情熱親父の心晴天!Part2

風景・イベント・ポートレイト・花・・・etc 何でも好きに撮ります。気ままな中年オヤジです。

いざ!沖縄へ!関西・関東・沖縄交流旅物語 Part4

2016-03-03 00:00:00 | 沖縄交流シリーズ

ハイサイ~ 挨拶まで、すっかり、沖縄の方言になったさぁ~(笑)

さて、沖縄の二日目は、予約をしておいた、レンタカーを借りて出発です。

                西鉄リゾートホテルの裏側にあります。久米2丁目ですね。ホテルから徒歩約7分くらいです。

三菱デリカ。7人乗り。浦添の友人家族、私と、東京の友人で使用します。予約時は、ネットで検索すると、これが一日5000円という、サービス期間でしてね。しかも軽油なんで、物凄く、安く上がりました。

以前も話したように、私の沖縄行きは、必ず激戦のあった場所へ行き、この目で事実を見て、色々と、お話も聞き、平和に対する学びをして帰る。という目的もあります。

なので、今回も、嘉数高台公園に、まずは向かいました。

沖縄本島中部の宜野湾市にある嘉数高台公園(かかずたかだいこうえん)は、沖縄戦時の激戦地で、今でも日本軍が使用した「トーチカ」があり、戦争について学べる場でもあります。今は公園としてきれいに整備されていて、公園内には世界平和を願う地球儀をイメージした展望台(写真)があり、そこからは那覇市や浦添市、遠くは読谷村まで見えます。

米軍は1945(昭和20)年4月1日、沖縄本島の中部西海岸から上陸し、南下しました。嘉数を中心とした戦線で、待ち構えた日本軍と最初の大規模な戦闘を始めます。戦闘の末に、日本軍は撤退し戦線は浦添(うらそえ)、西原、首里(しゅり)そして南部方面へと移りました。

嘉数住民はテラガマ、チヂフチャーガマなどの洞窟に避難していました。日米両軍の戦闘が始まる前に、南部方面へ避難した人と嘉数に残った人がいましたが、いずれも戦闘に巻き込まれ、住民の半数以上が亡くなりました。

嘉数周辺と本公園には、住民が避難した洞窟や日本兵が利用した「ミーガー」、戦闘で使用された「トーチカ」、戦闘を物語る「弾痕の塀」、沖縄戦で亡くなった嘉数住民の「嘉数の塔」、戦死した京都出身の「京都の塔」などの慰霊碑が多数点在しています。

                         この急な階段は、50過ぎた私には、少々、きつかったですね。(笑)

                                       上ると、桜がお出迎えです。

                          ここを上がれば、展望台です。普天間基地が一望できます。

                                綺麗なハイビスカスが咲いていたので!

                                      那覇市方面の景色です。

                                            同じく。

                             普天間基地が見えますね。周りは、住宅街です。

                             こういう、紹介の書いた、テンプレートがありました。

                          沖縄に来れば、こうして、あちこちに平和を願う、碑があります。

                                       宜野湾方面の景色です。

                                           同じくです。

                                 北谷や、遠く、読谷村方面の景色です。

                       再び、基地方面。飛行場に待機してるのは・・・・噂のオスプレイですね。

                          これが普天間の街並み。その中に基地が・・・・これでは・・・

                                       こういう、碑もありました。

                                    展望台から、下を撮ってみた。

                                   望遠で、オスプレイを捉えてみました。

       単に、撮影をしただけなんで、最初にお断り申し上げますが、政治的主観で、コメントを書いたりされるのは、一切、お辞め下さい。

嘉数に駐屯した日本軍は、嘉数高地を中心とした周辺地域にいくつもの陣地を築きました。陣地壕の構築は、1944(昭和19)年の夏ころから開始されたようで、朝から夕方までの作業が毎日続けられました。兵士だけでなく、嘉数や周辺地域からも、老人や女性を含む多くに人々がかりだされました。

陣地壕は、石灰岩をくりぬいてコの字型に構築され、側壁には落盤防止用の坑木の跡もあります。嘉数高地には日本軍の主陣地が置かれたために、このような陣地壕が無数に構築されました。

                 これ、なんだか、わかりますか?「弾痕」ですよ!今でも、こういう爪痕が、しっかりと残っています。

初めて、普天間の状況を見て、いかに危険度が高いか?また、戦闘地であったこの場所での事実を学ぶことが出来たことが、今回、此処に来た収穫でした。

さて、次は、・・・・また、明日ね!

明日も、ゆたしくうにげさびら!

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