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【シスター・コンソラータ ー 愛の最も小さい道 ー】(第3部・第15章)

2022-09-05 14:13:35 | 日記
【シスター・コンソラータ ー 愛の最も小さい道 ー】(第3部・第15章)

第三部 愛の完成


第十五章 すべての人のうちにイエズスを見、イエズスのように取り扱い、ほほえみを与えること

愛のおきては神に対する愛と隣人愛を含んでいるが、実際にはただひとつの愛である。隣人愛にそむくことをやめないなら、完徳への進歩は不可能になる。修道者にしろ、世間にある者にしろ、いくらか苦業して信心に励んいでいても、人から手伝いを頼まれてことわるのを全然罪と思わないことがたびたびある。また貞潔に対する小さな誘惑にも非常に不安を感じるのに、人の悪口、批評、暴言をはいても平気でいる。コンソラータは救霊のために、神に対する愛とともに、絶え間なく隣人愛を実行した。

─イエズス─「神に対する愛と隣人愛の、絶え間ない愛の心をもって私に忠実に従いなさい。そうすれば私はあなたを愛と苦しみと救霊の絶頂へ導いてあげよう。あるご聖体拝領から、次のご聖体拝領までの間に、神への愛と隣人愛の機会をひとつも怠らないようにしなさい。」

〈すべての人の中にイエズスを見ること〉

 イエズスはコンソラータに、「すべての人のうちにイエズスを見、イエズスのように取り扱い、ほほえみをもって忍耐すること」を命じた。コンソラータは信仰の目で姉妹たちをイエズスのように見、彼らに仕えるよう努力した。一九三四年一月コンソラータは日記にしるした。

「私の姉妹はイエズスですから、私は考えと批判に非常に注意し、柔和で親切なことばを用い、また優しい温和な態度で、皆のしもべとして仕えるよう熱心に励まねばなりません。」

しかしコンソラータは激しい性格だったから、それは決して簡単なことではなかった。一生懸命にがんばってもなお隣人愛にそむいた時は、深く痛悔し、真面目にお詫びした。コンソラータは中途半端なことがきらいだったので、すべての人のうちにイエズスを見るため、指導司祭の指導と許可を得て、次のように誓約を立てた。

「……私はいつでも平和と愛の天使で、正義と厳格で悲しみをもたらす天使ではありません。姉妹たちを皆イエズスのように取り扱い、愛する誓いを立てたことを決して忘れません。」

イエズスはコンソラータに次の信仰に基づく態度を勧められた。

「だれであっても、姉妹そのものはもはやあなたにとって存在しない。存在する者は姉妹の心に下ったイエズスである。姉妹が手伝いや、心尽くし、犠牲を願いに来る時、それはイエズスだから、イエズスに拒むことができるだろうか。喜んでイエズスに従い、イエズスを大事にし、各瞬間すべての愛を尽くしてイエズスに自己献身しなさい。何かを言うべきとき、相手はイエズスなのだから心から従順に素直に、親切な柔和なことばを使いなさい。つまりすべての人のうちに私を見、思い、ことば、行ないによって私のように取り扱いなさい! 絶え間ない愛の心とともに、それを臨終までの特別決心としなさい。」

この誓いを守るために特別大きな恵みを要するので、コンソラータは毎朝この誓いをあらためる時、心からイエズスの御助けを願った。コンソラータの善意を見てイエズスは約束された。

「はい。私は、上長と姉妹たちを常にイエズスとみなす恵みを与える。」(一九三六年九月二十日)

〈すべての人をイエズスのように取り扱うこと〉

 「私があなたがたを愛したように、互いに愛しなさい」(ヨハネ15-12)という聖福音のおきてを、イエズスはコンソラータに次のことばで説明してくださった。「私はあなたの醜悪さをすべて愛の外套で隠した。私はあなたの欠点を今までも、今もがまんしている。私はあなたの悪かったことを親切に理解し、いつもゆるす。私はあなたのためにいつも優しい、温和な、愛に満ちたことばを用意している。私はあなたのすべての困難を助け、まちがえたことも直してあげる。私はあなたが必要とするものはすべて配慮してあげる。私はあなたを母のように最もこまやかないたわりをもって愛している。私はあなたと共に喜び、あなたと共に悲しむ。私があなたにしたと同じように、あなたは姉妹たちを取り扱いなさい。あなたは私の浄配(清い配偶者)だから。」(一九三五年四月一日)

利己心のため、私たちは他人の長所よりも短所を見がちであるが、一九三五年のはじめごろ、コンソラータは姉妹たちの欠点を全然見ない、かまわないという決心をした。しかしすぐに成功することはできなかった。ほとんど三年間たった、一九三七年九月二日書いている。

「今イエズスは私のうちで隣人愛が深くなるよう骨折っておられるようです。それは姉妹たちのすべてを肯定するばかりでなく、すべてに寛大であることです。しかしまだ私にはそれができません。それでこのころ、私をいらいらさせがちなこともすべて私の中で押し殺すほうがいいと思われてきました。それもむずかしいけれども、そうすると深い平和が心にはいり、その平和と共に、私が望んでいる完全な愛も心にはいってくるでしょう。そしてそれによってイエズスの浄配なる姉妹たちを実際にイエズスとみなし、イエズスとして取り扱うことができるでしょう。」

ある日、そのため必要な絶えざる親切を得られるよう聖母マリアが励ましてくださった。

「すべての人に対していつでも親切にしなさい。親切だけが心の中を支配しているように。あなたの死後、人々が、あなたのことを単に優しい人であった、ということを私は望みます。」

またあるちょっとむずかしい性格を持っている姉妹について、聖母は仰せられた。
「あなたの親切によって、この姉妹の欠点を直し、それに勝ちなさい。この姉妹が、あなたに愛され、理解されているように感ずれば、あなたは愛の完成へと力強く進むでしょう。毎日その姉妹のために祈って、恵みを降らしてあげなさい。ただひとつの天使祝詞(アヴェ・マリアの祈り)だけでも私の心をその姉妹に向けるでしょう。」

ある日レクリエーションの時間、他の姉妹たちと過ごすために、ひとりの老姉妹の付き添いをちょっとやめたとき、イエズスは注意された。

「あなたは隣人愛がなんであるかを知っていますか。その年とった姉妹をあなたよりも好むこと! 全部の時間年とった姉妹のそばにいたならば自己放棄したのだから、より大きな隣人愛となったのに。」(一九三五年十月二八日)

それでイエズスはコンソラータに、休憩時間はいつも老姉妹を喜ばせるため全心を尽くす決心をするよう勧められた。

〈すべての人に「はい」ということ〉

─イエズス─「私があなたを愛するように、あなたは姉妹たちを愛しなさい。これは私のおきてである。……すべての姉妹たちに、私の喜びと私の優しいほほえみを与えなさい。あなたの態度とことばによって私がどんなに優しく謙遜であるかを示しなさい。私のように、全く私のようになりなさい。」(一九三五年十月二八日)

─イエズス─「私は自分を──自分のすべてをあなたに与える。あなたも自分のすべてを人々に与え、なしうる限りの奉仕をしなさい。あなたの全生涯が、私に対し、隣人に対し、姉妹たちに対し、すべての人に対して絶え間ない愛の心となることによって、自我を全く消滅させなさい。」

 ─イエズス─「私がそこまで高めてあげたその純粋な愛で人々を愛しなさい。これは私の許可、いな命令である。天国で、天使と聖人たちが互いに愛するように愛しなさい。世間的に考えず、上長のかたがたや姉妹たちや隣人がしたいと望んでいることばかり考えなさい。」


イエズスはこの隣人愛の偉大なプログラムを、次のことばでまとめていられる。

「すべての人に『はい』と言いなさい。常に、またにこにこしながら。」

コンソラータは台所、畑、靴屋、秘書、看病、洗濯、掃除、生き物の世話など、昼も夜も身にかかってくる多くの仕事にほとんど押しつぶされそうだったが、イエズスは励ましてくださった。

「コンソラータ、よくわかりましたか? 人々があなたの時間をいろいろな仕事で利用することを許してあげなさい。時間のある間にできる限りのことをして働きなさい。あなたはもうすぐ死ぬが、死後には働くことができないから、どんな犠牲からも逃げず、どんな願いも退けないように。私はいつもあなたの愛の勤めをよく果たせるよう助けてあげよう。」

どんなに人の願いが大きすぎても拒まないように、またつまらない必要のない些細な事を願った姉妹にも服従するようにイエズスは勧められた。

─イエズス─「イエズスはあなたに最良の部分を与えた。あなたに要求する忍耐を他の人にも要求するわけではない。人の欠点、自己心、虚栄心などすべてを知っていてもよく忍耐してそれを見せず、黙ってにこにこと愛を尽くしなさい。死ぬ時、あなたは黙って何も言わなかったことについて喜ぶだろう。」

人に何も拒まないだけでなく、いつも自分の都合や趣味を犠牲にすることも、イエズスは要求された。一九三六年四月二日コンソラータは書いている。

「けさ、ご復活の手紙を早く書き終ろうと急ぎました。手紙を副院長様の所に差し上げてから、自分の仕事をしてしまおうと思ったからです。ところが手紙を持って行きますと、副院長様は『ちょっとお暇がありますか。』とお聞きになりました。自分の夢が消えるのを恐れて黙っておりますと、『いいですよ、あなたも忙しいですね。まあ自分でやりましょう。』 私は大急ぎで『私がやります』と断言し、書類をいただいて個室へもどり三冊の書きものを作りました。心の中に『あなたは自分を忘れ、自分の都合を考えずに、上長や姉妹たちの手の中の従順な道具となり、彼らの思うままにいつでもどんな目的のためにも使われたほうが完全である』というイエズスの御声を聞きました。それで完全に悟ることができました。きょうから新たに隣人愛のおきてに励もうと決心し、最後の息をひきとるまで、神の御助けによって自己放棄の生活を覚悟します。」

すすんで人のすべての要求に「はい」と答えるには、自分の最もとうとい個人的、霊的な希望をも犠牲にしなければならない。コンソラータは一九三六年の聖木曜日に書いている。

「私は自分の暇は自分の持ち物とみなして、夕方の時間イエズスのみ前に過ごそうときめました。しかし私の自己心を全く殺そうと考えておられるイエズスは、ちょうどその時、ひとりの姉妹、続いてもうひとりの姉妹によって小さな手伝いを願いました。私はすぐに従いました。でも心の中に『どうも彼らは私の休息時間までつぶしてしまう』という不満が浮かんできました。そこでイエズスの御足もとに帰ると、『姉妹たちの中に実際にイエズスを見たならきっともっと親切に助けたでしょう。』といってあやまりました。その時イエズスは悟らせてくださいました。

「いまから被造物を見ないように。彼らをイエズスとみなしたら、どんな犠牲でも、しやすくなるし喜びの源となるだろう。私はあなたのために自分を犠牲としてささげたので、あなたもまた自己を捨てなさい。ごらんなさい。人々は、ご聖体にいる私を取ったり、顕示台に入れて聖櫃の上に置いたり、ひとりぼっちにしたりなど、自分の思うとおりにいろいろな方法で取り扱う。あなたもそのとおりにしなさい。姉妹たちが自分の思うとおりに、どんな方法であなたを利用するのもゆるしなさい。」

 一九三五年のご昇天の祝日にコンソラータが聖堂で祈っていると、聖母マリアが「自己を全くなくしなさい。上長と姉妹たちを通じて、神の御手のうちの素直な道具としていつでも自由に使われなさい。」と仰せられた。その瞬間、ある姉妹から「用があるからちょっと聖堂を出てください。」と合い図され、聖母マリアのお勧めをすぐに実行するため、聖母のおことばを最後までお聞きせず、姉妹の用を果たすため聖堂を出た。ところが優しい聖母は、コンソラータが個室にもどると先の続きをさとされ、お勧めを完了してくださった。
「……神が望みたもうすべてにおいて、望みたもう時に、望みたもう方法で。」

 ある時コンソラータは、ある姉妹の用をするために、聖堂へ行ってきまった免償をうることができなかった。イエズスはコンソラータを慰めて、「すべての免償の中で最も良い免償は、絶え間ない愛の心である」と仰せられた。

トリノの修道院は召し出しがふえて狭くなったので、コンソラータは他の姉妹と共にモリオンドの新しい修道院へ移った。そこから送った一九三五年八月二日付の最初の手紙にこう書いた。

「……ここでは犠牲と隣人愛を実行する機会が無数にあります。ひとりでいることを熱望して、暇の時サンダル直しをするため隠れた隅を見つけました。ところが病気の姉妹はその場所を見つけ、私といっしょに暇の時そこで過ごします。そこで私の唯一の喜びは奪われてしまいました。けれどもすべての人をイエズスとみなすこと! その姉妹は遠慮をしていますから少し勇気づけてあげなければなりません。晩になるとその姉妹は、痛む背中にチンキを塗ってもらうために、私の個室に来ますので、この個室の隠遁(いんとん)もできなくなります。しかし隣人愛によってすべてに勝つことができます。どんなに自分の中の自我が反対しても、この修道院という姉妹たちの団体に完全に自己献身し、修院内のあらゆる姉妹たちのはしためとなって、えこひいきなしにいつでも喜んでだれにも『はい』と答えるつもりです。」

─イエズス─「あなたは助けを要する姉妹を見たら、自分がどんなに忙しくても決して放っておいてはいけない。まずこの隣人愛の行ないをすることを覚悟しなさい。そうすれば私はあなたのすべての義務を正確に果たすことができるように、よくしてあげる。」(一九三五年九月一日)

─イエズス─「あなたは世話好きで、しすぎるのではないかなど恐れなくともよい。すべての人を私とみなせば、私の希望に対して世話をしすぎるということがあろうか。」(一九三五年四月十九日)

イエズスは願われるまで待たず、自発的に、まっ先にするようにお勧めになった。一九三五年四月十九日書いている。

「私は自分を『兄弟たち』のため神にささげましたので、私は自分に対して使用権が全然ありません」 また一九三五年七月二四日指導司祭に報告した。

「神のお助けによって、あらゆる人々のあらゆる要求に対して『はい』という決心を守りました。それによって隣人愛を絶え間なく実行する機会が与えられました。」

〈ほほえみをもって〉

 私たちは、人に奉仕するとともに、イエズスの聖心の御慈悲と親切を発散しなければならない。そこでイエズスは、「愛の行ないをひとつも怠らず、すべての人を私とみなし、私が確かに助けると確信して、雄々しく私のあらゆる勧めにすぐ『はい』といって従いなさい。それからにこにこしなさい。私はあなたによって、人々にほほえみを与える」と仰せられた。

─イエズス─「私はすべての悲しみを隠して自分のものとするが、人々にはいつでもほほえみを与える。あなたも同じようにしなさい。」(一九三五年十月二九日)

イエズスはコンソラータにほほえみの召し出しを授け、コンソラータは雄々しくそれを受け入れた。

〈まかぬ種は生えぬ〉

コンソラータは善徳をうるため非常な努力をしたが、特に隣人愛と貞潔は、最も激しい戦いを要した。そのことについて正直に語っている。「一九三四年の黙想会から隣人愛の善徳をうるためにがんばりました。やがて、隣人愛に反する考えと望みがひどく私を攻撃してきました。なんだか変にかんしゃくを起こしがちになって、姉妹が会則にそむくとすぐ立腹しました。そしてそのことについては私に責任があると思い、霊魂にひどく重荷のように感じました。告解しますと『あなたの霊魂に光がいっぱいはいったので、隣人愛にそむくことによく気がつくのです。すべての人をイエズスとみなすという決心をぜひ続いてよく守ってください』と言われ、光と平安を新たにいただきました。」

〈コンソラータとその修道院〉

コンソラータは姉妹たちを心から愛し、皆が聖人になることを望み、率先して会則をひとつひとつ忠実に守ることによって、よい模観を示すように努力した。そればかりではなく、姉妹たちのため一心に祈ったので、たびたび姉妹間の感情問題──悪感情や悲しみなどを消すことができた。よい模範と祈りによってこそ修道院の精神は改めることができるのである。自分は改心しないで、何もかも批評しながら改革しようとする人は、かえって混乱を招く。コンソラータのような人こそ、その修道院にとって大きな祝福である。コンソラータの祈りによって突然召し出しは非常に増加し、テストナのモリオンドに新しい修道院を増設する必要を生じた。

〈慰め手なるコンソラータ〉

コンソラータは自分の修道名 Consolatrice(慰め手の意)を自分の使命だと感じた。イエズスが「あなたはすべての人のコンソラータとなるだろう。」と仰せられたが、その使命を、もはや地上で実行し始めた。英雄的な隣人愛にかられて、人の苦しみを自分の苦しみとし、その手紙の中でも親切なことばのみ書くように注意した。

「一九三四年のクリスマスから、心の中にふしぎな悲しみを深く感ずるようになりましたが、それがなぜかはわかりませんでした。全世界の苦しみが私の心に響いてきました。夜、私の個室の窓べで礼拝をしながら、外に立ち並ぶ家々の長い列を見、その家の中に住んでいる人々の寂しさ、神からの慰めもなしに非常に苦しんでいる心を思いやりました。私は世間で苦しんでいるすべての人々のために祈り、泣きました。

その時から神は、すべての苦しむ人々に対する深い同情の心を与えてくださいました。私は泣いている人を見るとすぐそのかたを抱きしめたくなります。私の心には神が住みたもうので、神がそのかたを慰めてくださると考えます。幸いなことに私は世間に住んでおりません。もし世間にいれば、まわりにかわいそうな人があまり多くて、いつでも深く感動ばかりしていることでしょう。ある日、母様が非常に苦しんでおいででした。私は心に抱きしめたい強い望みに負けないため、大急ぎで母様の部屋から出ました。」

 「私は靴直しの職人として、買物のため外出する助修女(修道院の雑務を担当する)と話す必要があり、二人だけで時々話しました。ある日そのシスターの悲しみに気づき、慰めのことばがかけたくてたまらなくなりました。そこで少し静かに祈ってから慰めのことばをかけました。慈悲深いイエズスはそのかたへの慰めのことばを与えてくださったばかりでなく、イエズスご自身が私の心の中で『ああ、シスター・コンソラータ、ご親切をほんとうにほんとうにありがとうございました。』と仰せられました。

 自分の心から出たことばに驚きましたが、『あなたが沈黙すれば、私が、あなたによって語るだろう』とのイエズスの御ことばを思い出しました。」

コンソラータの激しい隣人愛は修道院の塀を超えて、世界じゅうのすべての苦しむ人におよんだが、特に刑務所にはいっているかわいそうな囚人のことを心にかけていた。イエズスはゲッセマニの園で捕えられ、カイファの裁判にかけられたのち、牢獄で一晩刑吏たちにひどく苦しめられたことによって、囚人たちの苦しみに参加された。また「牢にいた時、あなたがたは尋ねてくれた。」ということばによって、ご自身を囚人たちと等しくされた。そしてそれによって不正なさばきにより無罪でありながら刑務所で拷問その他の責め苦を受ける人々に、耐え忍ぶ力の恵みを与えられたのである。キリストに生きているコンソラータも同じように感じた。一九三五年九月二十九日書いている。

 「きのうイエズスは私にたいへん大切なことばを仰せられました。『コンソラータ、あなたは私に対して、すべてを惜しみなくささげて雅量(がりょう:寛大な気持ち)を示してくれた。私もあなたに対して雅量ゆたかにすべてを惜しみなく与えよう。』『では、イエズスよ、あなたはそんなに慈悲深いおかたですから、私のかぎりないほど大きな希望をすベて全うしてください。すベてを。……イエズスよ、私の死後、私を囚人たちの優しい姉妹、彼らのコンソラータとなる恵みをください。』『はい、よろしい、コンソラータ、私はそれを約束する。死後、私はあなたを刑務所へ行かせるだろう。このことを書いておきなさい。』

私は昨年、ゲッセマニの悲しみを感じ、その後苦しむ人、特にかわいそうな囚人に深く同情して、彼らのため一生懸命祈っておりましたが、さきほど応接間へ呼ばれ、『二十万人の人が政治関係で刑務所にいる』と聞き、たいへん感動しました。わが神よ、あなたのみ彼らを慰め、その悲しみを愉快な平安にお変えになれるでしょう。」

 囚人のためばかりでなく、煉獄の霊魂のためにも、十字架の道行、ロザリオその他多くの祈りをしたことはもちろんで、その祈りをしながら、「兄弟姉妹」のため、絶えず愛の心を起こし続けた。

私たち自身の霊魂のための祈り(痛悔の祈り)

2022-09-05 14:13:17 | 日記
十私たち自身の霊魂のための祈り

私たち自身の霊魂のためにも祈りましょう。
とこしえの御父よ、私は悲しみのマリアの御手を通してイエスの聖心を、そのすべての愛、
すべての苦しみ、すべての功徳とともに、あなたにお捧げいたします。

今日、および現在までに私が犯したすべての罪の償いとして:
栄唱『栄光は父と子と聖霊に。初めのように今もいつも世々に。アーメン。』

今日、および現在までに私が良く果たさなかった善の行いを清めるために:
栄唱『栄光は父と子と聖霊に。初めのように今もいつも世々に。アーメン。』

今日、および現在までに私がよく果たすべきであったにもかかわらず怠った善を補うために:
栄唱『栄光は父と子と聖霊に。初めのように今もいつも世々に。アーメン。』


この祈りのエピソード
亡くなったクララ会のある修道女が、彼女のために祈っていた修道院長に現れて言いました。
 「私はまっすぐに天国に行きました。なぜなら私は、毎晩この祈りを唱えていましたので、私が果たすべきすべての償いを果たしたことになり、煉獄(れんごく)をまぬがれることができたのです」


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第1部 信経


信仰者用スカプラリオについて

2022-09-05 14:12:48 | 日記
信仰者用スカプラリオについて

1.信仰者用スカプラリオ

信仰者用のスカプラリオは、一般の信仰のための信具である。一番使用するのがローマ・カトリック教会で、同様に使用するのは、アングリカンチャーチとルーテル派である。それらを身につける人たちの宗教団体への誓約、聖人、または人生の歩み方を示し、着用者にその約束を思い出させるようにデザインされている。信仰者用のスカプラリオにはイメージ画などが描かれているもの、または、聖句などが入っていたりするものもある。 信仰者用スカプラリオは、2つの長方形のウール又はその他の布地が紐で結ばれているもので、長方形の一つは、それを身につける人の胸の部分にぶら下がり、もう片方は2つの紐で肩越しに背中の部分に当たるようにぶら下がる。スカラプラリオの中には別の紐を腕の部分に通して長方形の布に結び付けるタイプのものもある。


2.スカブラリオの歴史

信仰者用のスカプラリオのルーツは、一般の人々を霊的な指導のために教会などに集め、熱心な信者へのいくつかの記章、入会者と献身的な働きをした者の印を授与することなどにたどり着く。スカプラリオに描かれているものやメッセージはたいてい、その修道会が焦点を当てているものや、伝統、特に信仰していることである。信仰者用スカプラリオと免償は17世紀から18世紀にかけてカトリック教会のフラタニティ (Fraternity:宗教的機能をもつ、友愛の連帯組織)の発展と共に結びついた。

 特別な約束事と免償がスカプラリオを着用することによって結びついたという事実は、スカプラリオの追従者を増やすことにつながっている。これは初期の例で言えば、カルメル山の聖母のスカブラリオや、カルメル会の修道服にその事実が見られる。この約束事は1251年に聖母マリアがイギリスのケンブリッジ(Cambridge, England)で、カルメル会修道士の聖サイモン・ストック(St. Simon Stock)に出現し、
カルメル山の聖母の茶色のスカプラリオ(the Brown Scapular of the Our Lady of Mount Carmel)を身につけることを勧め、信心深くこれを身につけた者を救済する約束を彼にしたという、その彼の主張に答えるためだった。

このことがカルメル会の伝統がその基礎となっている。しかしながら、この由来は、学者たちに議論を投げかける。今日、歴史家たちはこの聖母マリアの出現が本当に起こったのか疑問を投げかける。他の主張では、、カルメル会の他の修道士が聖母マリアの出現を目撃したと言うものもある。カルメル会の会則ではそのウェブサイトに「聖母が御出現になってスカラプラリオを手渡したという幻視が歴史的に否定されたとしても、スカプラリオそのものは、全てのカルメル会会員に対する聖母の母としての保護、イエスの後を追う個人の約束として、イエスの全ての弟子の完璧なモデルである聖母の足取りを追うものであることは残り続ける。」と書かれている。茶色のスカプラリオの正確な起源に関する学究的な議論に関係なく、それが13世紀後半からカルメル会修道会の習慣の一部であったことは明白である。


3.種々のスカプラリオ

 1617年まで日付が遡る無原罪の御宿りの青いスカプラリオは、結局、無原罪の御宿りを信じて青いスカプラリオを身に付け、貞節にその人生を送る人にはたくさんの免償と多くの恵みを約束された。 1885年に教皇レオ13世は 聖顔のスカプラリオ(Scapular of the Holy Face)を承認した。これはヴェロニカ(The Veronica)として知られている。そして「ホーリーフェイス(Holy face)」の司祭たちを第一の奉仕団体(Archconfraternity)まで引き上げた。この教皇はよきすすめの聖母のスカプラリオ」(the Scapular of Our Lady of Good Counsel)と「 聖ヨセフのスカプラリオ 」(the Scapular of St. Joseph)もまた1893年に承認している。そして「 聖心のスカプラリオ 」(Scapular of the Sacred Heart)を 1900年に承認している。1611年には、「聖母マリア下僕会」(Servite Order)の彼らの黒いスカプラリオ(Scapular of the Seven Sorrows of Mary)が教皇パウロ5世から 免償を受け取った。

 また主の苦しみとイエスと聖母の聖心の赤いスカプラリオ(ご受難のスカプラリオ)は聖ヴィンセンシオ・ア・パウロ愛徳姉妹会のアンドリュー修道女(Appoline Andriveau)に明かされたとカトリック教会では信じられている。 この伝説によると、フランス、トロイの彼女の修道院の中で、1846年7月26日から同年9月14日の間にイエスと聖母がこの修道女の前に現れるビジョンを見た。このビジョンの中でイエスと聖母は彼女に次のように約束した。「このスカプラリオを身に付け、イエス・キリストのご受難を瞑想するものには、毎週金曜日に、その信仰、希望、慈愛が大きく増すであろう。」


   (ご受難のスカプラリオ)

 19世紀の間、多数の他のスカプラリオが承認された。 聖母の汚れなき御心の白いスカプラリオ (The white Scapular of the Immaculate Heart of Mary)は1877年に教皇ピウス9世に承認された。 よきすすめの聖母の白いスカプラリオ(Scapular of Our Lady of Good Counsel)は1893年に教皇レオ13世から承認を受けた。聖母にそのスカブラリオの着用者に良き導き手になってもらうようにとのことである。 病者の救護者の聖母の黒いスカブラリオ、(The black Scapular of Our Lady Help of the Sick)これは、聖カメリウス・デ・レリス(St. Camillus de Lellis)によって設立されたフラタニティのものであるが、1860年に教皇ピウス9世によって承認されているまた1863年と1870年の2度、教皇ピウス9世は緑のスカプラリオGreen Scapular)もまた承認している。

 20世紀前半までに、信仰者用のスカプラリオは、世界中でカトリックの間でジョゼフ・ハイルガ―(Joseph Hilgers)のような強い支持者を得た。1914年にカトリック百科事典(Catholic Encyclopedia)が始まると、「ロザリオや、茶色のスカブラリオなどがカトリックの信仰を表すものとなった。」1917年に報告されたファティマの聖母(Our Lady of Fátima)の出現では、聖母は片手にロザリオ、もう片方の手にスカプラリオを持った姿で現れた。ルチア・サントス(Lúcia Santos)(ファティマの聖母の目撃者の一人)は聖母が彼女に伝えた言葉は「 ロザリオとスカブラリオは切り離すことができない。」だった。アメリカにおいては、「スカプラリオ・マガジン」によって百万人のアメリカ人をファティマのメッセージのもとに、ロザリオの祈りをささげることになった。ロザリオと信仰者用のスカプラリオのつながりは、21世紀に入ってもつながっている。カトリック百科事典は信仰者用の小型版の18のローマ・カトリック教会が公認したスカブラリオをリストアップしている。ローマ・カトリック教会によって認証された全てのタイプで最も知られており、そして、おそらくもっともポピュラーなものは、カルメル山の聖母のスカプラリオである。時々はそれはその肩紐などの色から茶色のスカプラリオとも呼ばれる。

   (茶色のスカプラリオ)

 レオ・デ・ゴスブリアンド司教(Bishop Leo De Goesbriand)によると、信仰者用のスカプラリオを身に付けることは「恒常的な瞑想」として見られている。「 自分がどこにいようと、私がなにをしようと聖母マリアは私の聖母マリアに対する崇敬の証拠を見ずにいらっしゃることはない。 」という。このスカプラリオは、それは歴史的にイギリス(ブリテン王国)では、英国国教会の信仰の中でもまた人気のあるスカプラリオである。 緑のスカプラリオは、「信仰のない人々を改宗させるために始まった。」のだが、キリスト教コミュニティの間のもう一つの人気があるスカプラリオである。霊的な観点から言えば、信仰者用スカプラリオは、瞑想の課程においてカトリックの礼拝と調和する信仰の鍵だという主張もある。


4.着用, 祝福と規則

それぞれのスカプラリオがそれぞれ、特定の身に付ける資格と着用法があるが、ローマ・カトリック教会は、その全てのタイプのスカプラリオに関係する特定の規則を規定した。それは、修道的であることか、信仰的であること。

宗教団体と関連したスカプラリオはその宗教団体の定められた代表者から授けられなければならない。神秘的で信仰に関連付けられたスカプラリオに必要なことは、着用者に与える司祭からの祝福である。スカプラリオを受けることによる恵みと免償を受けるためには通常、それをずっと着用しなければならない。スカプラリオを着用せずにしばらくの間放置しているなら、スカラプラリオを受け取った人はその期間は恵みを受けないことになる。スカプラリオを受けた人が再び着用したならば、恵みはその時から受けることができる。ただし、これはスカプラリオの種類によって異なる場合がある。

信仰用のスカプラリオは、それに付随している両肩用の紐もきちんと整備し、良い状態に保っておかなければならない。ひと組のスカプラリオは同じ紐で結ばれているが、最優先されなければいけないのは、その紐の色は、そのスカプラリオによって定められている色のものでなければならない。もし、スカプラリオの一部分が破損してしまい、うまく修理することができないのであれば、それは取り換える必要がある。しかしながら、その着用者にとって、物質としてのスカプラリオでなく着用者の信仰のスカプリオから恵みを与えられているのであれば、スカブラリオが交換されることは必要ではない。

 (以上ウイキペディアより抜粋、編集)

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第1部 信経


病人のための祈り(絶えざる御助けの聖母マリア信心会の祈り)

2022-09-05 14:12:20 | 日記
病人のための祈り

生命(いのち)を与えて下さる御父なる神よ、
お恵みによって病人の体と心をいやし、
一日もはやく快復できますように。

苦しみを深く味わったキリストよ、
地上で病人にあわれみの手を
差し伸べられたように、
今も彼らをかえりみ、
教会の奉仕と祈りによって、
あなたの復活の力をあらわしてください。

心を導く聖霊よ、彼らが主のみ旨を
快く受け入れ、すべてを耐え忍ぶことが
できますように、力づけ、支えて下さい。

絶えざる御助けの聖母よ、病のうちにある人々が、
あらゆる危険より守られますように、
 お取り次ぎください。 アーメン。

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救霊のために、説明できるようになります。ぜひご覧ください。

第1部 信経


ー以上ー

聖ヨハネ・マリア・ヴィアンネ(アルスの司祭)のことば

2022-09-05 14:11:49 | 日記
聖ヴィアンネの言葉


人物の紹介


ヨハネ・マリア・ヴィアンネ

生誕
1786年5月8日
フランス・ダルディイー

死没
1859年8月4日
フランス・アルス=シュル=フォルマン

崇敬する教派
カトリック教会・聖公会

列福日
1905年1月8日

列福場所
ローマ

列福決定者
ピオ10世

列聖日
1925年5月31日

列聖場所
ローマ
列聖決定者
ピオ11世

記念日
8月4日


ヨハネ・マリア・ヴィアンネ(フランス語:Jean-Marie Vianney, 1786年5月8日 – 1859年8月4日)は、フランスの教区司祭であり、カトリック教会では教区司祭の守護聖人として崇敬されている。また、「アルスの司祭」としても知られている。教区での司牧活動による教区及びその周囲の劇的な霊的変容により、国際的に有名となった。カトリックではそれを高徳な生活、苦行、ゆるしの秘跡における不屈の司牧活動、そして聖母マリアや聖フィロメナへの熱烈な崇敬のためであるとしている。


*聖人のことば


「神の聖なる現存について考えることはほんとうに甘美で、慰めるものです。神は決して悩ましません。時は矢の如くすぎていきます。喜びは天国を待ち望むことです。―私たちは神を見るでしょう。私の兄弟たちよ、今まで考えたことがありますか。私たちは神を見るでしょう。本当に神を見るでしょう。
私たちは神を(中略)面と向かって見るでしょう。私たちは神を見るでしょう。」


「善い神は、私が自分のために祈る以外はほとんど全てを認めてくれる。」

「「霊魂は、なんと美しいのでしょう。…太陽が水に反射するように、
 神のみ姿が清らかな霊魂に反射しています。」


「神は、母親が赤子の頭をキスや愛撫をするために手でささえるように、信仰のある人間をささえる。私たちは、私たちが評価する価に応じてものを愛する。このため、私たちが主がその血に値する私たちの魂のためにもった愛を評価しなさい。主は魂との交わりと関係を切望している。」


「祈る時、波にのって泳ぐ魚のように、神にその心を開かなければならない。」



「お祈り、これこそ、地上における人間のすべての幸福です。ああ、うるわしい生涯。霊魂のわが主とのうるわしい一致。ながい永遠も、この幸福を理解するには十分ではないでしょう・・・内的生活は霊魂が浸る愛の湯浴みです・・・霊魂は愛の中に溺れた者のように浸るのです・・・母親が子供の額に接吻をあびせ、たまらない愛撫を繰り返すように、神様も内的生活の人をこのように取扱い給うのです・・・。」



「神は私たちを父よりも、優しい母よりも愛しています。私たちは子供の心をもって、神の意志に自分をゆだね、自分を捨てなければなりません。神の愛は、私たちがあえて願わなかったことを実行に移しました。善き神は私たちを必要としません。もし私たちに祈りを命じるのであるなら、それは神が私たちの幸福を望んでおり、私たちの幸福はそこでしか見つからないからです。―神が私たちのところへ来ようとする時は、父親が話しかける子供の声を聞くために身をかがめるように、小さな被造物に心を向けてくれます。」


「母が子を火から救うよりも、善なる神が悔やむ罪人をゆるすことのほうが早いのです。」



「私共のこの世での唯一の幸福は、神様を愛することと、神様が私共を愛しておられることを知ることです」



「聖体拝領は、よく果されるならば、一回でも、霊魂を神様への愛に燃え立たせ、この世をうとんじさせるに十分です。(中略)
ああ、聖なる聖体拝領。ただの一回でも人間のこの世を厭わせ、この世ながらに天国の歓喜を味わせるに十分です。」


「私がアルスにきた最初のころのことでした・・・よくお聴きなさい、皆さん。ある人が教会の前を通るとき、決まってその中に入っていきました。朝は仕事に行くときに、晩は仕事から帰るときに、扉のところにスコップとつるはしとをおいて、ながい間、聖体の秘跡の御前にとどまって礼拝していました。ある日、私はあのながい訪問の間に何とわが主に申し上げているのですかと尋ねました。何と答えたかわかりますか。「神父様、私は何も申しません。私は主を見つめ、主は私を見つめておられます・・・」(ここで聖なる要理教師の声は涙で中断した)。
彼はくり返していた「何と美しいことでしょう。皆さん、何と美しいことでしょう」。」



「十字架。十字架が平和を失わせるというのですか。十字架が世に平和を与えたのです。私共の心に平和をもたらすべきものは十字架です。私共のすべての悲劇は十字架を愛さないところから来るのです。十字架を恐れることが、十字架をふやすのです。しかし、苦痛を誇張する自己愛を顧みることなく、素直に十字架を担えば、もはや十字架でなくなります。平和の中に耐え忍ぶ苦しみは、もはや苦しみではありません。私共は、まさに、苦しみのないことを当然嘆かねばなりません。それは、十字架を担うこと以上に、わが主に似かよう者としてくれることはないからです。おお、十字架への愛と徳とによってなされる霊魂とわが主との麗しい一致・・・私は信者がそうして十字架を嫌い避けるか分かりません。それは、つまり、私共のために十字架にかかり、十字架上で死ぬことを熱望された御方を避けることではありませんか。」



 「一切を神様の御前で、一切を神様と共に、一切を神様をお喜ばせするために・・・ああ、何と美しいことでしょう・・・さあ、わが魂よ、神様と語り合い、神様と共に働き、共に歩き、共に戦い苦しもう。苦労するであろうが、主はそなたの労苦を祝し給うであろう。歩けば、そなたの歩みを祝し、苦しめば、そなたの涙を祝し給うであろう。一切を神様と共に、神様の御前で行うこと、また神様が一切を見ておられ、一切を聖心にとどめてくださると考えることは、何と偉大で高貴なことだろう。何と慰め多いことだろう・・・では毎朝『神様、一切を御身の聖心に適うために、一切の行いを御身と共に・・・』と言おう。神様の現存を考えることは何と甘美で慰め多いことだろう・・・決して倦むことはない。数時間も数分であったかのように過ぎ去ってしまう・・・ああ、これはこの世ながらの天国の味わいである。」



「パンとブドウ酒とを神の御体と御血とにする聖変化は死人を甦らせる以上に
  大きな奇跡ではありませんか。」


~痛悔を起こすための黙想~

地獄について

罪とは、神を磔にする処刑人であり、魂を殺す殺人者です。罪こそが、私たちから天国を奪い、私たちを地獄に向かって駈け出すように仕向けるものです。なのに、私たちは罪を愛しているのです。なんと愚かなことでしょうか。こう考えれば、罪に対して恐怖をまざまざと覚え、罪を犯すことなどできないはずです。

愛によって神に一致することで、この世にいながらにして喜びを味わうことができるというのに、悪魔と結託して、地獄に落とされるにふさわしいものとなるとは、まことに愚かなことではありませんか。この愚かさを、私たちは十分に理解できていません。この愚かしさを思って十分に泣くこともできません。哀れな罪びとたちは、悪魔との交わりに入るようにと宣告を受けるのを待っていられないように思われます。待ちきれなくて、自分で自分に悪魔の交わりに入るように宣告を下しているのです。

我が子らよ、一人の男がいて、薪を一つ一つ積み上げて山にしているとしましょう。彼に何をしているのかと尋ねると、「私が火あぶりにされるための火を起こす準備をしています」と答えます。これを見て、これを聞いて、あなたはどう思いますか? 炎に近づき、彼に火がついても、彼はそのまま炎の中に飛び込んでいきます。あなたはなんと言いますか?

罪を犯すことによって私たちがしているのは、まさに彼がしているのと同じことです。私たちを地獄に投げ込むのは神ではありません。罪を犯すことによって、私たちが自らを地獄に投げ込んでいるのです。
地獄に落ちた者は言うでしょう。「私は神を失った。自分の魂と天国を失った。これは私の過ちによるものだ。私のいとも大いなる過ちによるものだ」彼は燃え盛る炎から飛び上がりますが、再び炎に落ち込んでしまうだけです。人は、いと高き方を志向するように作られているので、彼は常に上に上がらなければならないと感じていますが、部屋の中では鳥は飛び立とうとしても、天井にぶつかり落ちてしまうように、彼も、神の正義という天井に阻まれて、再び落ちてしまいます。

呪われている、しかも神から呪われていると考えると震えあがります。何故に神から呪われるのでしょうか。それは私たちの一つの悪い考え、一つの冒瀆的な言動、一本のワイン、二分ほどの快楽などのためにです。二分の楽しみのために、自分の魂も天国も、神も、永遠に失ってしまうのです。

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