ハイサイ~ 挨拶まで、すっかり、沖縄の方言になったさぁ~(笑)
さて、沖縄の二日目は、予約をしておいた、レンタカーを借りて出発です。
西鉄リゾートホテルの裏側にあります。久米2丁目ですね。ホテルから徒歩約7分くらいです。
三菱デリカ。7人乗り。浦添の友人家族、私と、東京の友人で使用します。予約時は、ネットで検索すると、これが一日5000円という、サービス期間でしてね。しかも軽油なんで、物凄く、安く上がりました。
以前も話したように、私の沖縄行きは、必ず激戦のあった場所へ行き、この目で事実を見て、色々と、お話も聞き、平和に対する学びをして帰る。という目的もあります。
なので、今回も、嘉数高台公園に、まずは向かいました。
沖縄本島中部の宜野湾市にある嘉数高台公園(かかずたかだいこうえん)は、沖縄戦時の激戦地で、今でも日本軍が使用した「トーチカ」があり、戦争について学べる場でもあります。今は公園としてきれいに整備されていて、公園内には世界平和を願う地球儀をイメージした展望台(写真)があり、そこからは那覇市や浦添市、遠くは読谷村まで見えます。
米軍は1945(昭和20)年4月1日、沖縄本島の中部西海岸から上陸し、南下しました。嘉数を中心とした戦線で、待ち構えた日本軍と最初の大規模な戦闘を始めます。戦闘の末に、日本軍は撤退し戦線は浦添(うらそえ)、西原、首里(しゅり)そして南部方面へと移りました。
嘉数住民はテラガマ、チヂフチャーガマなどの洞窟に避難していました。日米両軍の戦闘が始まる前に、南部方面へ避難した人と嘉数に残った人がいましたが、いずれも戦闘に巻き込まれ、住民の半数以上が亡くなりました。
嘉数周辺と本公園には、住民が避難した洞窟や日本兵が利用した「ミーガー」、戦闘で使用された「トーチカ」、戦闘を物語る「弾痕の塀」、沖縄戦で亡くなった嘉数住民の「嘉数の塔」、戦死した京都出身の「京都の塔」などの慰霊碑が多数点在しています。
この急な階段は、50過ぎた私には、少々、きつかったですね。(笑)
上ると、桜がお出迎えです。
ここを上がれば、展望台です。普天間基地が一望できます。
綺麗なハイビスカスが咲いていたので!
那覇市方面の景色です。
同じく。
普天間基地が見えますね。周りは、住宅街です。
こういう、紹介の書いた、テンプレートがありました。
沖縄に来れば、こうして、あちこちに平和を願う、碑があります。
宜野湾方面の景色です。
同じくです。
北谷や、遠く、読谷村方面の景色です。
再び、基地方面。飛行場に待機してるのは・・・・噂のオスプレイですね。
これが普天間の街並み。その中に基地が・・・・これでは・・・
こういう、碑もありました。
展望台から、下を撮ってみた。
望遠で、オスプレイを捉えてみました。
単に、撮影をしただけなんで、最初にお断り申し上げますが、政治的主観で、コメントを書いたりされるのは、一切、お辞め下さい。
嘉数に駐屯した日本軍は、嘉数高地を中心とした周辺地域にいくつもの陣地を築きました。陣地壕の構築は、1944(昭和19)年の夏ころから開始されたようで、朝から夕方までの作業が毎日続けられました。兵士だけでなく、嘉数や周辺地域からも、老人や女性を含む多くに人々がかりだされました。
陣地壕は、石灰岩をくりぬいてコの字型に構築され、側壁には落盤防止用の坑木の跡もあります。嘉数高地には日本軍の主陣地が置かれたために、このような陣地壕が無数に構築されました。
これ、なんだか、わかりますか?「弾痕」ですよ!今でも、こういう爪痕が、しっかりと残っています。
初めて、普天間の状況を見て、いかに危険度が高いか?また、戦闘地であったこの場所での事実を学ぶことが出来たことが、今回、此処に来た収穫でした。
さて、次は、・・・・また、明日ね!
明日も、ゆたしくうにげさびら!
このブログ「情熱親父の心晴天Part2」の写真・文章・記事全ての無断転載・コピーは、一切、固く禁じます。ブログのサブタイトルにもありますように著作権は管理人にすべてあります。御理解、ご了承くださいませ。
一日、1回応援お願いします。
にほんブログ村 元気の源。ランキングに参加してます。応援ポチ3つ押して頂けますと更新の励みになります。宜しくお願い致します。
にほんブログ村
人気ブログランキングへ こちらも、1日、1回応援お願いします。