ある晩のことだった。大文字屋の古い家の茶の間に、できあがったばかり胡桃豆腐(くるみどうふ)が4かんほど並んでいた。熱を冷ますためにラップも何もかけらていなかった。
できたての胡桃豆腐は、まだ湯気をたてていて、容器をつつけばぷるぷるふるえるほどやわらかそうだった。お得意さんに納めるため「かん」に入れられたできたての胡桃豆腐は、見ることしかできないものだった。
「かん」に入らなかった胡桃豆腐の余りを食べたことは何度もあったし、できたてを食べたことも一度ならずあったはずだが、なぜだかその時、目の前にあった胡桃豆腐に私は人差し指を差し入れ、一口掬って食べたのだ。
それから「こら」という声が聞こえてくるまでほとんど間はなかったと思う。
振り向くと父がいた。
押入れと仏壇の並ぶあたりにいた私に、父は炬燵の上にある蛍光灯の光を背にして迫ってきた。
大文字屋の古い夜の茶の間で、憲ちゃんが大きな黒い塊になって私に迫ってきた。
こわかった。
ふだん私は父におこられたことがなかった。
すもうをすればわざと負けてくれ、私をいい気分にさせた父だった。(そういえばこれも夕方の茶の間だった。)
見つかればおこられるとは分かっていた。それなのに食べてしまったのは、どこか「それほどおこられはしないだろう」という気持ちがあったからだろう。
その時の父はそれまでにないほど私におこった。何を言っていたかは覚えていないけれど、ふだんになく大きな太い声で、私をおこっていた。
これほど怒気をふくんだおこり方をされたことはそれまでなかった。たぶんこの時私は泣き出していただろう。
あまりの父の権幕に見かねたのか、母(喜久子)が割って入った。
といっても、悪いことをした私を擁護できるはずもなく、「なんだい、あんだ、いいがら」とか「子供のやったごどだから」といった意味のことを言いながら父をなだめ、父と私の間に体を入れて、怒る父から私を護るようにしていたと思う。
私が五、六歳のころのことだろうか。
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憲ちゃんにおこられたことは、たとえば、伊原津病院に車で配達に行く途中、女川街道を湊町から牧山の登り口大門崎に抜けたあたりで、助手席に乗っていた私がドアの閉まりが悪いと、走行中の車の助手席ドアを急に開けて閉め直し、その際、車道の端を走っていた自転車の老人に接触してしまった時である。
この時も物凄くおこられた。
ただし、危ないこと、人に迷惑をかけること、そういうことだから「おこる」というのは、よく分かった。
それに比べると、胡桃豆腐を一口掬って食べたことにあれほど父がおこったことについては、今ひとつ理解できなかった。
(だから、おこられている時に、なぜそんなにおこられるのかよくわからないというおどろきの気持ちもあって、それが顔に出て、余計に父をおこらせたような気もする。)
もちろん胡桃豆腐をつくることはそれなりの重労働であっただろうし、一日の仕事の締めくくりの胡桃豆腐つくりを終え、ほっと一息ついたところを、私の一口が台無しにした怒りがあるだろう。
ただ、それだけではないだろう。
そのときの私には分からない何かを教えるために父は私をおこったのだろう。
それはおそらく、「仕事」というものに対する気持ち、「仕事」を重んじる気持ち、のことだったのだと思う。
出来心だったとはいえ、大切な売り物の胡桃豆腐、丹精こめてつくった胡桃豆腐をダメにした私に対して、それは熱いストーブの鉄板に手を触れれば火傷をするのと同じように、あるいは、左右を確認せずに道路を横断すれば車にはねられてしまうのと同じように、してはいけないこと、生命にかかわるようなしてはいけないことなのだ、「仕事」というものはそういう「大事」なのだと、そう言いたかったのではないかと思う。
たしかにそれは、自分が仕事をするようになるまで、私には分からないことだった。
父にしては珍しく、有無を言わせぬ勢いで、私に迫ってきたこの夜のことを、私は忘れることができない。
付記1
後年母は、「んーん、どっちかがおこると、どっちかが助けてやっぺとするもんだ。不思議だなぁ。」と言っていた。
付記2
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なお旧アドレスも生きていますので、そちらで送っても届きます。
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