旅する骨董屋 喜八

チベット圏を中心にアンティークや古民芸・装飾品を旅をしながら売買する喜八の、世界の様々な物や人その文化を巡る旅のブログ。

野良猫の生き様

2023年11月20日 | 日記


自宅の周りには野良猫が多い。

どの猫にも片耳に去勢手術を行った跡があるので、
地元の行政が去勢を行っているのだろうが、
野良の猫が居なくなった事はない。

近所の人々は猫好きが多いので、
いくつかの家でご飯を与えているようだ。

天気の良い日には、
道の端や車庫の上でノンビリ過ごす猫達が見られる。

彼らは頭が良く、
人の顔や姿を覚え、
僕が自転車で通ると、
「なんだ、コイツか」という顔をして逃げずに目をすぼめる。

野良猫の世代交代は早いようで、
年老いた猫が長年生き延びる姿は見られなく、
早々に姿を消し、
若い猫が新たに姿を見せる。

若い猫の、
その毛色や毛の長さで「君、誰々の子孫だね」と感じさせる。

中には家猫でも日中は外で遊んで、
夕方になると家に自分で帰る猫もいるし、
その逆で野良猫でも、家猫と野良猫の間の生活をしている奴もいる。

首輪を付けたり付けなかったりする猫も居るが、
どうやら首輪に馴染めない猫も居るらしく、
ひきちがれた首輪が道に転がっている時も何度か見かけた。

生粋の野良の猫は、家には馴染めない。

自由に外を歩き、
自由に生きる。

ご飯はもらうが、必要以上に媚びはしない。

そして、
長生きもしない。

路上には色々なルール、
例えば、
お互いのテリトリーであったり、
雌猫の奪い合いや喧嘩などがあり、
冬の寒さや夏の暑さなどに加え、
病気や怪我が多い。

家猫と比べ、
野良猫の寿命は極端に短い、と何処かで耳にした。

自由とは過酷なのだ。

命とトレード・オフなのだ。

命あるうちに自由に振る舞い、
必要以上に老いる事はなく、
人知れず命を閉じる。

残酷でもあるが、
その生き様はクールで鮮やかだ。


人間はどうだろう。

自由に生きるってのは、
基本的には犠牲にするものは多い。

時には命が擦り切れる。

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先日、ある超大手企業で働く人と食事する機会があった。

同世代の彼は、
安定した収入がある。
それも日本での平均的収入よりも多いだろう。

「会社員は良いよ」と彼は言う。

もちろん、社内の人間関係とか様々なしがらみも多いだろうが、
ある一定のポジションを確保し、
現実的には毎月給料が支払われる。

日本でX(旧ツイッター)とかで日々論じられる社会的かつ政治的な話題が、
日々の生活に直結し決定的な出来事になるかと言えば、
基本的には、そうではない。

増税や物価高騰など、
それなりに感じるだろうが、
それによってすぐに生活が破綻する事ではない。


少し前に用事があり、
東京の品川、いわゆる社畜ロードと揶揄される道を
通勤時間帯に通った。

僕が用事があったのは品川駅からすぐ、
ピッシリと化粧をした整った顔立ちの受付嬢の居る近代的な高層ビルであった。

身なりの綺麗な会社員達が、
急ぎ足でエレベーターに向かっていた。

仕事が終わると、
彼ら彼女らは帰る家を有し、
愛すべき家族も居るかも知れない。

その小綺麗な会社員達の通うビルのすぐ下の喫茶店では、
くたびれた作業着を着た労働者が朝のコーヒーを飲んでいた。

どんな仕事をするにせよ、
様々な悩みを
どう捉えているのだろうか。

魂は擦り切れないだろうか。

それとも日々の人生を謳歌しているのだろうか。

または、その狭間を行ったり来たりし、
各々の悩みを持ち、
幸せとのバランスを考えているのだろうか。

分からない。

そんな事を思いながら、
約束の時間まで、
僕は彼らを眺めていた。

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僕はどうであろうか。

長い間、野良猫のような生活をしてきた気がする。

自由と言えば
かなり好き勝手に生きさせてもらっただろう。

時には家猫の生活もした。

従業員数、数百人規模の企業の広告部門のトップに居た事もある。
世田谷の一等地に住み、
収入面では不自由はなかった。

ただ、電車のホームで朝、満員電車に必死に乗り込む人々の姿を目にし、
それが自由とはとてもじゃないが思えなかった。

そして全てを手放し、
海外に戻った。

野良猫の生活に戻った。

僕は、家猫から野良猫になった類だろうか。
それとも、
野良猫と家猫の生き方を交互にしているのだろうか。

今は野良猫なのだろう。

だから感じるのです。

僕はいつまで生きられるのだろうか、と。

これだけ、
インドやネパール、チベットや様々な国の路上を見てきた。

その感覚は世間とはズレてしまっているだろう。

かなり昔、僕が好きだった、
海外在住の旅人のブログの筆者が、
日本に一時帰国した時の違和感と、孤独感を書いていたのを覚えている。

彼は路上の価値観に近い海外生活を長年していた人間であった。

病気で死期を感じ取った終盤は哀愁があった。

そして、彼は亡くなった。

本人の事は他人からは分からないが、
彼は幕引きも鮮やかだったと僕の印象には残った。

もちろん、
会社員や安定した暮らしも悩みや苦しみはある。
いや、
その苦しみは野良猫以上かも知れない。

ただ、
色々な理由や比較はあれど、
相対的に見た時、
基本的には、
野良猫、野良猫の様な生き方は、
長くは生きられないだろう。

限られた命で、
自由に輝き、
良くも悪くも
サッと幕引きをする。

その生き様

美しいんじゃないだろうか。

だからこそ、
その限られた人生で
何ができるか、
を僕は考えているのですばい。



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海外アンティーク・バイヤーの始め方

2023年10月31日 | 日記




海外アンティーク・バイヤーという職業の始め方です。

「あなたの様に旅しながら生きたい。どうすれば良いの?」と
よく聞かれます。


様々な職種・ビジネスの始め方は、
本やネットで溢れている昨今。

本当にやっている人間が書くアンティーク・バイヤーの始め方は、
あまり目にしない。

おおむね、日本で目にするのは、
日本の古物商の始め方とかでしょうね。

だってニッチな市場ですし、
そもそも、
プロとしてやっている人も日本では多くはないでしょう。

そして、
その手法は隠さないと真似されるから、
公にしないのは、
暗黙の了解なのです。


一応、僕は現役のバイヤーで
仕入れ業を生業としてます。

底辺で生きてますけど。


参考にならない内容です。


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さて、前置きが長くなったが、
始め方です。

絶望的な結論から言いましょう。


もし、本気でやるのであれば、
金がなければ始めない方が良い。


僕が見てきた人々、多くに共通する事でですが、
金を用意できない人は続けられません。

あまりにもキツすぎるからね。

最初に気力が尽きます。

その金額は最低でも100万円は必要です。

金がなく、生き残っているのは、
余程の変態か重度の旅中毒しか、僕は知りません。


今や海外渡航費は高額になっております。
円安でもあります。

海外のアンティーク業界、
チベット物でも、
嘘、裏切り、偽物、高額押し売りが蔓延しております。
むしろ、それが当たり前です。

簡単に、損せず、勝ち逃げできるほど
甘い世界ではござりません。


結論の続きを言いましょう。

もし、
あなたが生活の基盤が既にあるのであれば、
そう、
主婦であるとか、
本業があるとか、
趣味程度でやりたいとか、
もう働かなくても良い金銭環境であるとか、
であれば、
簡単に始められます。


究極論、
どこでも良いが、海外の何処かの国に適当に行き、
適当にアンティーク・ショップで買い物をして、
日本に持ち帰り、
SNSを開設したり、
HPを作ったり、
骨董市に出たり、
何がしかのネットで売ったりすれば、
それであなたは、もう海外アンティーク・バイヤーです。

今や、
多くの主婦がやっておりますさかい。

見極めの眼が必要?

お金が無い?

英語が話せない?

そんな心配は不要です。

旅行ついでに、
自分が良いと思った物を、
自分の予算に合わせて買いさえすれば良いのです。

海外旅行ができれば、
誰でも出来ます。

全予算、
10万円でも可能です。

ベトナムやタイなどアジアであれば、格安で行けます。

海外へ旅行できる費用と、
ちょっとした買い物ができるお金さえあれば良いのです。

売れるか
売れないか
そんなのは分かりません。

安心してください。

何が売れるのかなんて、
絶対的な事がわかれば、
みんな、すぐに金持ちです。

なんでもかんでも売れたバブル期とは今は違います。

皆、常に、
ギャンブルと商売、
自分の独りよがり、の狭間を
行ったり来たりしているのです。

続けられるか否かの、
その結果は、やってみなければ、
誰もわからないのです。


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では、僕の実体験を話します。

僕はこの仕事を5万円で始めました。

「ハァ?言ってる事が違うじゃねぇか。頭、大丈夫?」と
言われるでしょう。

自分で言うと批判されるだろうが、
僕は、変な事例なのです。

僕は海外旅行が以前から好きで、
この仕事を始める前から、海外を旅行してました。
その年数は居住も含めて10年になります。

そして、古い物もずっと前から好きで、
旅する毎に現地の骨董屋やマーケットなど、
色々見ておりました。

性格的に、
表通りの店ではなく、
奥へ奥へと行っておりました。

そして、ある時、
海外でド底辺の生活をしていた頃、
現地の骨董屋で全財産の半分の5万円で買い物をしました。

「仕入れて売る」と言う事を前提にしていた訳ではございません。
今でも、何故、それを買ったか分かりません。

ただ単に、薄暗い雑多な店内に居合わせた、
外国人中年女性バイヤーの
「あんた、コレ、買ってみなさい。儲かるわよ」と
言われた言葉と運命に流されただけなのです。

日本に戻り、ネットオークションで出品しました。

時は、まだ中国人が日本で爆買いしている最中でした。

アンティークに置いても例外ではなく、
ネットオークションに1000円スタートで出品した品は、
3品で45万円以上で一週間後に落札されました。

その金を持ち、すぐに再び海外へと旅立ちました。

嘘や作り話みたいな話ですが、
本当です。

そして、
現地で卸の店を見つけたり、
地方の村や僻地へ行ったり、
仕入れては帰国、
帰国しては渡航、
を凄まじい頻度で繰り返しました。

それは、超好景気で爆買いする中国人相手に販売をしていたので、
単に運が良かったのかもしれません。

裏話を言うと、
ネットオークションで中国人相手に売れ線の物を売り、金を作り、
骨董市で日本人相手に手頃な金額で珍しい物を売り、
お客を作っていきました。

初めのうちはチベット物だけでなく、
ミャンマーの物とかも売ってましたが、
そもそも僕はミャンマー現地で真贋色々見ていたので、
ありがたい事に、偽物氾濫の骨董市では、
コレクターの方々に珍しがられました。

もちろん、
古物業界に多く見られる様な、
個人で闇で商売していたのではなく、
古物免許も取得し、
始める前に事業登録をして、
確定申告も毎年欠かさず、
泣きながら黒字申告をしておりました。

やがて、顧客対象を中国人から日本人100%へと移していきました。

わずかな売り上げを重ねていきました。

生活は余裕がなく、
一日一食とか当たり前の生活は続きました。

今でも続いております。

全てを仕事に費やしました。

友人が幸せな家庭を築くのを傍目に、
色々なものを犠牲にしたり、
諦めました。

そして、
公的な金融機関の借入審査に合格し、
お金を借り、
予算を確保しました。

その借入も昨日、完済しました。


超高額品を扱う他の業者は、
どーやって初めの一個を買ったかは僕は分かりません。

僕が知る限り、
50年前には安値だったチベットのアンティーク。

その頃に始めてたら、
今は少なくとも70歳代にはなるでしょう。

もし今の業者が、
若い人または働き盛りの年齢であれば、
初めの予算はどこから持ってきたのか、
親などからなのか、
僕は他の人は知りません。

僕の場合は上述した様に、
積み重ねを繰り返し、
少しづつお客様の獲得と、
渡航・仕入れ費用の確保で予算を造りました。

買ってくれる方々には、本当に感謝しかありません。

また、
底辺バックパッカーだった経験も活き、
飛行機の乗り継ぎや経路、取得方法、
滞在場所の確保から食事、
荷物の送り方まで、
低予算で海外渡航をできる術も既に持っていました。

品物を買う交渉術も、
モロッコの強欲熾烈な業者から、
ロンドンやパリの品の良い業者、
ネパールの泥沼業者まで、
始める前の段階で、既に下地の経験はありました。

今では日本でもメジャーになった小さな骨董市とかの存在も、
かなり以前から知って、客として足を運んでいました。

僕が始める前は老人の嗜みと思われていた骨董市も、
今やすっかり若い人の間でも定着した様です。

当時、アパレル業界の友人に
「骨董市が面白いだよ」と言うと、
変な目で見られていましたが、
今の骨董市では、ファッション業界の人も多く見られます。

余談ですが、
僕がネットオークションで売っていた頃、
中国人をターゲットにしていたので、
中国語翻訳しやすい日本語で商品名や説明文を僕は書いていました。

中国人がオンラインの翻訳機能を使って商品を買っている事に、
当初から僕は気が付いていました。

だから日本語が少しおかしなタイトルを付けていました。

すぐに真似されましたけど。

当時はそんな汚い事も繰り返しましたよ。

僕みたいな立場の人間は、
金を作らなきゃ続けられませんからね。

「まずはバイトやって金作れば?」
と言われるでしょう。

今ではわかるのですが、
そんな考えでは、
すぐにバイト生活に戻ります。

もしくは、
安定した職種に就いて、
時間と気力は無くなります。

命懸けと言えば大袈裟になりますが、
明日、食事を食べられるか否かを、
考えなきゃいけない状況に追い込まなきゃ、
真剣になりません、僕の場合は。


もし真剣にやらないのであれば、
幾らでも方法はあります。

北京や上海でもチベット物は売ってますし、
タイのバンコクで中国少数民族の物も、
アフガン系の物も手に入ります。
わざわざ現地や奥地に行く必要はありません。

インドのニューデリーでも色々手に入ります。
旅の物語とか無視して商売重視であれば、
効率的に幾らでも実践できます。

僕は単にアホだから旅してるだけなのです。

イスタンブールでも卸を見つける必要はなく、
グランド・バザールの表通りの店で仕入れても、
十分商売としてやっていけるでしょう。

マニアックな国に行くのも手でしょうが、
近隣のアクセスの良い国でも、
実は手に入れるのは可能です。

英語がさっぱり通じない中国の貴州省の奥地ではなく、
タイのチェンマイでも同じ手の物は手に入れられます。

イギリスでもフランスでも同じ事でしょう。
地方ではなく、
中心地の著名なマーケットに行けば、
値段や希少性はともかく、
手に入れる事自体は可能です。

その仕入れ値で、商売が成立するか否かは分かりませんが。

でも、ここでの話は「始め方」でござる。

実は、
海外アンティーク・バイヤーってのは、
誰でも始められる商売なのです。


まずは海外へ行き、
適当に買ってくる。
そして、
ネットなどで売ってみる。

ただそれだけです。


初期費用だって、
飛行機代プラスアルファで、
最初は始めてみられます。


続けられるか否か、となると
また別の話になるだけです。

以上

全然、参考になりませんでしたね。



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旅で視る、生きる価値とは。

2023年10月06日 | 日記



生きる、と言う事に関してです。

生きる価値とか、
ヤベー事、言ってると思われるでしょう。

僕が気が向いた時にたまに書く、
死生観にも関係あるかな。

自己啓発系ではござらん。

興味ない方はスルーしてくだされ。


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先日、自転車でコケた。

豪快に吹っ飛んだよね。

胸を強打して、「あ、肋骨、イったわ」とすぐに感じた。

数日、放置してたのだが痛すぎて病院に行きました。

何年振りの病院だろうか。

町医者の整形外科に行ったのだが、
その病院の待合室は、老人で溢れかえっていた。

座る椅子が空いていないほどに混み合っていた。

「足が痛い」
「腰が悪い」
「どこそこが調子悪い」

老人達のそんな会話ばかりであった。

歩く事も話す事も、おぼつかない人も多かった。

正気を失った青白い顔色で肉体はほぼ朽ち、
スローモーションで病院内を歩く、その姿は、
言葉は悪いが、
生きる屍、ゾンビであった。

遊園地のショーではなく、ここに居たわ、リアル・ゾンビ。

それでもまだ、動いていたり、会話している人はマシで、
待合室の椅子で、燃え尽きているご老人も居た。

「あれ?天に召されました?」と思わずにいられない、その風貌。

超高齢化社会である日本の縮図を見た気がした。

これが日本全国、とてつもない人数が同じ状況であるならば、
今、日本はどうなってしまっているのだろうか。

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それなりに医療が発達した現代。

もしかすると、
それは、個々の肉体と気力の限界値、本来は死を迎えるべき年齢をも、
「長生きが良い」という名目のもとに越えてしまってはいないだろうか。

もちろん、
高齢でも元気で仕事や社会活動、趣味をしている方々も多くは居ると思う。

だが、一般的には体に大きな故障が出ると共に、
気力が衰えるだろう。
病気も多くなるかもしれない。

自分の人生の先が長く無いのは感覚的に知ると思う。
それを自分で認めるか認めないか、は別にして。

いずれにせよ、
その時には、人は死を少なからず意識するだろう。

高齢だけではなく、
命に関わる病気や事故、
心が本当に深淵に潜る時など以外は、
人は基本的に、
生より死の分量が意識下で大きくはならない、と思うのです。

では、
人は普段から生を意識しているかと言うと、
一般的には「生きている事」を本当の意味で毎日実感はしないだろう。
例え意識しても、
すぐに日常生活で忘れてしまうのでは無いだろうかしら。

生きる事は、
死ぬ事を意識すると感じられると、
僕は思うのです。

死を意識する時、
人は、生きる価値を何に見出すのであろう。

一日一日を大切に生きようとするのだろうか。

それとも、
生に何も価値を感じないのだろうか。

もしくは、
何も深くは考えないのだろうか。

分からぬ。

でも、僕は思う。

どんなに理由を並べた所で、
基本的に、
日本人の多くが捉える死や生は、
恵まれた環境下での死生観であろう。

もちろん、
僕の死生観だって、
恵まれた環境での価値観に過ぎない、と自覚しているのです。

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何年も前、インドでこんな事があった。

当時、僕はインドで長距離寝台列車に乗っていた。

インドの寝台列車に乗った事がある人ならば分かるかもしれないが、
基本は清潔とは言えない。
路線にもよるが、以前は、床やトイレは爆裂級の汚さの時もあった。

僕はその当時、長旅の途中であり、
信じられない程に汚れた身なりをしていたので、
あまり気にしなかったが、普通はその汚さに引くだろう。

・・・で、ある列車移動の日である。

外は雨が降っていて車内の床は泥まみれで、
床は染み付いた糞尿の匂いを強烈に発し、
乗客が床に捨てたゴミも散乱し、
地獄の様相を呈していた。

その時である。

両足の無い、まだ中年とも言えないインド人が、
泥だか糞尿まみれだかの汚い床を
手にボロ雑巾を持って掃除していたのだ。

両足が無いので這いつくばる様に、彼は掃除していた。

白い粗末な衣服も、もう洗いようが無いほどに汚れていた。

乗務員ではないのは明らかだ。

では、何のために?

そう、彼は労働の対価として、寄付を求めていたのだ。

ひたすら泥まみれになり、
ぎこちない優しい笑顔で、遠慮がちに出す手。

その光景は、僕の脳裏に張り付いて離れない。


インドでは喜捨を求める人は多い。

場所によっては、道端でそこら中で見かける。

リクシャ(三輪オートタクシー)に乗ってると、
デリー辺りでは、女装した男性達ヒジュラーがやってきて、
お金を渡さないと「自分勝手な奴!」とか毒付かれる事も珍しくはない。

幼い子供が芸を披露する場合や、
子供が粗末なボールペンを対価として売る時などもあるが、
基本的に大人は、ひたすら「金をくれ」とせがむ。

お金を受け取る以外に、特に、対価となる行為や、
一部を除き、感謝をしないのは、
宗教上の喜捨の意識、または環境での価値観もあるだろう。

ところが、
そのインドで、
その両足の無い男性は、
汚物に塗れる清掃という誰もが嫌がる労働をして、お金を求めていたのだ。

単なる喜捨を求めるのではなく、
自ら、能動的に行動(労働)をしていた。

しかも、両足が無いにもかかわらず、だ。

彼は必死に生きていた。

日本とは圧倒的に違う、絶望的な環境に居ながら、
彼は生を強く求めていた。

そこに僕には
「生きる価値」を鮮明に感じたのです。

それは僕の人生にとって、
忘れる事の出来ない光景の一つとなっている。

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前述した、日本の高齢者の姿を見ても、
満員電車で通勤するボロボロになった会社員を見ても、
そこから得られる死生観は乏しいだろう。

いくら自己啓発本の類を読んでも、
著名人の名言を聞いても、
答えを見つける事は難しいだろう。

だって、
そもそもが恵まれているのだ。

世界には圧倒的に「生」を求め、
必死に生きる人達が居る。

いや、もしかしたら日本にも居るかもしれないが、
それは分からない。
でも少なくとも、
インドの最下層・最貧層のハンディ・キャッパーと比べる事はできないだろう。

そこには、
死と生が常に隣り合わせであり、
生への渇望が
人間を人間としていると思うのです。

彼らにとって生きるとか死ぬとかは
僕には分からない。

しかし、
そこに何かを感じる事だけは出来るのです。

その上で、
死と生を考えていきたいと
思えるのでした。



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想う事

2023年09月25日 | 日記



もうダメか。
まだこれからか。

僕は、
常に自分に問うのです。

「もう此処までか」と頭によぎる時、
いつも僕は、
奇跡的に、
人に、
旅に、
助けられています。

僕の品物を買って頂く方々、
僕に興味を持って頂ける方々、
骨董市や、
旅先や、
ネットや、
様々な場所で、
声をかけて頂ける方々、
が居なければ、
僕は今頃、
どうなっていただろうか?

それを最近、強く感じる。

生きているかも怪しい。
本当に。

それが、
今でもまだ生きていて、
その上、
なんと、
旅も続けられていられる。

感謝の気持ちを、
どう表せば良いのだろうか。
どう応えれば良いのだろうか。
どう返せば良いのだろうか。
どう行動すれば良いのだろうか。

それらを日々考える。

喜んで頂く事、
僕はそれが嬉しい。

偽善だろとか、
嘘つき野郎だと、
言われようとも、
それが、
今の僕の本音なのです。

このクソな世の中、
腹の立つ事も多い。

僕は全ては愛せない。
全世界の平和が実現するとも思っちゃいない。

でも
少しぐらい、
感謝の気持ちを持つ事は出来る。

僕には、
「ありがとうございます」
今は、それしか言えない。
今は、それしか出来ない。


心から、
ありがとう。


それを言いたいだけでした。




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難民チベット人二世に会って想う事

2023年07月06日 | 日記



難民チベット人二世と、それに関わる話題です。

書くかどうか悩みました。

チベットに関して、
何も知らない、
何も分かっていない僕が、
書いて良い話題だろうかと。

あまりにも複雑で、
深い事情を含んだ事だからであって、
部外者であり、
チベットに関して日本人の僕が、
安易に発信して良いかどうかを考えていました。

そして、
難民に関する事は日本にとっても、
昨今、賛否両論、繊細な話題でもある。

ここでは、
日本での難民問題とは別の話です。
状況や歴史等が違いすぎるから。


書くのを決めた理由は、
ある時、チベット人の友人が、
「君がチベットの事を日本へ伝えているのは良い事だ」と
僕に言ってくれた事があるからです。

まぁ、お世辞でも嬉しいよね。

また、
現地へ実際に足を運んでいる人間として、
少なくとも、
チベットのアンティーク売買を通しては、
日本人で、そんなに多くの人数が居るとは思えない。

そこで、個人的な実体験と、
友人達からの会話からの事、
それに関して、
極力、事実に近づける事を心がけ書こうと思う。

もちろん、
僕が知れるのは、
彼ら彼女らの表面的な事に留まります。

本当に深い心は分からないのです。


※長文です。
興味がない方はスルーしてくだされ。


--------

ネパールのチベット人地区には、
チベット仏教に傾倒する欧米人が多く見られる。

なかにはチベット仏教そのものではなく、
単に、オリエンタルな価値観が好きなだけな人や
ファッション感覚で触れる人も多い。

チベット仏教を学ぶ欧米人も居るが、
その多くはチベット本土へ渡航した事がない人が殆どだ。

チベット本土に行くのは何かと面倒だからね。

ビザや許可証の問題、
交通インフラ、言葉や宿泊の問題もある。
一般の旅行者が気軽に行けるには情報も不足している。

実際に、僕が東チベットへの渡航で、
単独の欧米人旅行者に出会った回数はごく僅かで、
自治区内ラサであってもツアーとおぼしき団体を目にする位だ。

そこで、比較的容易に行けて、
滞在環境も良いネパールを選ぶのだろう。

ネパールのチベット人地区に居ると、
民族衣装を着たチベット人を多く見かけたり、
チベット語も目に入る上、
著名なチベット仏教寺院もあるので
「まるで、チベットですや〜ん」と思いがちだが、
チベットではない。

それは、現インド領ラダックやザンスカールやスピティも同様であるが、
ラダックやザンスカールは自分達をラダック人、ザンスカール人と自認している。
色々と例えられるが、正確にはチベットではない。
もちろん、ダラムサラもチベットではない。
(いずれの場所も、生粋のチベット人が居るのも事実だが)

因みに、
中国四川省の一部等の通称、東チベットをチベットとするか否かですが、
隔てるのは、チベット自治区内外という線引きに沿ったものであり、
チベット発行の地図では東チベットと呼ばれるカムやアムド等もチベット。
もっとも、チベットという国は今や国際上は無いし、
今や中国人(漢民族)と文化も人も混じり合っているが、
現地へ何度も行けば諸々感じる事はあるかもしれない。



・・・さて、話を戻すと、
ネパールでは、
チベット仏教とチベット人の生活に触れられる。

ポカラにはチベット難民キャンプも幾つかある。

その結果、
異文化への観光対象としてだけでチベットを捉える人も多い。
むしろそれが主だと思う。

良いとか
悪いとかは
僕は分からない。

でも、
僕らが接している多くのチベット人は、
祖国を失った難民・移民なのである。

単に同一民族が集っているだけではない要素があるのです。

しかし、
僕が知る限り、
現地のチベット人は本音を簡単には口に出さない。

彼らが外国人観光客をどういった目で見ているか、を。

そして、それは外国人観光客への思いと共に、
ネパール政府の在ネパールのチベット人に対する現状に対してもです。

あるチベット人の友人は、
「僕の人生に置いて、
チベット仏教に感化された沢山の欧米人に会った。もう知り合うのは十分だよ」と言う。

続けて彼は言う。

「チベット人は長い生涯をかけてチベット仏教を学んでいく。
でも、彼ら(外国人)は突然、学ぶのを辞めてしまう。
まるで飽きたかの様にね」と。

普段は朗らかな彼だが、
難民チベット人二世として生きてきて、
色々な事を見てきたのだろう。
彼を何年も前から知っているが、
初めて彼の本音を垣間見た気がしたのです。


前回の渡航時、
ある中国人の女性と出会った。

彼女はインドに滞在していて、
その流れでネパールに来たという。

彼女は観光業のビジネスを考えてるとの事だった。

彼女はチベットには行った事がないらしい。
チベットに関する知識や見解もほぼ無いと見て取れた。

彼女は言う。
「ダラムサラ(ダラムシャーラー)への中国人ツアーを考えているの」と。

僕は聞いた。
「中国人観光客をダラムサラへ?」
「ところで、なぜ、ダライ・ラマがダラムサラに住んでいるのか君は知っているの?」

彼女はハッとした表情を浮かべた。

質問の答えは知っていたらしい。

説明は不要だろうが、
(様々な見方や意見はあるだろうが)
現ダライ・ラマは大国から命を狙われ過酷な旅の後、
亡命した先が、インドのダラムサラ(正確にはマクロード・ガンジ)なのです。
チベットを追い出されてしまったのです。
そして多くのチベット人達も祖国を後にし、
最終的には国ごと無くなってしまった。

その亡命先である、そこへ、中国人観光客を送るビジネスだって?

もちろん、
お客となる人に知識や見解、
各々の意見や、
見方の選択肢を広める等の目的があったのならば、
ある種の深い意味があるかもしれないが
おそらく彼女は、
チベット人の感情など一切省き、
「金を目的とした商業的ビジネス」という観点で見ていたのだろう。

僕は何も言わなかった。

当たり前だが、
僕が何かを言える立場ではない。

彼女は英語を流暢に話すので、
それなりに知識層で頭も良い人なのであろう。

すぐに状況を理解した様だった。

僕だって、
仕事や旅を通しての、
様々な体験や、チベット人からの話、
チベット人の友人達が居なかったら、
実情を知る事は無かったであろう。
同じ目的の行為をしていてもおかしくはない。

そんな事が重なった滞在の日々のなか、
アメリカに住むチベット人とも仲良くなった。

彼の親はチベットからネパールへ逃れ、
息子である彼はネパールからアメリカへ渡った難民チベット人の二世だ。

カフェで偶然居合わせたのだが、
同世代という事もあり、意気投合して毎日会うようになった。

出会って数日は政治的な話題はしなかった。
それぞれの仕事や生活などを話し合った。

特に僕が興味を持ったのは、
アメリカでのチベット人コミュニティや生活、
アメリカ人との関係性などの話であった。

日本ではチベット人というと、
大自然の中での遊牧民的な素朴な生活や、
宗教観を強く思い浮かべるかもしれない。

それらも事実だが、
個人的には、
それが、日本人が期待するチベット人の姿という側面を感じてしまう。

もちろん、
それを悪いとは思わない。

現実にそういった生活や人生があるのは事実だし。

しかし、
現代では彼らの生活は変化している。
イメージと実情は異なる部分もある。

多くの外国人が日本へ期待する(見たいと思う)のは、
日本の伝統的な姿や風景であり、
アニメや漫画のオタク・カルチャーだろう。

それらは、日本全体として見た時、
大部分を占める要素ではない。

今や一般的には日本人は着物を着ないし、
現代的な家やマンションに住み、
一部を除いて、
大人になった忙しい社会人の多くはアニメを日常見ないだろう。
また、
日本は超ハイテクな国と思っている外国人も居るだろうが、
いまだにFAXとかが実用されてたりする。
想像と現実のギャップがある。

それと同じで、
実際には、
多くのチベット人、特に都市部の若者は今風である。

大型バイクに乗ったり、
タトゥーを入れたり、
欧米の音楽を趣向し、
現代的な価値観で生きている。

プロのカメラマンをしている彼の撮った素晴らしい写真の数々の中には、
BMWに乗る民族衣装を着た、アメリカに住むチベット人も映っていた。

祖国とは遥か離れた地で、
自国の伝統文化を残しつつ、
現代と融合したチベット人の姿を映した素晴らしい写真であった。

僕は、多くの日本人にも彼の写真を見て欲しい、と
本音で思ったのです。


ある日、僕らは酒を飲みに行った。

ビールを三杯飲んだ後、
彼は言う。

「チベットへ行くのが夢だ」と。

彼はアメリカのパスポート(正確には永住許可証の類かもしれないが詳細割愛)を
持っているが、
チベットには行けない。

正確に言うと、
行く事は可能だろうが、
到着後には彼の立場上、現実的なリスクを伴うからだと言う。
(名前で判別され身元や職業を調べられるとの事だった)

これは過剰な心配ではなく、事実であるだろう。

ネパールのチベット人地区で同宿だった若い中国人女性は、
チベットに関して知識や経験や興味を持っていて、
彼女(英語はネイティブ並に流暢、フレンドリーで面白い女性であった)は、
以前、中国に帰る時に空港で、
パスポートにダライ・ラマの写真を挟んであったのを見つかって、
別室行きだったそうだ。

東チベットの知人と現地の街中のカフェでお茶をしている時には、
ダライ・ラマという名前を口に出す事も躊躇していて、
「彼」と呼んでいた。

まるで、ハリー・ポッターのヴォルデモートと同じ扱いである。
名前を呼んですらいけない。

それが現実である。

また、チベット人同士であっても、
ダライ・ラマを信仰(様々な派があるが愛国主義側とあえて表現する)する人側と、
そうでない側との、仲が悪い関係がある事も以前から聞いている。
分断が起きていると思える。


ここまで話せば、もう十分かもしれない。


彼との飲みの場で、
色々な話や、
難民としてネパールに渡ったチベット人に起きた、
チベット人達とタマン族との争い(その話は壮絶で生々しかった)など、
彼の数奇な人生を聞いたのです。

それらは、
遠い昔の事ではなく、
自分の生い立ち上での出来事や、
自分の親の世代の話である。
数十年前の事なのです。

その本人たちが、自分のルーツや祖国と、
どう向き合っているかは、
日本人である僕には到底実感する事はできないが、
チベット人地区に来る観光客を見ていると、
僕にとって複雑な感情が出てくるのです。

深夜、飲んだ帰りに寄った仏塔の周りで、
人知れず五体投地で祈る人を見て色々と感じる事がある。

もっとも、
僕もその外国人観光客の一人であるのです。

しかも、
僕は、
何も知らないくせにチベットの古い物の売買を生業としているのです。

どんなに言い訳しても、
僕はチベット人ではないし、
商売だからと割り切れないほど、
現地の人達と会ってしまっている。

そして、
己の無知を自覚しているのです。

無知なのに、
チベット人でもないのに、
チベットの事を何も知らないのに、
勝手な発信や売買をしているのです。

この、金にまみれ、確信犯の嘘や噂話が溢れるアンティーク業界で、だ。

おぉ、なんてこった。

「どの面さげて発信や売買してるのか」と言われれば、
返す言葉もない。


その葛藤を抱えながらやっているのです。


僕にできる事は何だろうか。


そんな事を思うのでした。


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