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聖ヨハネ・マリア・ヴィアンネ(アルスの司祭)のことば

2022-09-05 14:11:49 | 日記
聖ヴィアンネの言葉


人物の紹介


ヨハネ・マリア・ヴィアンネ

生誕
1786年5月8日
フランス・ダルディイー

死没
1859年8月4日
フランス・アルス=シュル=フォルマン

崇敬する教派
カトリック教会・聖公会

列福日
1905年1月8日

列福場所
ローマ

列福決定者
ピオ10世

列聖日
1925年5月31日

列聖場所
ローマ
列聖決定者
ピオ11世

記念日
8月4日


ヨハネ・マリア・ヴィアンネ(フランス語:Jean-Marie Vianney, 1786年5月8日 – 1859年8月4日)は、フランスの教区司祭であり、カトリック教会では教区司祭の守護聖人として崇敬されている。また、「アルスの司祭」としても知られている。教区での司牧活動による教区及びその周囲の劇的な霊的変容により、国際的に有名となった。カトリックではそれを高徳な生活、苦行、ゆるしの秘跡における不屈の司牧活動、そして聖母マリアや聖フィロメナへの熱烈な崇敬のためであるとしている。


*聖人のことば


「神の聖なる現存について考えることはほんとうに甘美で、慰めるものです。神は決して悩ましません。時は矢の如くすぎていきます。喜びは天国を待ち望むことです。―私たちは神を見るでしょう。私の兄弟たちよ、今まで考えたことがありますか。私たちは神を見るでしょう。本当に神を見るでしょう。
私たちは神を(中略)面と向かって見るでしょう。私たちは神を見るでしょう。」


「善い神は、私が自分のために祈る以外はほとんど全てを認めてくれる。」

「「霊魂は、なんと美しいのでしょう。…太陽が水に反射するように、
 神のみ姿が清らかな霊魂に反射しています。」


「神は、母親が赤子の頭をキスや愛撫をするために手でささえるように、信仰のある人間をささえる。私たちは、私たちが評価する価に応じてものを愛する。このため、私たちが主がその血に値する私たちの魂のためにもった愛を評価しなさい。主は魂との交わりと関係を切望している。」


「祈る時、波にのって泳ぐ魚のように、神にその心を開かなければならない。」



「お祈り、これこそ、地上における人間のすべての幸福です。ああ、うるわしい生涯。霊魂のわが主とのうるわしい一致。ながい永遠も、この幸福を理解するには十分ではないでしょう・・・内的生活は霊魂が浸る愛の湯浴みです・・・霊魂は愛の中に溺れた者のように浸るのです・・・母親が子供の額に接吻をあびせ、たまらない愛撫を繰り返すように、神様も内的生活の人をこのように取扱い給うのです・・・。」



「神は私たちを父よりも、優しい母よりも愛しています。私たちは子供の心をもって、神の意志に自分をゆだね、自分を捨てなければなりません。神の愛は、私たちがあえて願わなかったことを実行に移しました。善き神は私たちを必要としません。もし私たちに祈りを命じるのであるなら、それは神が私たちの幸福を望んでおり、私たちの幸福はそこでしか見つからないからです。―神が私たちのところへ来ようとする時は、父親が話しかける子供の声を聞くために身をかがめるように、小さな被造物に心を向けてくれます。」


「母が子を火から救うよりも、善なる神が悔やむ罪人をゆるすことのほうが早いのです。」



「私共のこの世での唯一の幸福は、神様を愛することと、神様が私共を愛しておられることを知ることです」



「聖体拝領は、よく果されるならば、一回でも、霊魂を神様への愛に燃え立たせ、この世をうとんじさせるに十分です。(中略)
ああ、聖なる聖体拝領。ただの一回でも人間のこの世を厭わせ、この世ながらに天国の歓喜を味わせるに十分です。」


「私がアルスにきた最初のころのことでした・・・よくお聴きなさい、皆さん。ある人が教会の前を通るとき、決まってその中に入っていきました。朝は仕事に行くときに、晩は仕事から帰るときに、扉のところにスコップとつるはしとをおいて、ながい間、聖体の秘跡の御前にとどまって礼拝していました。ある日、私はあのながい訪問の間に何とわが主に申し上げているのですかと尋ねました。何と答えたかわかりますか。「神父様、私は何も申しません。私は主を見つめ、主は私を見つめておられます・・・」(ここで聖なる要理教師の声は涙で中断した)。
彼はくり返していた「何と美しいことでしょう。皆さん、何と美しいことでしょう」。」



「十字架。十字架が平和を失わせるというのですか。十字架が世に平和を与えたのです。私共の心に平和をもたらすべきものは十字架です。私共のすべての悲劇は十字架を愛さないところから来るのです。十字架を恐れることが、十字架をふやすのです。しかし、苦痛を誇張する自己愛を顧みることなく、素直に十字架を担えば、もはや十字架でなくなります。平和の中に耐え忍ぶ苦しみは、もはや苦しみではありません。私共は、まさに、苦しみのないことを当然嘆かねばなりません。それは、十字架を担うこと以上に、わが主に似かよう者としてくれることはないからです。おお、十字架への愛と徳とによってなされる霊魂とわが主との麗しい一致・・・私は信者がそうして十字架を嫌い避けるか分かりません。それは、つまり、私共のために十字架にかかり、十字架上で死ぬことを熱望された御方を避けることではありませんか。」



 「一切を神様の御前で、一切を神様と共に、一切を神様をお喜ばせするために・・・ああ、何と美しいことでしょう・・・さあ、わが魂よ、神様と語り合い、神様と共に働き、共に歩き、共に戦い苦しもう。苦労するであろうが、主はそなたの労苦を祝し給うであろう。歩けば、そなたの歩みを祝し、苦しめば、そなたの涙を祝し給うであろう。一切を神様と共に、神様の御前で行うこと、また神様が一切を見ておられ、一切を聖心にとどめてくださると考えることは、何と偉大で高貴なことだろう。何と慰め多いことだろう・・・では毎朝『神様、一切を御身の聖心に適うために、一切の行いを御身と共に・・・』と言おう。神様の現存を考えることは何と甘美で慰め多いことだろう・・・決して倦むことはない。数時間も数分であったかのように過ぎ去ってしまう・・・ああ、これはこの世ながらの天国の味わいである。」



「パンとブドウ酒とを神の御体と御血とにする聖変化は死人を甦らせる以上に
  大きな奇跡ではありませんか。」


~痛悔を起こすための黙想~

地獄について

罪とは、神を磔にする処刑人であり、魂を殺す殺人者です。罪こそが、私たちから天国を奪い、私たちを地獄に向かって駈け出すように仕向けるものです。なのに、私たちは罪を愛しているのです。なんと愚かなことでしょうか。こう考えれば、罪に対して恐怖をまざまざと覚え、罪を犯すことなどできないはずです。

愛によって神に一致することで、この世にいながらにして喜びを味わうことができるというのに、悪魔と結託して、地獄に落とされるにふさわしいものとなるとは、まことに愚かなことではありませんか。この愚かさを、私たちは十分に理解できていません。この愚かしさを思って十分に泣くこともできません。哀れな罪びとたちは、悪魔との交わりに入るようにと宣告を受けるのを待っていられないように思われます。待ちきれなくて、自分で自分に悪魔の交わりに入るように宣告を下しているのです。

我が子らよ、一人の男がいて、薪を一つ一つ積み上げて山にしているとしましょう。彼に何をしているのかと尋ねると、「私が火あぶりにされるための火を起こす準備をしています」と答えます。これを見て、これを聞いて、あなたはどう思いますか? 炎に近づき、彼に火がついても、彼はそのまま炎の中に飛び込んでいきます。あなたはなんと言いますか?

罪を犯すことによって私たちがしているのは、まさに彼がしているのと同じことです。私たちを地獄に投げ込むのは神ではありません。罪を犯すことによって、私たちが自らを地獄に投げ込んでいるのです。
地獄に落ちた者は言うでしょう。「私は神を失った。自分の魂と天国を失った。これは私の過ちによるものだ。私のいとも大いなる過ちによるものだ」彼は燃え盛る炎から飛び上がりますが、再び炎に落ち込んでしまうだけです。人は、いと高き方を志向するように作られているので、彼は常に上に上がらなければならないと感じていますが、部屋の中では鳥は飛び立とうとしても、天井にぶつかり落ちてしまうように、彼も、神の正義という天井に阻まれて、再び落ちてしまいます。

呪われている、しかも神から呪われていると考えると震えあがります。何故に神から呪われるのでしょうか。それは私たちの一つの悪い考え、一つの冒瀆的な言動、一本のワイン、二分ほどの快楽などのためにです。二分の楽しみのために、自分の魂も天国も、神も、永遠に失ってしまうのです。

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第1部 信経



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