くまがい桂子 の  エッセイ  「木もれ日あびて」

「民報ゆうばり」に隔週で掲載している
エッセイ「木もれ日あびて」です。

本館 くまがい桂子のHPもよろしく!

りぼん・ぷろじぇくと 「戦争のつくりかた」あとがきより ~東京新聞特別報道部 田口 透

2004年08月31日 | Weblog
 今、いったい日本ではなにが起きているのでしょうか。
 まず、教育の周辺。君が代、日の丸問題では、監視役が学校に派遣され、君が代を歌わず起立しなかった先生が処分されました。

ばかばかしい話ですが、子どもたちの歌声の大きさをチェックするところまで出てきました。教育基本法の改正では、「愛国心」の強制も始まるでしょう。もちろん、すでに教育現場では、先取りの形で「心のノート」が「愛国心」を教えていますが。

 生活の周辺はどうでしょうか。治安、防犯という意味からの監視カメラの街角への設置、警察の合法的な盗聴の実施、テロ対策を名目とした全国の港のフェンスによる封鎖、コンビニからの有害図書排除という表現の自由への事実上の圧迫、政府からの有形無形のテレビ局などへの「圧力」など、実はじわりじわりと私たちの生活は息苦しくなっています。

 さらに、イラク戦争反対のビラを配っただけで逮捕され、七〇日以上拘束された人たちの事件からは「政府の都合の悪いことをするとどうなるか」という「事実」を突きつけられ、とても胸がざわつきました。日米安保を研究する大学の先生からこんな話を聞きました。

「もし、昨年三月に憲法九条がすでに改正され、集団的自衛権の行使が認められていたら、日米安保の観点からも間違いなく開戦当初から自衛隊を派遣するという英国と同じ道を歩んでいたはず。もう一度、九条改正とイラク戦争をつなげて考えてみてほしい。」

 他のメンバーからは「当時、日本が戦争に巻き込まれていたことに気づかなかった。戦争は突然やってきた。あとから思うと、確かに暮らしは厳しくなっていたけれど…。」

「戦争は戦争の顔をしていません。」「力めば力むほど、相手は聞いてくれない。知恵を使わなければならないし、あきらめずに、ボールを投げ続けていくしかない。」


教育基本法について…大江健三郎 ~「九条の会」記者会見より

2004年08月02日 | Weblog
 ある番組で中曽根元首相とお話ししたときに、最後に彼が「教育基本法を変えないといけない、日本人の教育であるから伝統というものを大切にしないといけない」と言ったんですね。

 ところが伝統というのは何を指すのか分からない。たとえば僕の人生の中での伝統というと、今の憲法というのが私の中の伝統となっていますが、中曽根さんは戦前・戦中の日本にファシズムが台頭していく過程のことを「伝統を作り出した時代」と言いたいのか、あるいは明治または明治以前なのか。

伝統についてはっきりと提示しないで、新しい教育基本法の中心に現代の憲法に対する否定として(使おうとしている)「愛国心」「伝統」という言葉も日本の国内に閉じこもる方向にあるものです。

教育基本法は憲法の前文と九条にもつながっています。憲法全体の非常に優れたエッセンスを取り出して、しかも分かりやすい言葉でみんなに伝えようとしている。世界に向かって開いていく教育というものが基本的な構想です。

日本人が世界に向かって開こうとしているわけです。
ところが、一般市民としては、例えばイラクの人質事件がありましたが、十八歳の青年と三十代の女性が、日本の一人の市民として、日本というものや時を越えて、向こうの個人と結びつく…。それは教育基本法が言うのと同じように、個人の働きにおいて世界の普遍というものにつながっていくということです。こういう個人の態度が六十年間のなかで新しく出来あがった伝統なのではないかと思います。

教育基本法を焦点にして、個人から普遍に向かっていく、国内から世界に開いていく教育、そういう日本人の生き方というものを、言葉ではっきり表現しながらやっていくという方向にしたいと思います。