佐々木閑 仏教講義 6「阿含経の教え 2,その28」(「仏教哲学の世界観」第9シリーズ) - YouTube
[感想]
(ブッダのことば )
あとで後悔して、泣き叫ぶような行いは悪行である。
後悔することがなく、喜びを感じるような行いが善行である。
悪の定義、善の定義です。
人間は、思うさま良いことも悪いこともなし得る。
しかし 究極の正義は一瞬たりとも空しくなることがない。
いかなる法律や道徳よりも、厳密で正確無比の
自業自得果の法則
があるからだ。
だから、
自分の益になると分かっていることをせよ。
「善をせよ」という強い勧めです。
ところがです。
大多数の人々は、
生まれてから死ぬ直前まで、
感情も欲求も思考も丸ごと全部
自分が何を欲しているか知らず
ただひたすらに生き続けよう
とする盲目の意志
の奴隷なので、自分が死ぬという歴歴たる事実さえ分からない。
だから無常も分かるわけがない。分かった気でいるから死ぬまで分からない。ものごころつく頃には自分の理性さえほぼほぼ欲の下僕になりさがり、夢中で苦をむさぼっている。
自業自得とはいえ、かわいそうなのは、こんな我々凡夫ですよ。
愚か者は、まるで自分自身が仇であるかのようにふるまい、悪い行いを為して、その報いで苦しむ。
厳密で正確無比の自業自得果の法則があるから、当然そういう仕儀に立ち至りますわな。
無知により、悪を悪じゃないと思い込んでいたり、 これは悪だが報いなどないと自分勝手に強く信じても、悪の報いを軽減することは一切できない。
automaticに作用する自業自得果の法則に、無知による悪行が情状酌量される余地はない。
無知は人を助けず、破滅させる。
無知は懺悔を妨げるからだ。
佐々木先生がおっしゃっているように、
大枠だったら誰でもわかりますよ。
悪い心を治しましょうね。
そうすれば幸せになれますよ
って、そんなことは誰でも言える
と。
巷のお説教でよく聞く
私心を除けは金言ですが、守れたためしがない。
欲瞋害の凡夫に私心を除ける道理はないからです。
悪い心を治しましょうレベルの守れないスローガンの金言では意味がないんです。
それどころか、
滅私奉公などの無私風言辞でエゴを隠し、責任を回避しながら、個々人の私利私欲を実現しようとする旧来の醜い悪癖さえ、今だに露ほども捨てられてないじゃないの。
守れないことを強いると、上達どころか、陰険に下達していくのが、人間の変わらぬサガってことですよ。
だから、
守れない金言は無意味どころか、有害無益
です。
ブッダの教えはそうではない。
比類なく分析的です。
(詳しくは、動画を視聴してください)
悪い心が起きると(直でこれを治すのは不可能)
想⇒思⇒欲⇒悩⇒求の連鎖が生じます。
この苦の連鎖を断ち切ることは可能です。
じゃあ連鎖を断ち切るって、
現実にどうするんですか。
もうグダグダ言うのやめて、結論を言います。
人間に唯一可能な道は、
ブッダの説いた
四諦八正道の修練です。
四諦八正道の肝は
ヴィパッサナー実践
だとおもいます。
これは私心を除け的な守れない金言の類とは、明晰判明に違います。
※サティ
「瞬間の現在(今・ここ)」に気づくこと。
※ヴィパッサナー実践
「瞬間の現在」に気づき続けること。
繰り返しますが、
煩悩を消す仏道修行なしに私心を除けないので、ブッダの説いた四諦八正道の修練が可能な唯一の道であり、二つはないとおもいます。
(My Favorite Songs)