♪あのころき~みは~ バカだった~←今もだろ
コメントを寄せて下さるDr.kさんのブログを読んでいるうちに、自分の高校受験の頃を静かに想い出した。
それはかれこれ15年も前の1990年。自分の中ではそれほど時が経ってはいないと思っていても、1990年が15年も前の話かと思うと、ひと昔もふた昔も前のような気がする。1990年といえば、当時はバブル経済真っ最中。競馬は武豊人気で連日超満員の大盛況。山形新幹線がまだ開業しておらず、板谷峠を2、3両の客車があえぎながら登っていた頃。今なら「つばさ」で楽々登っていく。京成には1958年製の非冷房車3000形がまだ現役で走っていた頃。昨年引退した西武の潮崎が新人の頃だった。
あの頃は受験と同時に、この志望校に受かったら大学に行くのも楽だなとか、将来はこんな職業につきたいなとか、ほのかな夢とはいえ、これでも青春時代はあったのだ。外見は15年前と変わらなくても(笑)。
結局志望校には受からず、滑り止めの公立高校に行ったのだが、そういえばあの頃、勉強した記憶がない。そりゃあ勉強しなきゃ志望校なんて受かるわけないよなあ。生涯の中で勉強したといえば、5年前に国内旅行主任者試験を受けたとき。10月末のブログにも書いているのだけれど、あの時は30年の中で一番勉強した。高校受験はおろか、大学受験の時よりも。あれくらい大学受験の時に勉強しておけば、3流大学でも合格していただろう。真夏の新潟競馬場横のコンビニの軒下で問題集を開いて勉強した記憶は鮮烈に覚えている。5年前でもこれだけ覚えているのだから、当時どれだけ勉強していなかったかというのを如実に物語っている。
今でも想い出す。ほんの滑り止めのつもりで受けた私立高校が、その年から英語科増設に伴って偏差値を(←今でもあるのかな?)大幅に上げて不合格になったこと。公立高校の願書配布の日。雪の中をクラスの友達と震えながら出かけたこと。公立高校合格の日、高校近くの公衆電話(当然ながら当時携帯電話なんてあっても普及していなかった)から通っていた進学塾へ電話で報告したとき、志望校に受からなかったことや、何故かその時恋が成就しない予感が去来して、電話口で「素直に喜べないんです」と言ったこと。
あの頃は、自分ではいっちょまえとは思っていてもまだ青白かった自分。それは30になった今でも、青白いまま変わっていないのかもしれない。
あれから15年。中学校時代のクラスメイトも数名、このブログの読者になってくれたりしていたり、進学塾の友達も読んでくれている。普通ならありえないだろうが、進学塾の友達も、15年たった今でも情報交換をしている。この前も資格試験についてメールで聞いてみたり、持病のことで酒を飲みながら情報交換したりしている。
進学塾の合格祝賀パーティーの時、最後に一人の講師U氏が泣きながらこう言った。「中学時代の友人は大切だ。高校、大学と、つき合いはどんどん減っていく。今集まっている仲間を大切にしてくれ」。みんなそれを覚えているのかどうか、年2回、連絡が取れる者同士で集まって飲んでいる。だいたい集まれるときというのは盆暮れ正月ゴールデンウイークという、サービス業には絶対集まれないような日取りなので、持病も相まってなかなか顔を出すことはできないけれど、それでも連絡が取れるというのは、感謝すべきかもしれない。
昨年3月、中学3年の頃の同窓会が15年ぶりに行われた。当時若々しかった担任の女性教諭は15年経っても若々しく、みんなそれなりに出世して、ある者は家庭を持って子供の話に目を輝かせ、ある者は突然鬼籍に入って、みんなでお墓参りに行こうかという話も出ている。そいつとは何が楽しかったのか、掃除の度に二人で一生懸命床を雑巾で擦って磨いていたっけ。ある者は「俺の人生最大の分岐点だった」と、進路指導に当たった担任を恨みつつ、本人は後にJR貨物に入社するという、ある意味てめえの天職じゃねえかといえる人生を送っている。
流れ流れて空の下。
あの頃の思い出は、やっぱり、一生ものだなあ。
みんな、元気か?
俺は、とりあえず、ぼちぼちです。
コメントを寄せて下さるDr.kさんのブログを読んでいるうちに、自分の高校受験の頃を静かに想い出した。
それはかれこれ15年も前の1990年。自分の中ではそれほど時が経ってはいないと思っていても、1990年が15年も前の話かと思うと、ひと昔もふた昔も前のような気がする。1990年といえば、当時はバブル経済真っ最中。競馬は武豊人気で連日超満員の大盛況。山形新幹線がまだ開業しておらず、板谷峠を2、3両の客車があえぎながら登っていた頃。今なら「つばさ」で楽々登っていく。京成には1958年製の非冷房車3000形がまだ現役で走っていた頃。昨年引退した西武の潮崎が新人の頃だった。
あの頃は受験と同時に、この志望校に受かったら大学に行くのも楽だなとか、将来はこんな職業につきたいなとか、ほのかな夢とはいえ、これでも青春時代はあったのだ。外見は15年前と変わらなくても(笑)。
結局志望校には受からず、滑り止めの公立高校に行ったのだが、そういえばあの頃、勉強した記憶がない。そりゃあ勉強しなきゃ志望校なんて受かるわけないよなあ。生涯の中で勉強したといえば、5年前に国内旅行主任者試験を受けたとき。10月末のブログにも書いているのだけれど、あの時は30年の中で一番勉強した。高校受験はおろか、大学受験の時よりも。あれくらい大学受験の時に勉強しておけば、3流大学でも合格していただろう。真夏の新潟競馬場横のコンビニの軒下で問題集を開いて勉強した記憶は鮮烈に覚えている。5年前でもこれだけ覚えているのだから、当時どれだけ勉強していなかったかというのを如実に物語っている。
今でも想い出す。ほんの滑り止めのつもりで受けた私立高校が、その年から英語科増設に伴って偏差値を(←今でもあるのかな?)大幅に上げて不合格になったこと。公立高校の願書配布の日。雪の中をクラスの友達と震えながら出かけたこと。公立高校合格の日、高校近くの公衆電話(当然ながら当時携帯電話なんてあっても普及していなかった)から通っていた進学塾へ電話で報告したとき、志望校に受からなかったことや、何故かその時恋が成就しない予感が去来して、電話口で「素直に喜べないんです」と言ったこと。
あの頃は、自分ではいっちょまえとは思っていてもまだ青白かった自分。それは30になった今でも、青白いまま変わっていないのかもしれない。
あれから15年。中学校時代のクラスメイトも数名、このブログの読者になってくれたりしていたり、進学塾の友達も読んでくれている。普通ならありえないだろうが、進学塾の友達も、15年たった今でも情報交換をしている。この前も資格試験についてメールで聞いてみたり、持病のことで酒を飲みながら情報交換したりしている。
進学塾の合格祝賀パーティーの時、最後に一人の講師U氏が泣きながらこう言った。「中学時代の友人は大切だ。高校、大学と、つき合いはどんどん減っていく。今集まっている仲間を大切にしてくれ」。みんなそれを覚えているのかどうか、年2回、連絡が取れる者同士で集まって飲んでいる。だいたい集まれるときというのは盆暮れ正月ゴールデンウイークという、サービス業には絶対集まれないような日取りなので、持病も相まってなかなか顔を出すことはできないけれど、それでも連絡が取れるというのは、感謝すべきかもしれない。
昨年3月、中学3年の頃の同窓会が15年ぶりに行われた。当時若々しかった担任の女性教諭は15年経っても若々しく、みんなそれなりに出世して、ある者は家庭を持って子供の話に目を輝かせ、ある者は突然鬼籍に入って、みんなでお墓参りに行こうかという話も出ている。そいつとは何が楽しかったのか、掃除の度に二人で一生懸命床を雑巾で擦って磨いていたっけ。ある者は「俺の人生最大の分岐点だった」と、進路指導に当たった担任を恨みつつ、本人は後にJR貨物に入社するという、ある意味てめえの天職じゃねえかといえる人生を送っている。
流れ流れて空の下。
あの頃の思い出は、やっぱり、一生ものだなあ。
みんな、元気か?
俺は、とりあえず、ぼちぼちです。
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