名無しの教師の日誌

ある公立中学校教師の教育私論と日記です。

特別支援教育のコスト

2017-08-04 18:17:36 | 教育に関する私論
特別支援教育ってご存じですか?

知ってる、という方もいれば、なにそれ特殊教育じゃ無いの?って思われた方もいるでしょう。

我が国で特別支援教育という体制が導入されたのは、2007年です。なので、子育てをそれより前にされた方にとっては、聞き慣れない言葉でしょう。

今日は、その特別支援教育を、コストという観点で論じてみたいと思います。



我が国の教育システムを簡単にまず書きます。

我が国には、「学習指導要領」という標準化されたカリキュラムが用意されています。

これには、各学習課題について、その内容と教える大まかな時期が決められています。

そのため、現場教師の裁量で「この単元を教えるのをやめておこう」とか、「この内容は次年度に持ち越して、その前の単元をみっちり指導しよう」なんてのはあり得ません。
(何か災害等で授業時間が大きく失われた、とか、離島で複式学級が採用されている、などの場合は、その限りではありません)

また、授業を開始する前に子どもの学力を評価することは原則なく、教師は学習指導要領にのっとり一斉指導で授業を進めます。

評価は、指導後にテストという形で行われます。

そして、評価結果は子どもの努力の結果と見なされ、テストの成績が悪くても「できなかったところはしっかり復習しておくこと」と子どもの奮起を促すだけの場合が多いのです。

個々の特徴や学力によってカリキュラム側をアレンジすることは、基本はありません。

というか、できないです。その理由については、長くなるので、また機会があれば詳しく書きますが、簡単に書くと、そんなことをすべての児童生徒に対して丁寧にやっていたら、学習指導要領に示された「○年生はこれだけのことを学習しなさい」という内容が終われないのです。

で、その通常の学習指導要領下で学習が困難な子たちを、別枠で教育する、それが特殊教育です。

障害のある児童生徒は、その障害の程度によって、養護学級または養護学校で特殊教育を受けました。

要するに、以前は、「障害の無い子」「障害のある子」という二分があり、障害の無い子は普通教育を、障害のある子は特殊教育を受ける、というシステムだったのです。



ところが、大きな方向転換があり、特殊教育は特別支援教育に生まれ変わりました。

これが、名前が変わっただけとは大間違い、理念から実態まで異なる、大転換なのです。

特別支援教育を短く語るのは難しいですが、その主旨の1つは、「インクルージョン」だと思います。

障害の有無など、あらゆる個人差を超えて、すべての人たちが同じ社会で生活する環境づくりを目指すことを、「インクルージョン」と呼びます。

教育業界では、障害のある子どもも同じ教室でみんなと一緒に授業に参加することを「インクルージョン教育」と呼びます

特別支援教育の背景には、インクルージョン教育の実践を目指す思想があります。

旧来の特殊教育では、障害のある子どもを分離して教育することを主としていたのに対し、特別支援教育では、障害のある子どもも可能な限り、通常の教室で、他の子どもと共に学ぶことを目指しているのです。

すでに、根本が違うと言うことがおわかりいただけたでしょうか。



この理念に反論するつもりはありませんが、実行は結構大変なことなのですよ。

例えば、足に障害があり、車いすの生徒がいるとしましょう。

体育の授業中、その生徒に対して

「平等な参加なのだから、みんなと一緒に同じことをしましょう。みんなと一緒に、50m走を頑張って走ってください」

などと指導するのはナンセンスなのは、説明するまでもありませんよね。

そのため、他の生徒が短距離走を行う傍らで、その子にも可能な運動プログラムを用意する必要があります

そして、それ以外の授業の時には、その子の障害が影響しないような授業内容であれば、一緒に同一の内容を受けさせるのです。

これは、身体的な障害を持つ子の場合だけではありません

例えば、理科や数学などの学習能力には支障が無いにもかかわらず、文字を読む能力だけが特異的に障害されているタイプの学習障害の子どもがいたとしましょう。

この子にインクルージョンな教育を受けさせるには、教科書を誰かに音読してもらい、それを聞いて理解し、問題を解かせれば良いのです。

発想としては、車いすの人のために階段の隣にスロープを用意するのと同じだと思ってもらえれば良いかもしれません。

このような配慮のことを、我々の業界用語で「合理的配慮」と呼びます。



さて、ここからが私論になるのですが

学習指導要領を根底とした「決められたカリキュラムを一斉指導で教える」という我が国の教育システムの根本は、変わっていません。

それをそのままに、「必要に応じて、個別ニーズにもとづき、個別指導計画を立て、カリキュラムを改変する」という特別支援教育の価値観が付加されたので、現場としては大変です。

しかも、昔であれば「障害のある児童生徒の教育は、養護学級または養護学校の仕事」と切り離されていましたが

先ほども申し上げましたように、特別支援教育は、普通学級・特別支援学級・特別支援学校すべてで行われることです。

そのため、今日では、特別支援教育は、すべての教師に必須の業務です。

ちなみに、文科省が2012年に行った全国調査も紹介せざるを得ません。

小中学校の通常学級に在籍する子どものうち、何らかの障害が疑われ、特別な配慮を要するものの割合は6.5%だったそうです。35人学級であれば2人程度いる計算ですね。

現場にいる自分としては、「そんなもんだろうなぁ」と感じられる、妥当な数字です。

自分が前年度担任した32人学級では、アスペルガーの診断を受けている生徒が2人いました。

今年度担任している学級は、そのような生徒はおりません。周囲からは「奇跡的な少なさだ」と言われます。

「障害のある子どもの教育は養護学級、養護学校の先生の仕事」という時代は、終わったのです。



長くなってしまいましたが、まとめると、現場の教師は

・いままでの一斉指導の基本スタイルは残しながら、児童生徒の個別ニーズに応じてカリキュラムをアレンジすることも求められるようになった。
・そのカリキュラムを実践するために、様々な「合理的配慮」を考え、実行する必要が生じた。
・以上の2点は、すべての教師に求められる。


のです。

ここで、今日の記事のタイトルにある、「コスト」の話にやっとなります。

合理的配慮には、時間も人手もお金もかかります。

それらをすべてひっくるめて、ここでは「コスト」と呼ぶことにします。

先ほどの述べた、「理科や数学などの学習能力には支障が無いにもかかわらず、文字を読む能力だけが特異的に障害されているタイプの学習障害の子ども」をまた例に挙げましょう。

この子にちゃんとした教育を通常の教室でみんなと一緒に受けさせようと思ったら、次のようなコストが必要です。

・合理的配慮について検討する時間
誰かに教科書を読んでもらうという配慮が本当にベストかどうかを検討する必要があります。その子だけの問題では無く、同じ教室で授業を受ける子たちが「なんであの子だけ」と不平等感を感じることがあれば、配慮される側も不利益を被りますし、学級経営上すこぶるまずいことになります。もちろん、これはたとえ話ですから、児童生徒や学級の実態によっては、この配慮が適切で無い場合も考えられます。
それに、誰に読んでもらうと良いでしょうか?これも難しい問題です。教師の人数は生徒の人数によって決まります。「障害のある生徒が多い学校はその分教師も多く配置される」なんて場合はあまりありません。
(障害の程度が重い子どもがいる場合は、正規教員とは別枠で、市町村の予算で、介助員や有期雇用の教師が配置される場合はあります。)

・合理的配慮を実行する人手
じゃあ、誰かに代わりに読んでもらうというのがベストだと結論したら、読む人を確保する必要があります。先ほど述べたように、介助員が配置されれば、問題ありませんが、かならず配置されるものではありません。そうなった場合、元からいる教員がやるか、学級の児童または生徒に読んでもらうという手立てが考えられます。
元からいる教員がやるのがベストでしょうが、最近よく言われる多忙化の一因になるでしょう。もう一つの手立てである、「○○ちゃんと仲が良い××ちゃんにやってもらおう」は、私としては、避けるべき手法だと思います。友情を理由に児童生徒を授業の装置として利用している感じがして、私はいやです。(でもやってる人も多いと思うけど。)

・合理的配慮を実行するお金
学校はお金がありません。一部の新設校を除いて、どの学校の校舎もぼろいでしょ?授業参観に行って、トイレが古くて汚いな、と思うことあるでしょ?そもそもこんなに温暖化してるのにエアコンも無いでしょう?合理的配慮のために、何か新しい教材を買おう、って結構大変なことなのです。もちろん、学校予算とは別枠で、保護者や行政がお金を出してくれれば解決しますから、これは大きなコスト要因では無いですけれども。



特別支援教育に反対するつもりは全くありません。

むしろ、ちゃんとやっていくべきことだと思います。

でもそれをしっかりと実行に移そうと思ったら、人手や予算を増やすべきだと私は思うのですが、ほとんどありません

主にあるのは「力量アップのための研修」と「現場への奮励」 です。

民間だったら、事業を拡大しようと思ったら、そのための部署を新設し、場合によっては新たな人材を登用するでしょ?

社長が
「我が社は新事業に挑戦するが、その事業には諸君らの技量向上と奮闘で望んでもらいたい。新部署の設立や新規採用は行わない!」

と言い出したら、何言ってるのこいつ?って思うでしょ?

人員拡大をやらずに、新しくて大きな理念を打ち立て、今までより内容の濃い教育を実行しようとするから、訳がわからなくなる

学校に求める業務を濃くするなら、人手と予算を増やすべきですが、それをやらないのが当たり前なのが、この国の公教育です。

それどころか、非正規雇用の教師の割合は増えていますか、逆じゃ無いかと言いたくなります。



前も言ったと思いますけど、結局金です。

教育をよくしようと、文科省が色々なことを発案・提案してくれるのは良いんだけど

財務省が金を出し渋るから、現状のスタッフのまま、新たなことをやれやれという話になり、どんどんおかしくなる。


だから、小学校の英語教育、プログラミング教育、アクティブラーニングの推進等々、全部失敗すると私は思いますよ。



私の記事を読んで、もし少しでも共感してくださる方がいらっしゃれば、次回の選挙の際に、学校にもっとお金を割きますと言っている候補者に、一票入れてください。

長くなってしまいました。最後まで読んでくださった方がいれば、ありがとうございました。


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