かやのなか

あれやこれやと考える

愛って

2015-09-04 22:05:58 | 日々のこと
ベチパーの人形の家を見た影響もあるんでしょうが、愛ってなんだろうと結構ながいこと考えてきて、一つ納得するものをみつけたので書いておきます。
愛とは「愛」という言葉で、器。非常に大きな空の器。身も蓋もない。
「愛にはいろんな形がある」とか「愛は人それぞれだから・・・」とよく言いますが、逆に、人がいろんな感情や行動原理、もっといえば神経の働き、脳みその刺激に対して「愛」という言葉を自分の都合で当てはめているにすぎない。

だから私はこの言葉に対してときどき拒否反応を覚える。
要は免罪符として使われることが多いからです。
ごく最近、200年前まで愛の意味はもっと限定的だったということですが、明治時代に外国からきたLoveに愛を当てはめて以降、なんというか非常に使い勝手の言葉になってしまったんでしょう。困ったらなんでも愛だもの。
愛は地球を救う?そんなことない、誠実な思考と地道な仕事の積み重ねが地球を救う。ニュースピーク。「愛」の多用は思考停止を促すかもしれない。
「愛」は容量用法を正しく守ってお使いください。どうしても使わねばならないときは国語辞典と漢和辞典と日本の歴史をテーブルに置いてから話し始めましょう。
「愛」を使わずに「愛」を語れ、なんてどっかの文系学部の教養授業のレポートでありそうですが。

行動原理

2015-09-04 07:02:56 | 日々のこと
ふと気がつく。子供の頃の自分の行動原理は「面白いことをしたい」でも「人を楽しませたい」でもなく、「やった方が面白い」だった。
中途半端にやって飽きて「これ面白くなーい」とか言ってうだうだしてる連中が嫌いで、ほとんどアホじゃないかと思っていた。
面白くなくしてるのはお前ら自身だ、とか面白さは自分から見つけるもんだ、とか思っていた。
まぁでもそんな風に考えると、自分自身もいざ面白くないときに「これ面白くない」といって簡単に捨てることができず、まだのめり込み方が足りないんじゃなかろうか、もっと探れば何かあるんじゃないか、なんて深入りしていったりして、フットワークは重くなり、なかなかそれを捨てられない闇に落ちたりするんだから、別に良い考え方というわけではない。

「人を楽しませたい」というのはとても良い考えだと思う。
しかし自分の根底にそれはない。わざわざ作らなければない。
この時点でもうダメなんじゃなかろうか。うんダメだ。なんてこった。

21世紀でもデモをやる

2015-09-02 21:57:25 | 日々のこと
安保反対の大規模なデモがどこそこであったらしいと聞いた。
また、左京のあたりを歩いていたらたまたま小規模のデモをみた。

それで、ひょっとしたら怒られる話かもしれないけど、安保云々はおいといて、なんで手段がデモなんだろうと疑問がわく。
え? ああ、今もまだデモなんだ。そう・・・なんか古くない? みたいな。
だってデモ=昭和のイメージが強い。
手にはiPadなんかもって、カシャカシャて写真とって、華麗なタッチパットさばきでツイッターにアップして、でも足元では地道な練り歩き。プラカードも、たぶんイラレやフォトショでめちゃデザインして、いいプリンタで刷って、でも足元は練り歩き。デモ。デモ・・・。

21世紀の最新鋭の文明の利器をこれでもかと使いながら、なんで20世紀の「デモ」という表現手段で〆るんだろう。
なんかもっと新しいやつないんだろうか。21世紀らしいもの。
ドラえもんの漫画で、仮に22世紀のセワシのお母さんが「きょうは春闘なのよ!」とか言ってあの未来の世界でプラカード掲げてデモしてたら、恐らくそのシーンはギャグとして描かれているはずだし読む側もギャグとして読むと思う。
だけど、いまは現実がそうなってる。

そもそもデモっていつから日本でやってんだ?と思って調べた。

(以下Wikipedia「デモ活動」より、項目「日本でのデモ」)
日本にデモンストレーションという言葉が紹介されたのは20世紀の初めだとされ、示威行為と訳された(現在も「集団示威運動」の語が法令に存在する)。それ以前には百姓一揆のようなデモと暴動がセットになった行動もあり、打ちこわしでは襲撃しても略奪まではしないなど、独自の掟がある暴動まで存在した。

なるほどそういえば一揆というものがあった。うーん一揆とデモって割と似てるよな。そこで「デモ」「一揆」でぐぐったら、やっぱり研究してる人がいたようで、
「一揆の原理 日本中世の一揆から現代のSNSまで」呉座勇一(2012年、洋泉社)ISBN 4800300193
という本がひっかかった。

中世の本だ。中世は面白いですよ。
教科書ではわりとテキトーな現実味のない書きかたをされている時代だけど研究者の間では着々と見直しを進める動きがあるようで、そういった意味でも中世は興味深くていいですよ。
ただ、この本を現時点で私はまだ読んでないので、そこはすみません。あまり細かい話ができない。
でも松岡先生がこの本を解説してた。興味のある方は、ぜひ以下のリンクから書評をお読みください。
松岡正剛の千夜千冊1532夜


確かにツイッターで「一致団結」し「心を一つに」して行政に噛み付いき、やたら炎上させる21世紀のネット民と中世の農民の思考回路はとても一致していて、どちらも「政治の根本からの革命は目指さず目先の現実的な利益の回収を追求する」という点でまるで民衆がタイムスリップしてきたみたいに同じですね。
いまの時点で乱暴に一言でまとめると、『21世紀は、中世』かもしれない。

しかし本当の中世と21世紀では「同心」する人々の目的が違う。
でも今日は考察しきれないのでまたこんど。