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聖体の教義と崇敬について(1/2) 聖パウロ六世の回勅(抜粋)

2022-09-04 14:00:55 | 日記
聖体の教義と崇敬について(聖パウロ六世回勅:ミステリウム・フィディ:1965年)


*聖体は信仰の秘儀

みなさんは十分ご承知のことであるが、合理主義の害毒を退けるために、もっとも必要なことを思いおこしておきたいと思う。それは多くの尊い殉教者が自分の血をもって証し、著名な教父、教会博士たちが異口同音に告白して教えたことである。すなわち聖体が偉大な秘儀であるということ、まさに典礼がいう『信仰の秘儀』であって、教皇レオ13世が言っておられるように『自然を越えたすべての現実がここに不思議な、驚くべき多様性と豊かさを持って含まれている』のである。

そこでこの秘儀に近づくにあたっては、人間の理屈をもって近づくのではなく、特にへりくだった従順の心をもって近づくべきである。人間の理屈は黙すべきで、われわれは神からの啓示につき従う確固たる心でこの秘儀に近づくのである。みなさんもご承知の金口聖ヨハネは聖体の秘儀について、崇高な表現と信心深い認識をもって教えた人であるが、あるとき信者たちにこのことを教えて適切にも次のように言った。『いつにても神に従順に従い、逆らうのはやめましょう。たとい神の言いたもうことがわれわれの理性と知性に反すると見えても。むしろ、神のことばが、われわれの理性に優先すべきです。そこで聖体の秘儀に関しても、ただ感覚に感じとられるものだけを見つめるのではなく、みことばに沿うように行動しましょう。かみのみことばはまちがうことはないのです。』

 スコラ学者たちも同様に言っている。この秘跡のうちに真のキリストの御からだ、真のキリストの御血のあることは聖トマス・アクィナスが言うように『感覚ではわからないが、ただ神の権威の上に立つ信仰によって知られる。ルカ22の19の「これはあなたがたのために渡されるわたしのからだである」に対してキュリロスはこう言っている。これがほんとうかどうか疑うなかれ。むしろ信仰の心で救い主のことばを受けよ。主はまことに在して偽ることはない』


そこでこの天使博士(聖トマス・アクィナス)のあとに続いてキリスト者の民衆は、つねづねこう歌うのである。『ここに今、見、触れ、味わうところのみにては、主なることを認めがたきけれども、ただ耳に聞けるところによりて確信するなり。われは神の御子の、のたまいしことを、ことごとく信じたてまつる。この真理のことばにまさる まことは、世にあることなし。』

聖ボナベントゥラはこういっている。『キリストがこの秘跡のうちに、しるしのうちにというように、おいでになることについては何の困難もない。だが天においでになると同じように真に秘跡のうちにおいでになるということは、もっと分かりにくいことである。それゆえ、これを信じるということはもっとも功のおおきいことである。』

キリストの弟子のうちの幾人もが、キリストの肉を食べ、その血を飲む話を聞いたとき「この話はわかりにくい。だれがこれを聞きえよう」といって主をすてて去って行ったと述べるところで福音はすでにこの同じ点にふれている。十二人も去って行きたいのかとのイエズスの問いかけに答えて、」ペトロは即座に確固たる態度をもって、「わたしどもはどこに行きましょう。あなたこそ永遠の生命のことばをお持ちです」と言って自分と他の使徒たちの信仰を言い表したのであった。(ヨハネ6の61~69)

そこでこの秘儀を探究するにあたって、われわれが教会の教導職を星のように仰いでこれにつき従うのは理の当然である。神なるあがない主は、書きしるされ、あるいは伝承された神のことばをこの教導職に託して守らせ、言いあらわせ、われわれは「たとい理性でいかようにも探知できなくても、ことばでどうにも説明ができなくても、真のカトリック的信仰をもって、いにしえより述べ伝えられ、信じられて全教会に行きわたっている、ことがらを真実である」と確信するのである。

それで足りるというわけではない。傷なき信仰を保ったうえで、さらに正確なことばづかいを守る必要がある。不注意なことばづかいをしたために、もっとも崇高なことがらの信仰に関して誤った見解が生じることになってはならないからである。聖アウグスティヌスは、哲学者の用いることばづかいとキリスト者の用いるべきことばづかいの違いについて厳重にいましめて、こう言っている。「哲学者は、なかなか知り尽くしにくいむずかしいことについて信心深い人の耳を傷つけることも恐れずに自由な話し方をする。私たちは一定の基準に従った話し方をするようにしなくてはならない。あまりにも自由なことばづかいをしたために、これらのことばの示す物事をめぐって信仰に反する見解を生み出すようなことがあってはならないからである。」

教会が幾世紀の長い年月の労苦をもって、実に聖霊の助けのもとで確立し、公会議の権威をもって確認したことばづかいの基準は、たびたび正統信仰の証明とも旗印ともなったもので、これは尊重されるべきものである。あるいは気ままに、あるいは新しい学問という口実のもとで、変えてはならないものである。たびたびの公会議が至聖なる三位一体と托身(受肉)の秘儀のために用いた教理表現が現代の人びとに適しないものであるという論を進めて、ほかの表現をそれらの代わりに軽率に取り入れるようなことは許されるべきことではあるまい。

同様に、トリエント公会議(注1)が聖体の信仰を言いあらわした表現形式を、だれもが自己流に変えてよいものではない。それらの表現形式は、教会が信仰の教義を表すときに用いる他の表現形式と同じように、ただ単に特定の文化の形態とか、科学の進歩の一段階とか、特定の神学学派に結びついた概念をあらわすものではなく、人間の精神が事物について普遍的、必然的経験をもって知覚したものを、あるいは通俗のことば、あるいは洗練されたことばの中から選んで的確に表現したものであって、したがってあらゆる時と場所の人びとに適したものである。

 それらの表現形式がいっそう明解に説明されて人びとのためになるということはあっても、最初の意味と異なる意味で用いられることがあってはならない。信仰について、いっそう深く知るようになっても、信仰の真理は不動のものだからである。第一バチカン公会議(注2)が教えているように、聖なる教義は「聖にして母なる教会が一度宣言した意味で保持すべきであって、いっそう高い深い知り方という外形や名のもとに、その意味から離れてはならない。」



注1:トリエント公会議

1545~63年に断続的に開催され教皇の至上権などを再確認し、宗教改革に対抗するカトリック側の改革を進めた。宗教改革の混乱を収束させ、カトリック教会の体制の立て直しを図るために教皇パウルス3世が1545年に召集したキリスト教世界の最高会議。トリエントは南チロル(当時はオーストリア)の都市(現在はイタリアに属しトレントと表記している)。


注2:第一バチカン公会議

 第20回公会議。教皇ピウス9世(在位1846~78)により招集され、1869年より翌70年にかけて開かれた。トリエント公会議以来300年ぶりに開かれたこの公会議は、その間に著しい発展を遂げたヨーロッパ近代文化・思想に対して、教会の立場を明確にすることを任務とした。信仰憲章「デイ・フィリウス」においては、極端な合理主義を時代の誤謬として排斥し、カトリック信仰の基本的立場を明示した。憲章「パストール・エテルヌス」では、教皇の首位権と不可謬性を宣言した。プロイセン・フランス戦争勃発により会議は中断され、閉会宣言のないまま、事実上1870年で終了した。

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(第4章「聖体」をお読みください。)


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