アーテストトークの続きです
秋田住職との対話の部分に焦点を当てて伝えてみます
私のトークは・・何年か前のつちびとを作れなくなった時期のことも含めて
続き・・
その時期があったおかげで・・過去の原体験を思い出し
お寺でつちびと展をしたいと感じ出した経緯までお話ししています
そして・・そうではあるけれども
そんなに祈りの対象に近づきたい・・必要としていると感じながらも
自分が宗教というものになぜすがれないのかと自問しました
昨日のブログでも書いたように
私の恐怖は・・肉体の消滅というより
自分の中にある自分の感じ方、記憶といった目には見えないものの消滅への恐怖であり
自分が、自分がというエゴが強い人間なのだと思います
そんな自分だから・・どんなに神様や仏様を必要だと思っても
価値観を他者にゆだねられないのだということに気づきました
だから・・秋田住職さんに伺いたかったのです
自分の自我と他者である仏様の教えとの折り合いの付け方や収め方をどうされているのかと
住職さんは・・開口一番
私は自我まみれなので・・とおっしゃられ
参加者皆さんの笑いを誘われました
そして・・そのことについての明確なお答えではなく
25年前から続く應典院の姿勢についてお話しされ
「なんでお寺でアートなんだ!」という内からも外からも批判された時期があったと
お話は続きました
それでも・・祈りを言語化することの難しさから
そして、かつてアートの周辺におられたという体験から
言葉にできないものをどうやって目に見える形にすればいいのかと思っていられ
應典院を再建されたときに・・一番最初に着目されたのがアートだったそうです
25年間もの間その姿勢を崩されなかった経緯と共に
そこに集まってきた若者たちのことに触れられ
表現することによってかろうじて生き延びることのできる存在
表現することでしか人とつながれない存在について触れられました
そして・・彼らの特徴として評価が定まっていないこと
何かの学校を出てるとか師事してる先生があるとかではなく調整されていない人、
名を得ることを優先していない人
全てがそうだとは言わないが・・そんな人々を最も無垢な人だと感じていて・・
そして・・彼らの原体験と私がトークで話したことはとても似ていると言ってくださいました
評価されることを前提としない
自分の内面ゆえ表現することによって・・表現を通して誰かとつながっていく
また誰かもそういうものを探しているのだけど・・出会えない
そういう人たちによって通じ合えるそんな世界がある・・と
そして会期中
閉廊時間後に・・消灯などの点検に来られる時に、たびたび秋田住職さんは
一人でつちびとをご覧になっていたらしく・・
その時の感想が・・とても心に染みました
誰もいないときに・・一人きりでこの作品を見ると
足し算ではなく引いて引いて引き切った時にしか伝わってこないことがあるんだなと
夜中一人でポツンとこの作品の前に立っていると感じた
そういう地平に立たないと・・今、可南さんの話したトークの内容は通じにくいかもしれない
表現だから・・わかる人にわかってもらいつつ、わからない人にも何かに出会ってもらってたらというのがこんな場だけど・・
でもたとえたった一人かもしれないが
本当に求めてる人にとっては・・劇的な出会いの場になったと思う
そしてこういったら語弊かもしれないけれど・・亡くなった人たちがすごく喜んでいると思う
お寺の住職からするとありがたいお供えをしてもらったなあと思う
とまで言っていただきました
長くなり過ぎました・・今日はここまでに致します
そして・・
私が・・本当に真剣に毎日ブログを綴っているのも
本当に出会いたい人を・・探し伝えたいと思っているのだなあと感じています
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可南つちびと展 in應典院 『いのちの数だけ』
終了いたしましたが
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