カトリックコミュニティ掲示板

分野・種類に限らず、カトリック関係の記事を掲載します。

神父の放言:すべての人の救い

2022-09-11 20:29:53 | 日記
すべての人の救い 2015/07/08

キリストによってさまざまな価値転換が行われた。

ユダヤ人よりも異邦人が救われる。
 大人よりも子供たちのほうが天の国に入る。
 正しい人ではなく罪人を救うために来た。
 富んでいる人よりも貧しい人々が幸い。
あとの者が先になり、先のものが後になる。

 旧約聖書の中でユダヤ人は神から選ばれた選民であった。
キリストもユダヤ人であり、ユダヤ人の間で宣教したが、
ユダヤ人が捨てられ、異邦人が救われるだろうという予言がなされる。
といっても、初期のキリスト信者は皆ユダヤ人であったから、
捨てられるといっても皆ではないが、ユダヤ人はキリストを
死に追いやり、また、その後もユダヤ教の宗教指導者たちが
キリスト教を迫害することになる。

しかしいずれ、神はユダヤ人たちを顧みてくださる、とパウロは言っている。

また大人ではなく、子供のような心を持つ人こそが天の国に
入るとお教えになる。
キリストに近づこうとする子供たちを周りの大人たちが阻害したので、
キリストは「子供たちを私のもとに来させなさい」とおっしゃった。

 また「子供のように心を入れ替えて天の国を受け入れる人でなければ、
決して天の国に入れない」(マタイ18章)。清らかで純粋で、信じる心を
持たなければならない。

 富者ではなく、貧しい人こそ天の国に入る。
 「貧しい人は幸いである。天の国はその人のものである。」(マタイ5章)
 「金持ちは不幸だ。金持ちが天の国に入るのは、らくだが針の穴を
通るよりも難しい。」
 貧しく謙虚で、人を踏みつけない者たち、自分のありのままの姿を
知る者たちでなければならない。

 旧約聖書の世界では富者は神に祝福された人々だと考えられていた。
だからこの教えを聞いた人々は驚いた。
キリストご自身も貧しい家に生まれ、生涯貧しくお暮らしになった。

 正しい者ではなく罪人が先に天の国に入る。
 正しいといっても、自分を正しいと思って人を見下す人たちのことを
指していて、一般的に正しい人を否定しているわけではない。
ファリサイ派や律法学者たちの正しさは本当の正しさではなかった。

キリストは彼らに向かって言われた。
 「あなたたちよりも遊女や徴税人のほうが先に天の国に入るだろう。
なぜなら彼らは信じたからである」(マタイ21章)。徴税人は当時、
罪人の代名詞のように使われていた。

 「医者を必要とするのは病人である。私が来たのは正しい人のためではなく罪人のためである。」(マタイ9章)
 「私は罪人を探して救うために来た」

 真に正しい人を神はお喜びになる。しかし正しさにうぬぼれ、
人を見下す人を神はお認めにならない。また人はすべて罪人であり、
神の許しを必要とする。自らの罪深さを認め、へりくだって神の助けを
願う人が真に正しい人となってゆく。

このように、誰が救われるのか、という考えについて大きな価値転換が
行われた。

ユダヤ人よりも異邦人、大人よりも子供、正しい人よりも罪人、
富んでいる人よりも貧しい人々。あらゆる人が救われる可能性がある。
今まで救われがたいと思われていた人々にむしろ救いの可能性がある。
謙虚で素直に信じる人々のほうが救われる可能性が大きい。

 「先の者が後になり、後の者が先になるだろう」(マタイ19章)

              サイト「神父の放言」より転載


神父の放言:悪魔の実在について   

2022-09-11 14:52:05 | 日記
悪魔の実在について    2012/10/09


現代では、一般社会はもとより、カトリック信者の間でも悪魔の実在についての観念が希薄になってきている。しかし教会はキリストの頃から一貫して、この実在を説いてきた。

 現代の教会の、悪についての教えは何か。どのような教えについてもそうだが、そういう疑問を持ったときには『カトリック教会のカテキズム』を見るのが一番いい。これこそカトリック教会2000年の多岐にわたる神学の結晶だと言っていい。そして現在の教会の公的な教えでもある。

また教会教義をはっきりさせるためにパウロ6世が作った「クレド」は簡単ながらはっきり書いている。ここにも悪魔の実在は肯定されている。

 悪魔、とは、現代の解説では人間心理の暗い部分に還元される。つまり、人間の心の闇を象徴的に悪魔といっていると。

しかしキリスト教会のみならず、多くの宗教でもそうであろうが、悪魔は象徴的なものではなく実在的なものだ。つまり、知性と意志を持った何者かだ。そしてカトリック教理によれば、それは人間より高い知性を有している。つまり堕落してはいるが、もともと天使の本性を持った者たちだ。

 天使というのも今となってはおとぎチックな話しだが、定義するなら、知性と意志を持った純粋な霊、ということになる。物理的な身体を持たない純粋霊だ。

 現代の悪魔の最大の成功は、悪魔が実在しないと人々の思わせることだと、ある教皇がおっしゃっている。

 実在しなければ戦い方も変わる。人を落としいれようと手を変え品を変えてくる、われわれの力を超えた実在がいるからこそ、戦い方が違う。そして悪魔の実在を知ることは、間接的に神の存在へと人々の心を導く。

 現代、人々が神を意識するひとつの力は、その対照的存在である悪の存在を意識させることだ。

 愛や喜び、救い、そして神を説くだけでは足りない。心の鈍い人にとっては甘っちょろいのだ。時には喜びの福音のみならず、世間の誤りに対して鞭をふるったり、地獄の滅びを予告することも必要だと思う。これで改心する者の例は多い。

アメリカの映画に「エクソシスト」というものがあり、ホラー映画としては絶えず上位を占めるらしいが、この映画が恐ろしいのは、実話を元にしているということだ。

 先日、この映画のエクソシストの舞台となった病院を経営する、Alexian Brothers修道会のある修道士と話をする機会があった。その修道士もこの出来事から大きな衝撃と教訓を得ていた。

 修道士でさえ悪魔の存在について考えさせられたと言っているように、それほどに、現代のキリスト教会でも悪魔の実在についての意識は希薄となっている。

 映画については、「エクソシスト」の続編や「エミリー・ローズ」「ライト」など、悪魔やエクソシスト(悪魔祓い)についての、実話を基にした作品が続いているようだ。悪魔の実在についての意識が回復されつつある。

              サイト「神父の放言」より転載

神父の放言: キリスト者のバランス 

2022-09-11 01:47:11 | 日記
キリスト者のバランス   2012/12/22


女性が水がめを頭に載せて歩いている。キリスト者の姿がそんなイメージと重なる。語弊があるかもしれないが、重たいものをもって歩いている。

 私たちは社会人として、日本人として生きてゆくために社会上のルールがある。礼儀や暗黙の常識があって、よき市民、よき社会人として周りとうまく生きてゆくだけでもひと苦労だ。

それに加え、信仰を持つ人は、時にはあたかもそれらの常識と180度違っているように見えるキリスト教の価値観を担って生きている。

 「悲しむ人は幸い、貧しい人は幸い、娼婦や徴税人のほうが先に天の国に入る、敵を愛せよ・・・」。

バランスを取るのが時には難しい。そして良心が鋭敏になってより苦しむかもしれない。

ある時には信仰や良心の消えかかった環境で一生懸命信仰に生きようとするあまり、意固地になってしまう。周りと距離をとってしまう。

 信仰と生活を両立させることが難しかったり、信仰と職場は両立しないものだとあきらめたり・・・。

 不自然になったり、かえって不親切な人間になったり・・・。

あるいはあきらめてしまい、俗人の価値観が福音の価値観を覆ってしまい、あたかもキリスト者でないかのごとく生きる場合もある。

ある司祭が「統合」という言葉を教えてくれた。キリスト者として自己を統合していかなければならない。社会のさまざまな価値観の中で生きていく私、職業人・家庭人・学生などそれぞれの身分を担って生きていく自分、日本人としての私、そしてキリスト者として生きていく自分、それらがうまく統合されなければならないとその司祭は言っていた。

これはひとつの課題だと思う。

 社会自体の価値観が多様化している。また心が病んでも不思議ではない難しい世の中だ。それに加え、同じカトリック信仰を共有していても温度差がかなり違う。そんな中で私を美しく統合させていかなければならない。難しい課題だと思う。

 重たい水がめを頭に乗せて歩く女性のように、バランスをうまくとって歩かなくては。時に不自然な信者がいても責めることなどできない。その人なりに一生懸命がんばっている。教会の指導や教導も十分ではないから、いろいろな疑問の中で信者は模索している。

 信仰とは本来、私たちが持っている人間性を美しく成長させ、完成させるものだと思う。

 聖トマス・アクィナスの神学の中で有名なこんな言葉がある。「恩恵は自然を破壊せず、かえってこれを完成する」。

スコラ神学の中で「自然」というと広く人間性も入ってくる。この言葉を今のコンテキストの中で分かりやすく説明すると、神からの恩恵は人間性を破壊することなく完成する、そして信仰も人間性を破壊するのではなく、むしろ完成する。人間性を無視するのではない。

 信仰を得ることによって人は余分なものを身に着けたのではなく、あるいは不自然な人間になるのでもなく、むしろ信仰によって人間本来の美しさや善さが成長し完成するということ。だから本当は、重たい水がめを持っている不安定なイメージではない。太陽である神が花を成長させ、咲かせているイメージの方がよいかもしれない。

しかし実際は、私たちは不器用に水瓶を持ち上げている場合が少なくない。これは挑戦だ。

もしよき市民、よき社会人、そしてよき日本人として人の信用を得、その上でよきキリスト者であることができるならば、その人は光のように世を照らすことができるに違いない。その人を通して多くの人がキリストに導かれるだろう。キリストの教えは確かに世を照らすものだ。

 不器用にしか担ぐことができない人がいても、その人が周りを照らしていることだってままある。

 現代、キリスト者として自己を統合していくことは私たちの課題だ。そしてこの課題はけっこう難しい。できていない人がいても責めることはできない。しかし、統合されて生きていけるなら、世を照らす者となれるだろう。

                (サイト:「神父の放言」より転載)