鈴鹿全日本選手権の悔しい予選落ちから、レースを続けていく事に少しづつ
自信をなくしていた。
菅生サーキットでも予選は補欠枠で結局、決勝は走れずじまい。
筑波では恐れていた裏ストレートか侵入する高速コーナーでの転倒。
エンジンの焼き付きが原因だった。再び右手部骨折。
2回目の鈴鹿選手権ではエントリーすら忘れていた。
他にも西仙台サーキットでも予選落ち等、散々なシーズンであった。
年齢も28歳を過ぎて遊びでレースを続けられる年齢ではなくなっていたし
そろそろ次の人生を考えなければいけない時期がきていた。
この頃、人材派遣で入っていた会社の仕事が、派遣を辞めて個人契約の
形になり個人事業者として仕事も楽しくなっていた事もあり引退を決意した。
次回からは個人事業から会社を立ち上げるまでを書いていきます。
次回に続く
自信をなくしていた。
菅生サーキットでも予選は補欠枠で結局、決勝は走れずじまい。
筑波では恐れていた裏ストレートか侵入する高速コーナーでの転倒。
エンジンの焼き付きが原因だった。再び右手部骨折。
2回目の鈴鹿選手権ではエントリーすら忘れていた。
他にも西仙台サーキットでも予選落ち等、散々なシーズンであった。
年齢も28歳を過ぎて遊びでレースを続けられる年齢ではなくなっていたし
そろそろ次の人生を考えなければいけない時期がきていた。
この頃、人材派遣で入っていた会社の仕事が、派遣を辞めて個人契約の
形になり個人事業者として仕事も楽しくなっていた事もあり引退を決意した。
次回からは個人事業から会社を立ち上げるまでを書いていきます。
次回に続く