ブッダが褒める精進 戒経(増支部4集)を読む|ゆるねこ仏教オンライン講座29(17 Oct 2023) - YouTube
(ゆるねこ×ブッダの言葉)
行住坐臥に気づきを絶やさない人が
いつも精進していると言われるのです。
(戒経 増支部 4-12)
[講義メモ]
仏教は自己観察の教えだと、まとめることができる…
常に気づきを絶やさないってことを実践する…
一言で言ったら「気づき」
動画概要欄より一部引用させていただきます。
01:31 ブッダが褒める精進 戒経(増支部4集)を読む
Sīlasuttaṃ 戒経(増支部 AN4-12)
https://komyojikyozo.web.fc2.com/an/a...
Yataṃ care yataṃ tiṭṭhe Yataṃ acche yataṃ saye
注意しながら歩み、注意しながら立ち、
注意しながら坐り、注意しながら横たわり、
Yataṃ samiñjaye bhikkhu Yatamenaṃ pasāraye
注意しながら〔身体を〕曲げ、
注意しながらそれを伸ばす比丘。
(中略)
Satataṃ pahitattoti Āhu bhikkhuṃ tathāvidhaṃ
そのような種類の比丘を、
〈常に自分で努力した者〉と、人(賢者)は言う。
(和訳:光明寺経蔵 一部改訳)
(引用終)
[感想]
(ブッダのことば スッタニパータ1035 中村 元訳)より引用させて頂きます。
世の中におけるあらゆる煩悩の流れをせき止めるものは、
気をつけることである。
(引用終。強調は私です)
これは、ブッダでなければ
決して言えない言葉だ。
こんなにも深い意味を持たせた「気をつける」という言葉を、他の誰からも聞くことはない。
これほど明晰で単純で深遠な真実は、ブッダの導きなしに誰も理解できない。
それどころか、ブッダ以前には、この真理の存在にすら誰も気づけなかった。
気をつけることだけが、あらゆる煩悩の流れを防ぎ止める力がある。
ブッダの言う「気をつける」とは、そのような意味のものだ。
この重要な「気をつける」を、ブッダは四十五年間の伝道中、正念相続と呼び、不断の自覚と呼び、その他「観察」「不放逸」「不忘念」「精進」「今を生きよ」「ヴィパッサナー」様々に言葉を尽くして説き続けた。
比丘等よ、比丘は正念にして自覚してあるべし。
…
比丘が自覚してあるとは何ぞや。
比丘等よ、比丘が出づるにも入るにも自覚を為してあり、前を見るにも後ろを見るにも自覚を為してあり、身を屈するにも伸ばすにも自覚を為してあり、衣鉢を取るにも、自覚を為してあり、食し、飲み、咀み、味ふにも自覚を為してあり、行き、止り、坐り、眠り、覚め、語り、黙してあるにも自覚を為してあり。
これ比丘等よ、比丘が自覚してあるなり。比丘等よ、比丘は正念にして自覚してあるべし。
(仏教聖典 阿含経 仏伝2、1-13より引用させて頂きました)
不断の自覚。
行住坐臥、目覚めてるかぎり、常に「気づき」を失わず気をつけてること。
これがブッダの教えの中心にある。
正念についても説かれてる。
比丘等よ、比丘が正念にあるとは何ぞや。
ここに、比丘等よ、比丘は身に就きて身を観察し、熱心に自覚し、正念ありて世俗の貧欲と憂悲とを調伏して住す。受に就きて…乃至…心に就きて…乃至…法に就きて法を観察し、熱心に自覚し、正念ありて世俗の貧欲と憂悲とを調伏して住す。
これ比丘等よ、比丘が正念にてあるなり。
(同。強調は私です)
これって、脳を一瞬たりとも遊ばせるなってことだ。
われわれは、あれこれ妄想してる時、脳が「働いてる」と勘違いしてる。
そうではない。
妄想してる間、気づき、正念、自覚が失われてる。
脳はやるべき仕事をサボって遊んでるんだ。
いつも妄想遊びで疲れてて、やるべきことができなくなってる。
ブッダは、
気づき、正念、自覚に放逸の人は、死人に等しい
とはっきり言ってる。
(【真理のことば】ダンマパダ21 中村 元訳)より引用させて頂きます。
つとめ励むのは不死の境地である。怠りなまけるのは死の境涯である。つとめ励む人々は死ぬことが無い。怠りなまける人々は、死者のごとくである。
(同 22)より引用させて頂きます。
このことをはっきりと知って、つとめはげみを能く知る人々は、つとめはげみを喜び、聖者たちの境地をたのしむ。
(引用終。強調は私です)
「気づき」が抜け落ちれば、その時の自分は死ぬ。気づきを保持すればその間だけ正に生きてる。
「気づき」だけが真実の本物の自分だという発見!
ブッダが「死者のごとくである」と断じたのは正に気づきのない人間の状態のことを云ってる。真実の本物の自分がいない抜け殻状態だから当然死人に等しい。
ヴィパッサナー実践の成就には、片時でも気づきなしでボーッとするのは死に匹敵する恐ろしいことだという切実な感覚を養うことが必要だ。
このことをはっきりと知って
とは、そういう意味だとおもう。
そして気づきを安定して保持する絶え間ない努力を喜びたのしむ境地に至ればヴィパッサナーを成就したといえる。いまだこの境地に程遠い残念なおれだが。
ブッダの遺言「怠るな」は、
サティを怠るな
という意味だ。
「今ここ(瞬間の現在)」に気づき続けよ
という端的な指示だ。
ヴィパッサナー実践の持続には特別な活力が絶対必要だ。これなしでは3分続けるのさえ不可能だ。
この特別な活力が生まれつき備わってる人は稀だが、そうでない大多数の人々も苦聖諦を学ぶと得ることができる。
だから、瞑想者は、最初、漠然と瞑想するより、自身に起こってる四苦八苦という具体的な事実に、完全に厭気がさすまで、はっきり気づくことを最優先すべきだ。
「不放逸」についてスマナサーラ長老の明解な説法があります。…ブッダ独自の用語「不放逸」は、日々の仕事を一生懸命やる事ではない。不断のサティのことだと。
→マーヤーデーヴィー精舎関西定例瞑想会「Q不放逸ということば」 (左のリンクをクリックorダウンロード。15分ほどの説法が聴けます)
サティ
「瞬間の現在(今・ここ)」に気づくこと。
ヴィパッサナー実践
「瞬間の現在」に気づき続けること。
1 サティの実践は、なにかをやりながら同時にそれを意識でトレースするダブルタスク作業だ。
2 人間の脳は、ダブルタスクではない(一度に二つのことを同時にできない)
3 コンピュータは、1個のCPUでも、1秒を非常に細かく分割して二つの作業を交互にすばやく処理することでダブルタクスを実現してる。
サティの実践は、このCPU的ダブルタスク処理回路を脳の中に作り上げる一大事業だとおもう。⇒※
余計なことを考えず(上に書いたことも余計だ)毎日1秒1秒ただサティを根気よく続けていれば、やがて時が来て自然にこの回路が完成するのだとおもう。
ダブルタスク、マルチタスク脳になることが目的ではない。脳などしょせん腐って溶けてしまう肉に過ぎないからだ。解脱の道「常に即今只今に生きる」ために、この回路が必要なのだとおもう。
※ この一文を書いた十数年後に、アビダンマの講義を聞いて、脳はもともと五感入力を1刹那(1/75秒)ごとに交互にすばやく切り替え処理して日常的に見かけ上のマルチタクスをとっくに実現してると学んだ。
つまりマルチタスク処理回路は既にあるので、あと必要なのは、この既存回路がサティで安定して動作する神経配線の増強だけだということになる。これをヴィパッサナーが実現する。
(まあこれも余計な話で)毎日毎秒毎刹那、ただサティを根気よく続けていけばいいだけだ。
(My Favorite Songs)