また0歳になった。4回目の0歳。新しい職場の下見をした。きれいな建物で、いわゆる東京の(ある意味)ど真ん中のオフィス。なんだか実感がわかないし、机をどこに置くとか、棚をどうするとか考えているうちに、ますます現実感が乖離していく。私はなぜここにいるんだろう? いろんな意味で遠いところにきてしまった。お昼は学食で一人でうどんをすすったが、家に帰ったら思わぬサプライズプレゼントが届いていた。ありがとう。
映画キングスマンの1、2をU-NEXTで鑑賞。広告の雰囲気から自分の苦手なマーベル系かと思っていたが、超能力や超人は出てこなかった。でもほとんど魔法に近いスパイ道具がたくさん出てくるし、登場人物の身体能力は人間をやめている。あと、人が簡単に、バンバン死ぬ。いかにもレギュラーぽい、大物のキャラクターがあっさり中盤とか、なんなら序盤とかで死ぬので気が抜けない。ガンツや進撃の巨人みたいだ。人の死がお祭りになっている。
快活クラブに出向いて、弐瓶勉の人形の国を最終巻まで読んだ。もともと近所のTSUTAYAで1冊ずつ、新刊が出るたびに借りて読んでいたが、TSUTAYAが閉店してしまったので読めなくなった。快活クラブの本棚に9巻まで出ているのを見つけ、ああ、読まなきゃ読まなきゃ、どこまで読んだっけ・・・確か6巻くらいかな?と、いそいそと7〜9巻を抜き出しスペースに篭って読み出した。この作品を知っておられる方は既にご存知かと思うのでネタバレするが、9巻の途中で突然主人公の仲間が、いかにも死亡フラグとしか考えられないようなセリフを言い出した。ものすごく嫌な予感がしてページをめくったら、案の定あっさり体が溶けていた。(この漫画は、頭を潰されたら体が溶けて死ぬ。それ以外の部位の負傷なら、なんとかなる)ええ? ここで? と戸惑っているうちにもう一人の仲間が特攻をかけて、主人公に、敵もろとも自分を撃ち抜かせて死ぬ。まじで。まじなのか。そうなのか。何度も読み返すが、「実は生きていました〜」といって出てこれそうな伏線はどこにもない。そのくらいストレートに死んだ。そして次の1話で、名前のある登場人物の8割が死んだ。そして9巻のラスト1話の冒頭では、名前のない登場人物たちもほぼ全部死んだ。なんということでしょう。最後のページをめくると、完結していた。ツイッターで「人形の国」「打ち切り」で検索した結果、「打ち切りだ派」と「打ち切りじゃないよ派」が観測されたが、真相は謎のままである。
2,000年代か2,010年代ごろからか、いつ始まったかわからないが、モブキャラが必要以上に凄惨な死に方をしてゆく漫画が増えたのではなかろうか。調べたことはないが。しかし、もちろん私がりぼんで姫ちゃんのリボンやマーマレードボーイを読んでいた時代にもそういった漫画は存在していたんだろう。だから、単純に大人になって目にする機会が増えたのだろうか。
私が子供の頃に読んでいた漫画の中で圧倒的に残酷だったのは、手塚治虫、次が藤子不二雄だった。デフォルメされていた分、子供の持ち前の想像力が働いて、より恐ろしさを感じられた気がする。そういえば、子供の頃、家の二階になぜか一冊だけ、古い少年ジャンプが置いてあった。確か北斗の拳が連載されていて、その中のどの話なのか全く覚えていないのだが、敵キャラの顔が醜く膨れ上がって爆発するコマを読んで、ふるえあがった記憶がある。そして同時に、何度も何度もそのページを開けたり閉じたりしてチラチラみて、とんでもないものを見てしまったという背徳感にもふるえていた。そのふるえが「あかんやつ」だということだけは本能で察しており、わたしは誰にも言わなかった。
快活クラブに出向いて、弐瓶勉の人形の国を最終巻まで読んだ。もともと近所のTSUTAYAで1冊ずつ、新刊が出るたびに借りて読んでいたが、TSUTAYAが閉店してしまったので読めなくなった。快活クラブの本棚に9巻まで出ているのを見つけ、ああ、読まなきゃ読まなきゃ、どこまで読んだっけ・・・確か6巻くらいかな?と、いそいそと7〜9巻を抜き出しスペースに篭って読み出した。この作品を知っておられる方は既にご存知かと思うのでネタバレするが、9巻の途中で突然主人公の仲間が、いかにも死亡フラグとしか考えられないようなセリフを言い出した。ものすごく嫌な予感がしてページをめくったら、案の定あっさり体が溶けていた。(この漫画は、頭を潰されたら体が溶けて死ぬ。それ以外の部位の負傷なら、なんとかなる)ええ? ここで? と戸惑っているうちにもう一人の仲間が特攻をかけて、主人公に、敵もろとも自分を撃ち抜かせて死ぬ。まじで。まじなのか。そうなのか。何度も読み返すが、「実は生きていました〜」といって出てこれそうな伏線はどこにもない。そのくらいストレートに死んだ。そして次の1話で、名前のある登場人物の8割が死んだ。そして9巻のラスト1話の冒頭では、名前のない登場人物たちもほぼ全部死んだ。なんということでしょう。最後のページをめくると、完結していた。ツイッターで「人形の国」「打ち切り」で検索した結果、「打ち切りだ派」と「打ち切りじゃないよ派」が観測されたが、真相は謎のままである。
2,000年代か2,010年代ごろからか、いつ始まったかわからないが、モブキャラが必要以上に凄惨な死に方をしてゆく漫画が増えたのではなかろうか。調べたことはないが。しかし、もちろん私がりぼんで姫ちゃんのリボンやマーマレードボーイを読んでいた時代にもそういった漫画は存在していたんだろう。だから、単純に大人になって目にする機会が増えたのだろうか。
私が子供の頃に読んでいた漫画の中で圧倒的に残酷だったのは、手塚治虫、次が藤子不二雄だった。デフォルメされていた分、子供の持ち前の想像力が働いて、より恐ろしさを感じられた気がする。そういえば、子供の頃、家の二階になぜか一冊だけ、古い少年ジャンプが置いてあった。確か北斗の拳が連載されていて、その中のどの話なのか全く覚えていないのだが、敵キャラの顔が醜く膨れ上がって爆発するコマを読んで、ふるえあがった記憶がある。そして同時に、何度も何度もそのページを開けたり閉じたりしてチラチラみて、とんでもないものを見てしまったという背徳感にもふるえていた。そのふるえが「あかんやつ」だということだけは本能で察しており、わたしは誰にも言わなかった。
河原を散歩していると様々な人とすれ違う。
小学生の3人兄弟らしき子供たちが、土手の上と下の二手に分かれて、キャッチボールをしていた。一級河川なので、土手の幅も二、三十メートルある。私は、やれやれ届くわけないだろうに、小学生らしい無茶をするな、と大人の上から目線で様子を見ていたが、彼が腕を大きくふりかぶると、ボールは驚くほどきれいな放物線を描いて、ほとんど相手に届きそうな惜しいところに落ちた。これは遠投のテクニックじゃないか。いわゆる、あの遠投というやつ。野球部なら誰もが取得している、振りかぶった腕の振りをはるかに凌駕する不自然な高さの放物線を描く投球法。わたしは数秒前の己を恥じた。何事も自分の基準で考えてはいけない。
その後、河川敷を南の方に数百メートルほど歩いて戻ってくると、3兄弟は乾いた河原で両親らしき大人2人と5人で草野球をしていた。その向こうの、石畳でベンチがところどころ置いてある広場に、初老の男性が一人でやってきた。河の手前で立ち止まり、何やら手を合わせて拝むような姿勢をしているようにみえる。なんだろう、と思って少し近づいてみると、どうも歌が聞こえてくる。葬式で聞く御詠歌みたいだ。誰かのお弔いだろうか。ちょうど夕日が沈む時間で、空の端はオレンジ色に染まりかけていた。お弔いには最適な空間だ。いや、まだそうと決まったわけではないけど。こういうとき、決してわたしの原体験に御詠歌が深く刻み込まれているわけではないのに、なぜか懐かしい気持ちになるのはなぜだろう。先祖代々のDNAに刻み込まれていると言われた方がまだ納得できるのだが。などと考えているうちに、歌声がぴたっと止む。はっとして見やると、歌っていた人が踵を返し、余韻も残さずスタスタと帰ってゆくところだった。余韻にとらわれたのは私だけらしい。
小学生の3人兄弟らしき子供たちが、土手の上と下の二手に分かれて、キャッチボールをしていた。一級河川なので、土手の幅も二、三十メートルある。私は、やれやれ届くわけないだろうに、小学生らしい無茶をするな、と大人の上から目線で様子を見ていたが、彼が腕を大きくふりかぶると、ボールは驚くほどきれいな放物線を描いて、ほとんど相手に届きそうな惜しいところに落ちた。これは遠投のテクニックじゃないか。いわゆる、あの遠投というやつ。野球部なら誰もが取得している、振りかぶった腕の振りをはるかに凌駕する不自然な高さの放物線を描く投球法。わたしは数秒前の己を恥じた。何事も自分の基準で考えてはいけない。
その後、河川敷を南の方に数百メートルほど歩いて戻ってくると、3兄弟は乾いた河原で両親らしき大人2人と5人で草野球をしていた。その向こうの、石畳でベンチがところどころ置いてある広場に、初老の男性が一人でやってきた。河の手前で立ち止まり、何やら手を合わせて拝むような姿勢をしているようにみえる。なんだろう、と思って少し近づいてみると、どうも歌が聞こえてくる。葬式で聞く御詠歌みたいだ。誰かのお弔いだろうか。ちょうど夕日が沈む時間で、空の端はオレンジ色に染まりかけていた。お弔いには最適な空間だ。いや、まだそうと決まったわけではないけど。こういうとき、決してわたしの原体験に御詠歌が深く刻み込まれているわけではないのに、なぜか懐かしい気持ちになるのはなぜだろう。先祖代々のDNAに刻み込まれていると言われた方がまだ納得できるのだが。などと考えているうちに、歌声がぴたっと止む。はっとして見やると、歌っていた人が踵を返し、余韻も残さずスタスタと帰ってゆくところだった。余韻にとらわれたのは私だけらしい。
去年の秋から冬にかけて、謎の頭痛とめまい、焼けるような手の痺れ、食後の動悸、目の奥のひどい疲れ、肩こり、みたいな症状が交互に現れる時期があった。内科や脳神経外科なんかにもかかって検査をしてもらったけど原因不明で、そのうち本格的な冬の訪れと共に症状は落ち着き、あれはいわゆる自律神経失調症というやつだったのかな、と振り返っていたのだが、土曜日にふと気になって眼科に行ってみた。目の奥の疲れはもうなくなっていたのだが、あの頃以来視力が一段下がったような気がしていて、メガネの新調の相談くらいしておこうかなと思ったのだ。
行ってから知ったのだが、Google MAPの口コミが近所で一番高いからという安直な理由で選んだその病院は、初診の患者には一通りの眼科検診をやってくれる。検査の結果、メガネは今のもので問題なし、老眼も始まりかけてるけどまだ老眼鏡作るほどじゃない、まぁあと二、三年でがくっと進行するものだからそのときにメガネは変えれば?というくらいで、あとはドライアイがひどいので目薬差しなさいと。それで無事に終わるのかなと思いきや、先生が口調を変えて、「それで、ちょっとね、カヤングさん、気になることがあるんですよ」とカラフルな画像を見せられる。眼球を三次元で切った図で、それによると視神経の層が通常よりかなり薄くなっているらしい。「緑内障の所見なんですよ」ときて、頭が真っ白になる。友人が罹患しているので多少の知識はあった。いずれ失明する不治の病ではないか。明らかに落ち込む私に「そんな落ち込まなくていいですよ。まだ決まったわけじゃないんで、二週間以内に視野検査しましょう」ということで再検査になった。
帰り道、自分がいずれ失明する可能性があるのかと思うとまた落ちこんだ。だが、変な話で私の視神経はもうずっと前から薄かった。今朝、たまたまそれを知っただけで、現実そのものは何も変わっていない地続きだ。それに、人間老いていくのは止められないのに。
自分は子供の頃から変化が苦手で、身近な人が老いたり亡くなったりするのは嫌だし、自分がそうなるのはもっと嫌だったりする。心地よい環境にいるときは特に、今が一生、いつまでも続けば良いのに、と子供のように望む気持ちを捨てる事ができない。
自覚がないので、暇さえあれば片目ずつパチパチ閉じたり開けたりして、視野を確認してしまう。より薄い左目の右上の方に、何だか暗い線が入っているように感じてくる。もし緑内障だったら何か生活面で気をつけないといけないことはありますか、と先生に聞いたら(そのときの自分は絶望の表情をしていたと思う)カヤングさんはタバコも吸わないので、まぁストレスを溜めない事ですかね、と言われたので、こうやって気にしすぎたりするのは逆効果なんだろう。
それでもせめてもの精神的安らぎを得たいので、ネットサーフィンで著名人から一般人までの色んな人の闘病の記録を読んだりして、へぇあの人も、あらこの人も、と知るうちに、大騒ぎする自分がだいぶ滑稽に思えてきた。
「愛がなんだ」の今泉力哉監督の、自叙伝じゃないかと思える筆致の連載小説
でも出てきて、この主人公ほどに達観した気持ちになれれば良いなと思ったが、なかなか難しい。それでも少しは気持ちが落ち着いた。常に今日が一番若いのだ、という気持ちを忘れずにいたい。とやせ我慢で人に言ったら「ハピネス教の教祖みたい」と評された。
10階建てのマンションの6階に住んでいる。仕事帰り、マンションの入り口に母と子供3人の親子連れがいた。子供2人は一見して双子とわかる。つまり背丈と服装が全く同じで、よちよち歩き。至近距離で確認すると顔はあまり似ていなかった。この双子は前も見かけた事がある。そのときは片方が母親の胸元に抱かれ、片方は背負われていた。大きくなっている。と思わず口に出すと、長女らしき子と母に笑われた。向こうもこちらを覚えていた。わたしには子供がいないからわからないが、人間の子は想像よりも早く成長するのだなと感心した。
隠し部屋を査察して、粘っていたらとうとう図書館から督促状が届いた。しかも切手付きの葉書が舞い込んできたので、罪悪感がこの上ない。明日ブックポストに入れて本はAmazonで購入することにした。柴田元幸の解説に挙げられた、スティーブン•ミルハウザー、バリー•ユアグロー、レベッカ•ブラウンの3名については職場の図書館で探すだろう。
偏差値73の学校に在籍する少年の事件、放火や殺人にことごとく失敗したのは、どこかで無意識のブレーキがかかったおかげではないかと感じる。人は簡単に自分自身を見失うが、案外無意識は嘘をつかない。良心が杜撰さを引き寄せたと思いたい。受験に成功しなくてもいずれ人生は素晴らしいものになる、としたり顔で言うのも無責任な気がして、素晴らしいかどうかは本人が感じることだし、実際この世は救いようのないクソの可能性がある。どう頑張ってもいずれ老いて退場しなければならないのはやりきれない。あの双子だって百年後は死んでいるか、しわくちゃのお婆さんになっている。数年後のことを考え出したら辛くなる。だから今日と明日のことだけ考える。今晩のクリームシチューは珠玉の出来だった。