米軍の戦闘機P51が低空で現れパイロットの顔まで見え本来だったら、機銃掃射を浴び死ぬところだったが、子どもだと判って機銃掃射をしなかったと思っている。
「母の着物が米に替わった」
戦争が激しくなり、配給の米も満足にこなくなった時、お金の価値も無くなってきて物々交換でなくては米が手に入らなくなり、母は嫁入りの時に持ってきた着物を箪笥から何回も出し知人の農家に持っていき米に変えていた。今改めて思うことはその時の母の気持ちは・・・と。
「さつま芋の買い出し」
終戦直後の食糧難は米が手に入りにくくなり、もっぱらさつま芋一色となり、今でも当時の芋の名前を覚えている。おきなわ、のうりん1号これは不味かった。そして芋の買い出しは学校を休んで学友同士で方々に行く。東海道線では三島駅、そこから8~9キロは歩いたと思う。小田急では伊勢原、大雄山線では塚原とこれが私達の買い出しエリア。毎回リュックサックに4,5貫目背負った。三島では「芋ありますか」と農家に尋ねると「ニャー」と言われ今でもその土地の言葉が耳に残る。芋を背負いながらこの重たい物を何かで運ぶことが出来ないかと考えて歩いた記憶がある。まあ11歳で、今思うと良く頑張って担いだと思う。しかし、買い出しで学校を休んでばかりしたので、旧制中学には受験させて貰えず国民学校の高等科1年へ、その翌年6・3制となり新制中学2年の時に逓信講習所を受験し、中学3年生の昭和23年5月17日に入学、逓信講習所では2年の勉学の筈がマッカーサーの指令とかで9ヶ月となり、それも翌年の1月末モールス信号と和欧文のタイプライターを覚え卒業2月から平塚郵便局電信課に配属トンツー稼業が始まる。
いずれにしても戦争が起因した芋の買い出しが私の人生を決めてしまった。
退職後は戦争体験者として、全電通(NTT労祖)神奈川退職者の会と神奈川高齢・退職者連合(シニア連合)事務局長として「侵略の痕跡残る南京(南京虐殺記念館)を訪ねる」を2回、「沖縄平和学習旅行」
「道東と北方領土を望む旅」
知覧(特攻平和会館学習)と南九州の旅」
「ヒロシマ平和学習と四国の旅」
「ナガサキ平和学習と中九州の旅」
「大津島(回天記念館学習)と萩・秋吉台の旅」
を後世に引き継ぐ為の平和学習旅行として企画・実施してきました。
最後に知覧特攻平和会館での遺書から
「人生の総決算 何も謂ふこと無し」
伍井芳夫中佐 (埼玉県・32歳)
戦死日 昭和20年4月1日
隊名 第23振武隊
「お母さん 大元気で でっかい奴を 沈めます」
加藤虎男少尉 (東京都・18歳)
戦死日 昭和20年5月4日
隊名 第109振武隊
今、再び戦争に狩り出される安保法制関連法案が成立しようとしています。先の第2次世界大戦で何がおき、国民がどんな生活をしたのか、戦争を体験していない多くの人に戦争でこんなこともあったのか知って頂ける一助になればと念じます。
(投稿者 情報労連 野中美久)