仏道

SRKWブッダによる内容を主になぞるものとなります。

(2)HP(正法)

2020-01-13 04:21:53 | 日記
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初めてSRKWブッダのホームページを見る方などを想定し、ブログを初め、その全ては、令和2年1月2日から9日にかけて書いた5回分となります。(^^)
1回目
https://blog.goo.ne.jp/kassii/e/75047f9bda8af97e353ade6cdc27745b
その上で、それ以外のブログに興味をお持ちいただき御覧いただければ、幸いです。m(_ _)m
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今回は、ホームページの正法を見てみたいと思います。

正法はホームページトップの四角囲いの中、左上のアイコンを押すと出てきます。

ここに、ホームページの内容をそのまま掲載します。

⭕ホームページの引用始まり⭕

【正法】
 正法とは、法(ダルマ)についてそれ以外には解釈しようのない言葉で綴った最も簡潔な文章のことである。それゆえに、正法は、それを真実に理解することができたならば、かれをして直ちに覚りの境地に至らしめるという働きをもっている。つまり、人は聞き知った正法によって覚りの境地に至るのである。以下 に、いくつかの代表的経典に記されている正法を列記する。これらのどれによってでも、人は覚りに至り得る。

● 諸仏世尊はただ一大事因縁によってのみ世に出現したまう(法華経) → 方便品第二
   〔諸佛世尊唯以一大事因縁故出現於世〕

● まさに住するところなくして、しかも其の心を生ずべし(金剛般若経)
   〔応無所住而生其心〕

● 衆生を完成するのに随って、その仏国土が浄らかになる(維摩経) →  詳細は「直き心」

● 真実の教え(正法)をしっかりと身につけること自体が、真実の教えである(勝鬘経) → 詳細は「六波羅 蜜」

● 諸々の尊敬さるべき人が、安らぎを得る理法を信じ、精励し、聡明であって、教えを聞こうと熱望するならば、ついに智慧を得る。(スッタニパータ)

● 尊敬さるべき真人たちに対する信仰を財とし、安らぎに至るための教えを聞こうと願うならば、聡明な人は(ついには)いろいろのことについて明らかな智慧を得る。(ウダーナヴァルガ)

● ありのままに想う者でもなく、誤って想う者でもなく、想いなき者でもなく、想いを消滅した者でもない。 ── このように理解した者の形態 (rupa)は消滅する。けだしひろがりの意識は、想いにもとづいて起こるからである。(スッタニパータ)

● ひとは、恐怖のゆえに、優れた人のことばを恕す。ひとは、争いをしたくないから、同輩のことばを恕す。しかし自分よりも劣った者のことばを恕す人がおれば、それを、聖者らはこの世における〈最上の忍耐〉と呼ぶ。(ウダーナヴァルガ)

● ── そなたらのどの詩も、すべて、順次みごとにとなえられた。しかし、わたしの詩にも耳を傾けよ。信仰をもって(与えること)が、実にいろいろと讃めたたえられた。しかし、(与えること)よりも「法の句」のほうがすぐれている。 昔の善き人々、それよりも昔の善き人々も、智慧をそなえて、ニルヴァーナにおもむいた と。(サンユッタ・ニカーヤ1)

● ── そなたらは、すべて、順次みごとに詩をとなえた。しかし、わたしの詩にも耳を傾けよ。ただ、善き人々と共に居れ。善き人々とだけ交われ。 善き人々の正しい理法を知ったならば、すべての苦しみから脱れると。(サンユッタ・ニカーヤ1)

● ── 無明が頭であると知れ。明知が信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて、頭を裂け落とさせるものである。(スッタニパータ)

● 「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。 ── このことわりを他の人々は知っていない。 しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。 ── (ダンマパダ)

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【六祖慧能による正法(六祖壇教から)】
 中国の禅宗の六祖慧能は、間違いなくブッダである。 以下に、六祖慧能が説く正法を記す。
  → 六祖慧能

【補足説明】
 覚りの境地は、いかなる哲学的見解の帰結でも無く、また人類が作為したいかなる宗教的教義に基づく規範行動でもない。もちろん、覚りの境地は本人の単なる思い込みでは無いし、またいろいろな精神障害の結果によってもたらされる病的状態を指すのでもない。なんとなれば、正法の正しい理解によって自らに体現される覚りの境地は、すでにそれを為し遂げた人にとって如実に体験される不滅のやすらぎであり、虚妄ならざるものであるからである。この円かなやすらぎは、一切の煩いと苦悩とを離れている。この円かなやすらぎは、一瞬たりともとぎれることなく体現されるものである。この円かなやすらぎは、いかなる継続的努力(いわゆる悟後の修行)をも要せずに不断に持続するものである。この円かなやすらぎは、無上のやすらぎであると覚知されるものである。

[真理]
 正法の存在、出現、およびその利益(りやく)について述べた真実の言葉が真理である。
  → 真理

[修行法]
 人々の意に反することであろうが、覚りに至る固定的な修行法などは実は何一つ存在していない。しかしながら、観を為し、観の完成を見ることは人の覚りに 役立つものであることは確かである。
  → 観
  → (久松真一氏の)基本的公案
  → (SRKWブッダの)公案: 一円の公案,(SRKWブッダ版) 黒い鏡の公案
  → (準)公案: 預流果

⭕ホームページの引用終わり⭕


いかがでしたでしょうか。
素晴らしいですね!!


さすが正法!!!



とは、難しくて、ならないのではないでしょうか。

では、どんなことが書いてあるのか少しだけ、部分的に見てみたいと思います。

まず、冒頭の部分、それと最後の方にある「補足説明」をもう一度、見てみると、

⭕ホームページの引用始まり⭕
 正法とは、法(ダルマ)についてそれ以外には解釈しようのない言葉で綴った最も簡潔な文章のことである。それゆえに、正法は、それを真実に理解することができたならば、かれをして直ちに覚りの境地に至らしめるという働きをもっている。つまり、人は聞き知った正法によって覚りの境地に至るのである。以下 に、いくつかの代表的経典に記されている正法を列記する。これらのどれによってでも、人は覚りに至り得る。

【補足説明】
 覚りの境地は、いかなる哲学的見解の帰結でも無く、また人類が作為したいかなる宗教的教義に基づく規範行動でもない。もちろん、覚りの境地は本人の単なる思い込みでは無いし、またいろいろな精神障害の結果によってもたらされる病的状態を指すのでもない。なんとなれば、正法の正しい理解によって自らに体現される覚りの境地は、すでにそれを為し遂げた人にとって如実に体験される不滅のやすらぎであり、虚妄ならざるものであるからである。この円かなやすらぎは、一切の煩いと苦悩とを離れている。この円かなやすらぎは、一瞬たりともとぎれることなく体現されるものである。この円かなやすらぎは、いかなる継続的努力(いわゆる悟後の修行)をも要せずに不断に持続するものである。この円かなやすらぎは、無上のやすらぎであると覚知されるものである。

⭕ホームページの引用終わり⭕

この説明から、正法を正しく理解すると覚りの境地を体現(ブッダになる。)することとなると書いてあることが理解できます。

大変重要なことです。

続いて、ホームページ冒頭の説明の次に、実際に列挙されている正法を見てみましょう。上から3つ再掲します。

● 諸仏世尊はただ一大事因縁によってのみ世に出現したまう(法華経) → 方便品第二
   〔諸佛世尊唯以一大事因縁故出現於世〕

● まさに住するところなくして、しかも其の心を生ずべし(金剛般若経)
   〔応無所住而生其心〕

● 衆生を完成するのに随って、その仏国土が浄らかになる(維摩経) →  詳細は「直き心」

正法は大事なのだろうと思って、その具体的な正法を見ても何が大事なのかよく分からない、という感じがします。

ただ、よく考えると、正法を正しく理解すると覚りの境地を体現し、ブッダとなるのですから、今の時点で正法を、理解しているのであれば、その時点で既にブッダになっています。

つまり、正法がよく分からない、理解できない、ということは特段問題ではない、と考えます。

でも、正法を知っておかないと、正法を正しく理解する機会はやってきません。そのため、正法のことを心に少し留めることが重要なことではないかと私は考えます。

勿論、慧能のように、正法を聞き、直ちにブッダになる方もいらっしゃるので、今ブッダになられている方もいらっしゃるかもしれませんが。


さて、話しは少しそれますが、実際のホームページ1つ目の正法の所に、「方便品第二」の文字にリンクが貼ってあります。そこに飛んで見てみましょう。すると、法華経の文章が掲載されています。が、その量がめちゃくちゃ多いのです。

しかし、実際の法華経という経典はもっともっと多いのです。では、このように文字が多い経典を見てどう思ったらいいのでしょうか。

昨年新たにブッダになられた方のうち、一人は、ブッダとなる前に、SRKWブッダのホームページに書いてある理法を読んでも難しくて、よく分からなかったとのことでした。また、慧能は正法を聞いてブッダとなったこと、これらから考えると、大事なところさえ押さえておけば良いような感じもします。

でも、もしそうであるならば、そもそもSRKWブッダがホームページにおいて、長い文章を掲載する意味が無く、そもそも法華経を書いたブッダが意味のないことをしていたこととなります。

そんなことはないに違いありません。これらから類推すると、人それぞれ、道の歩みが異なり、読みたい方は読んで、読まない方は読まない。それで、いいのかなと思います。人によっては、法華経を読むことによって道を確かにし、歩む方もいる、ということかと思います。

正法お手上げという方も、法華経が長いと感じた方でも、それはきっと仏道に適性がないのでもなく、恥ずかしいことでもなく、ひとまず置いておいて、他のものを見てみればいいかなと思います。

もちろん、それらを追求して行きたい方はそれで間違いではなく追求すればいいのかなと。

ただ、ホームページの冒頭に掲載されている
「こころある人は、他ならぬ自らによって道を見いだし、歩み行きて、因縁を生じ、この不滅のニルヴァーナに到達せよ。」
を受け、自分の歩む道の行きたい方向がぶれなければ、何も気にしなくて良いのだと思います。

【参考】
六祖壇経
(受法)
五祖は深夜になって私を室内に呼ばれ、袈裟で遮り囲み、人に見せないようにして、私のために『金剛経』をお説きになられた。ちょうど「応無処住而生其心」というところへきたとき、私は言下に悟って、あらゆる存在は自己に生まれつき具わっている本性と別なものでないことに気がついた。

(法華の持者法達の大悟)
「法達よ、〜略〜、私は文字を知らぬゆえ、君が経典を持って来て一通り誦してみてくれ、私は聞けばすぐ分かる。」
「〜略〜、いま聞いた君の読経のなかに、『諸仏も釈迦牟尼も、ただ一大事のための因縁ゆえに、この世に出でたもうた』と、正しい教えは十六字ある。〜略〜」

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