5日6日続けて近所のはま寿司に行った。
今日から「旨ねた夏祭り」開催中。
直火焼きまぐろ(大葉にんにく風味)
5日に食べながら聴いた伊丹万作「戦争責任者の問題」
【朗読】戦争責任者の問題 伊丹万作
だまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。…
「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。
(引用終)
あとで「だまされていた」といつて平気でいられる無気力、無自覚、無反省、無責任な国民は、明らかな人災である戦争を、地震や津波の天災と一緒くたにして承伏し、その「知恵」によって思考停止で耐える。
今日6日に聴いた寺田寅彦「津浪と人間」
【朗読】津波と人間 寺田寅彦
その日その日を享楽して行って、一朝天災に襲われれば綺麗にあきらめる。そうして滅亡するか復興するかはただその時の偶然の運命に任せるということにする外はないという棄て鉢の哲学も可能である。
(引用終)
人災天災を問わず大惨事が終わる度に、かろうじて生き残った人々は、型通り「羹に懲りて膾を吹く」のオーバーリアクションをする。その自業自得(自作自演)で「喉元過ぎれば熱さ忘れる」に最速で弛緩して、内面的には1ミリたりとも向上せず平常運転に戻る。
両方とも
単に過去の話ではない。
遠くない未来にきっと
同様のことが起きるから
今、学ぶに値するとおもう。
「俺、俺のもの」を(幻想と知らず)
自明の大前提にしてる大多数の人間は
やられたらやりかえせ。
殺される前に殺せ。
という恐ろしい主張を、
昔も今も100パー正しいと確信し
全力で支持する。
実に
考えれば考えるだけ(考え深い人ほど)
彼彼女はそうせざるを得なくなる。
賢愚を問わず誰もが、
「俺」ほど確実な実感は他にない
絶対に絶対にない
と思いこんでるからだ。
「俺、俺のもの」の人には、
他の考え方は必定身につかない。
世間で数千年も崇められてきた
宗教や哲学という「物語」も、
すべて
「俺、俺のもの」を
自明の大前提にして、
紡ぎだされた妄想にすぎない。
日中~太平洋戦争で日本人310万人が残酷に殺された。
人間一人一人に隠された我欲こそが、この無残極まる結果を招いた真の原因であることは間違いない。
鉄玉を飲むような苦しみを味わって、戦後何十年か経っと「羹に懲りて膾を吹く」が、早くも「喉元過ぎれば」に劣化した。
人間の犯罪的な貪瞋痴の愚かさは、また同じ過ちを犯すだろう。
近頃、ブログでも、宗教系のyoutubeでも、無我を軽々しく扱う人が急増してる気がする。
「ああ無我でしょ。自我ってほんとは無いよって話。知ってますよ。わたしちゃんと理解してますよ」
と平気で言う人が出てきた。おれが若い頃ほとんどいなかったのに。彼らの共通の特徴は、できるだけ死と苦諦抜きで、インスタントの救いを説くことだ。死と苦諦は自他共にウケないから、脇に退けて人目に触れないようにしてる。この判断は、彼らにとって正しい。実際、世の大多数の人々は、苦諦を蛇蝎の如く嫌ってるからだ。まして「死の観察」などは。それを証するように現代社会では、死は能う限り周到に隠されてる。
これは忌忌しき事態だとおもう。
なぜなら、こういう人は、
無我はわかっているのに、
欲望むさぼりのある人になる
という、ある意味最悪のゾーンに落ちやすいからだ。
日本はこの前の戦争中、滅私奉公などの無我風言辞でエゴを隠し、責任を回避しながら、個々人の私利私欲を実現しようとする、醜怪な欺瞞が国中ではびこった。
今、この悪夢が理論武装したバージョンアップ版でよみがえる可能性がある。
犬が自分の吐いたものに戻るように
愚か者は自分の愚かさを繰り返す。
(聖書 箴言26章11節)
今や、大組織のトップ意思決定者でさえ、ポジショントークしかせず、それの何がいけないのかも理解できなくなってる。
その、きれいごとのおとぎ話に田吾作どもがのせられ調子こいて暴走して戦争をおっぱじめる。
この前の悲惨極まる敗戦を招くまでのパターンの拡大相似形をそっくりなぞることになる。
今度やったら死者は310万人どころではなくなる。
(My Favorite Songs)
Doobie Brothers - Long Train Running HD (Live)