最近、「中国語」がドイツ語、フランス語などをおしのけて、第2外国語で人気が上昇しているようだが、そもそも日本人は中学、高校で漢詩や論語、孟子などをやっている。「中国語」が外語扱いされながら、「漢詩」、「漢字」は国語の一部のような位置づけになっている。
「中国語」の自称は「漢語」hànyǔであり、そう呼んでいる中国では
「漢字」hànzìを「中国文字」Zhōngguó wénzì とも呼んでいる。
そうなると、日本では中国の文学、言語、文字が日本語教育に混ざっていながら、外語としての「中国語」が別に設けられているという異常な状況が続いていることがわかる。たとえば、「中日辞典」と「漢和字典」の違いを見ればわかる。
漢字は中国の文字であり、「漢和字典」では字源を詳しく述べているのに、中国古典の例が多く、日本語の漢字の読み書きに余り役立たないことが指摘されている。しかし、その「漢和字典」が中国のニュースの聴き取りや中国人との会話に何の役にも立っていないことは余り批判されない。
一方、「中日辞典」では字源や同系語(単語家族)について書かれていない。
ちなみに、中国人が日本語を学ぶために中日辞典は
「漢日詞典」hàn-rì cídiănと呼ばれる。
漢字は中国の文字だという原点に返らないと日本語の漢字も理解できない。
まず、漢字を日本語の文字だと勘違いしている固定概念を疑ってみる必要がある。漢字はChinese charactersであるから、外語としての漢語、今の北京語や廣東(广东、広東)語、台湾語などの基礎を固めてから理解すべきである。
漢字、つまり中国文字は、漢語=中国語、SINA語(Chinese)の文字であり、多くは音節、それが意味する単語や形態素をあらわす。
漢字の字源は漢語、中国語の知識抜きでは語れないし、漢詩も中国語で読んで韻を踏むものである。
漢字の基本は象形文字、会意文字だが、大多数は形声文字である。「船」chuánという字に「沿」の右のようなものがついており、
「沿」yánと似た音または同系のことばが派生して「舟」の一種を指すようになったと解釋(解释、解釈)できる。
したがって、重要なのは形声文字の音符(声符)であり、
「蝴蝶(こてふ)」húdiéが「胡蝶」húdiéになり、
中国で「人材」réncáiが「人才」réncáiになり、日本で「車輌(しゃりゃう>~りょう)」の「輌」の「車」が省かれるのも、音で十分だからである。
漢字の形を古い形までさかのぼって、これは人、これは手、これは水をあらわし……などと考えていては字の意味はわからない。
特に「我」wŏや「吾」wúが「われ」を指す理由も音を考えないとわからない。これは一種の假借字である。
「我」はもともと、「ホコ」を指したが、上古代漢語でŋarであり、古代シナ人が一人称をŋaのような語であらわしたようなので「我」であらわされた。「你」nĭと「妳」nĭ(廣東語nei)、「他」tāと「她」tāは人称代名詞だが、「俄」éと「娥」éは人称代名詞になっていない。
日本で現代漢語を印刷すると、「嗎」が「鳴」に、「你」が「称」なっていたことがある。これは作者のミスでなく、活字を拾った編集者のミスであろう。日本では「您」が「恁」や「悠」と区別されず、「李」も「季」と混同されている。特にインターネットではひどい。これでは「後」を「俊」と勘違いする中国人を笑えない。
「吾」は「ことば」が原義だったが、ŋagという古音だったので一人称になった。ŋar とŋagのように、古代漢語では同系語や音符の同じ形声文字同士で語末のrとgが対応している例が多い。「吾」wúをよく見ると上の「五」wŭが音符で、下に口がついているから、それで「ことば」をあらわしたのだろうが、これが「われ」の意味になったので「言」が追加され、「吾」の原義は「語」ŋɪag>ü=y(yŭ)が受け持った。「語」は下で「口」が二つ重複しており、手をあらわす「爪」と「又」が
重複していた「受」shòuに「扌(手偏)」が
追加された「授」shòuや、「灬」と「火」が
重複した「然」rán>「燃」ránのように、意味の強調のために部品を重複させたものだ。
2008年2月投稿、目次
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