非情の激流児童の列襲う!
教職員、最終判断を誤る!
<止まった刻 検証・大川小事故>
河北新報/
東日本大震災で
石巻市大川小は
児童・教職員計84人が
津波の犠牲となった!
<止まった刻 検証・大川小事故>第5部 漆黒(1)非情の激流 児童の列襲う | 河北新報オンラインニュース(記事は下記に)
<止まった刻 検証・大川小事故>教職員 最終判断を誤る | 河北新報オンラインニュース (記事は下記に)
<止まった刻 検証・大川小事故>第5部 漆黒(2完)凍える一夜 悪夢か現実か | 河北新報オンラインニュース(記事は下記に)
<止まった刻 検証・大川小事故>上に、上に水中でもがく | 河北新報オンラインニュース(記事は下記に)
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<止まった刻 検証・大川小事故>第5部 漆黒(1)非情の激流 児童の列襲う | 河北新報オンラインニュース
<止まった刻 検証・大川小事故>第5部 漆黒(1)非情の激流 児童の列襲う
河北新報ONLINE
津波襲来から約2時間後の大川小。2階建ての校舎は水没し、体育館は流失した=2011年3月11日午後5時35分ごろ(石巻市提供)
土煙が上がり、山鳴りのような音が響いた。
石巻市大川小の教職員と児童が校庭から徒歩で移動を始めて約1~2分。3月11日午後3時30分を過ぎていた。
当時5年の只野哲也さん(18)=高校3年=は、民家に挟まれた細い路地の先頭付近を走っていた。前にいた1年と6年の担任教諭2人をいつの間にか追い越していた。
目指す北上川の堤防道路(三角地帯、標高6~7メートル)に通じる県道はすぐ目の前。校庭から移動した距離はわずか180メートルほどだった。
突風が吹く。前方に見えた黒い水が最初は何なのか分からなかった。すさまじい勢いで迫ってくる。
津波だ-。
釜谷地区に立ち並ぶ民家を次々に破壊し、猛威を振るう。コバルトブルーの海や、なぎさに砕ける白波とは違う。大量の土砂や岩、木々、家々の残骸などあらゆる物体が交じる黒い塊だ。
「逃げなきゃ」
振り返った只野さんは、今来た路地を全力で駆け戻った。付近にいた高学年の児童がほぼ同時に反転する。幅1メートルほどの道に数十人が密集し、衝突は避けられない。
列の後方にいた低学年の児童は、大慌てで戻ってくる上級生の姿に戸惑っていた。腰を抜かし、立ち上がれない子もいた。
誰かを助ける余裕はなかった。「助かりたい」。只野さんは必死だった。
「津波だ」「やべえって」
言葉にしようとしたが、声にならなかった。足音が消えた。飛行機が耳元を通過しているかのようなごう音に包まれ、振動で恐怖が増殖する。
「山だ、山に逃げろ!」
男性教務主任(56)が叫んだ。列の最後尾から走ってきたとみられる。
助かった男子児童の1人は教務主任の声を聞いて逃げ、山に登ろうと2、3歩足を出した瞬間に津波にのまれた。震災後、同級生にそう話している。
濁流が勢いを増す。子どもたちが「ボンッ」と水の圧力で跳ねられていく。
只野さんは真っすぐ斜面を駆け上がった。木々がうっそうと茂り、傾斜がきつい。ほとんど壁だ。雪で足を取られ、地面に指を突っ込む。3~4メートル登り、左を振り向いた。校庭にまだ津波は来ていない。「助かる」。視線を戻した瞬間、全身を強く圧迫された。
一瞬、気を失った。黒い水が運んだ土砂に体が埋まった。気が付いたのは高さ10メートルほどの斜面。登ろうとした場所から10メートル以上流され、上方に5メートル以上押し上げられていた。
同級生の男子児童は偶然流れてきた冷蔵庫を舟の代わりにして助かった。只野さんを見つけ、右手で枝をつかみながら骨折した左手で掘り起こした。
2人で少し上がった。見渡す限り濁流が覆い尽くしていた。小学校と診療所だけを残し、生まれ育った町が消えていく。
午後3時36分40秒。
学校で見つかった3台の時計のうち、最初の針が止まった。電気系統が水没した時刻とみられる。他の2台は37分46秒と38分53秒で停止した。
河口から学校までの距離は約3.7キロ。河川堤防を越えた津波と陸上を遡(そ)上(じょう)してきた津波が、ほぼ同時に大川小を襲ったとみられる。海岸到達から10分前後だった。
当時、学校にいて生還したのは児童4人と教務主任のわずか5人。全校児童108人中、74人と教職員10人の未来が失われた。
◇
登校から下校までを学校管理下と言う。「行ってきます」から「ただいま」を言うまでの間だ。東日本大震災まで、学校は最も安全な場所だと信じられていた。第5部は大川小に巨大津波が襲来した瞬間と生還者が過ごした一夜を描く。(大川小事故取材班)
[大川小の津波事故]2011年3月11日午後2時46分、宮城県沖で起きたマグニチュード(M)9.0の東北地方太平洋沖地震による津波で、宮城県石巻市大川小(児童108人)の児童70人が死亡し、4人が今も行方不明。学校にいた教職員11人のうち、男性教務主任を除く10人も犠牲となった。当時校長は休暇で不在。学校は海抜1.1メートルで北上川河口から約3.7キロ離れ、市の津波ハザードマップで浸水予想区域外だった。地震発生から約50分後に第1波が到達し、最高水位は高さ約8.7メートルに達した。学校管理下で戦後最悪の事故とされる。
2018年03月06日火曜日
<止まった刻 検証・大川小事故>教職員 最終判断を誤る | 河北新報オンラインニュース
<止まった刻 検証・大川小事故>
判決が「避難させるべきだった」とした裏山。津波到達地点を示す看板までの距離は150メートル弱で、緩やかな傾斜が続く=石巻市釜谷
石巻市大川小を巡る訴訟で、仙台地裁は2016年10月、津波襲来直前の学校の判断が誤りだとして、被告の市と宮城県に損害賠償を命じる判決を下した。司法が津波を予見できたと認めた「襲来7分前」に何があったのか。3月11日の事実関係を基に教職員の行動と過失を検討する。
◎「津波襲来7分前」地裁判決から読み解く
地裁が最も重視したのは、遅くとも午後3時30分ごろまでに市河北総合支所の広報車が大川小前の県道を通過し、津波の襲来と高台避難を呼び掛けた事実だ。
沿岸の松林を抜ける津波を目撃した支所職員は、学校から直線距離で約150メートル先にある北上川の堤防道路(三角地帯、標高6~7メートル)に車を止め、その後も拡声器で避難を呼び掛け続けた。
支所職員だった山田英一さん(63)は「大声を出せ」と同僚に指示。法廷で「広報した内容は学校に伝わっていると思った」と証言した。男性教務主任(56)が保護者に宛てたファクスには「津波が来るという声がどこから(か)聞こえてきました」と記されており、学校の認識を決定づけるとともに原告勝訴の支えとなった。
地裁判決は刻々と増す「危険の現実味」に着目した。ラジオは石巻市沿岸を含む各地を襲う津波の状況を繰り返し伝え、「学校は過去より格段に大きい規模だと分かっていた」と指摘。広報車が呼び掛けた時点をもって「児童の命に現実の危険が迫っていると認識した」と判断した。
教職員は児童を約40分間校庭に待機させたが、ハザードマップで津波襲来が想定外だったことなどを理由に、午後3時30分より前の行動は妥当とした。
学校の時計3台は午後3時36、37、38分でそれぞれ止まっていた。地裁は平均を採り、「37分」に津波が襲来したと認定。教職員と児童は午後3時35分までに三角地帯へ歩いて移動を始め、途中で津波に襲われた。
判決は「7分間の時間的余裕があった。大規模な津波襲来を認識したにもかかわらず、次の逃げ場がない三角地帯に向かった」として、最終局面の判断を教職員の過失とした。
大川小には小走りで1分程度の所に裏山があり、児童たちは学習で何度も上っていた。現地視察した裁判官3人は実際に斜面を上り、「避難場所として支障はなかった」と結論づけた。
被告側は、裏山は震災当日、降雪で滑りやすく、余震で崩壊する恐れもあったと主張した。地裁は「多少の混乱をいとわずに児童らをせかし、小走りで移動させてでも早期避難を最優先にすべきだった」と指摘。児童の命を最優先にする姿勢を強調し、教職員に最善の判断と行動を求めた。
校庭には区長や民生委員、高齢者も避難し、避難場所を教頭と協議していたとされる。判決は「教員は児童の安全を最優先に考え、自らの判断で避難を決断すべきだった」とした。
教職員は地震発生直後から「裏山」を選択肢に挙げつつ、避難先に選ぶことはなかった。(1)なぜ行動が遅れたのか(2)最終的に誰がどのように移動先を決めたのか-など、今も未解明の部分は多い。
仙台高裁は4月26日に控訴審判決を言い渡す。市教委や学校の組織的責任が焦点。審理対象は「備え」に絞られ、地震発生後の事実認定は踏襲される見通し。
2018年03月06日火曜日
<止まった刻 検証・大川小事故>第5部 漆黒(2完)凍える一夜 悪夢か現実か | 河北新報オンラインニュース
<止まった刻 検証・大川小事故>第5部 漆黒(2完)凍える一夜 悪夢か現実か
裏山の竹やぶで震災当日の夜について語る只野さん。7年たつ今も周辺にはたき火の跡が残っている=1月20日、石巻市釜谷
「助けて、助けて」。石巻市大川小がある釜谷地区の女性(74)は消え入るような声を聞き、裏山の斜面で頭を抱えていた。3月11日の津波にのまれ、一命を取り留めたが、濁流が行く手を阻んでいた。
2~3メートル先の木に1年の女子児童がつかまり、激流に耐えていた。「つかまれ」。同じ釜谷の高橋和夫さん(70)が胸まで水に漬かり、小さな手を引き寄せた。高橋さんも間一髪助かったばかりだった。
当時5年の只野哲也さん(18)=高校3年=は、少し離れた裏山の斜面から海と化した北上川一帯をぼうぜんと眺めていた。わずかな時間、夕日が差し、北上川を照らした。只野さんは「三途(さんず)の川みたいだ」と思った。
「誰かいるか」。市河北総合支所の職員が、只野さんと同級生の男子児童を見つけた。堤防道路(三角地帯)側でぎりぎり助かった後、周囲を捜索していた。
支所職員が裏山で生存を確認したのは高橋さんら計16人で、小学生は只野さんら3人。男性教務主任(56)と当時3年の男子児童とは会わなかったという。うめき声を上げていた60代の男性は、夜明け前に息を引き取った。
水が引く気配はなかった。一行は竹やぶの斜面で比較的平たんな場所を探し、たき火を始めた。支所職員が持っていた使い捨てライターが役に立った。スギの葉や古倒木、枯れた竹などを燃やした。
山中で見つけたブルーシートで囲いを作り、降雪と風をしのいだ。ほぼ全員ずぶぬれだった。塩気を含む服は乾きが悪かった。
この夜の最低気温はマイナス1.4度。一晩中、毎秒5~7メートルの風が吹いていた。凍った枝がパキパキと音を立てる。只野さんの歯はミシンのようにガガガガと鳴った。
偶然、ビニールに包まれた布団が流れてきた。「少しでも暖を取った方がいい」と促され、児童らが交代でくるまった。
レジ袋に入った菓子も流れ着いた。津波襲来前、民生委員の50代女性が「子どもら、おなか空いてると思うから」と校庭に持ってきたものとみられる。ミカンやパンも漂着した。
子どもたちは泣きながら食べた。渇いた喉を雪で潤す。頭からパラパラと砂が落ちてきた。
津波は約1時間おきに真夜中まで押し寄せた。当時の支所職員及川利信さん(64)が記憶する。その度に海鳴りが聞こえ、車などの鉄くずがガチャガチャと音を立てた。
午後7時ごろに押し寄せた津波は、たき火近くまで迫った。一行はさらに上へ移動し、野宿を再開した。
只野さんがかぶっていた通学用のヘルメットは、ひびが入っていた。津波に襲われ、割れたとみられる。地震発生後に校庭を訪れ、いったん自宅に戻ろうとした母しろえさん=当時(41)=を心配し、渡そうとしたものだ。
「危ないから、かぶってなさい」。母の一言が只野さんを救った。この時の短いやりとりが母と子の最後の会話になった。
只野さんは竹やぶの斜面に寝転がり、ササの切れ間に広がる夜空を眺めていた。星は見えなかった。下の光景は見たくなかった。
「みんな死んじゃったの?」。漆黒の闇の中、寂しさと不安が募る。けがで充血した目が痛む。洗う水もない。
大人たちが「寝ると死ぬぞ」と注意したが、子どもたちは深い眠りに就いた。
「これは悪夢か。現実なのか」。たき火に枝や葉をくべながら、及川さんは一晩中考えていた。
2018年03月07日水曜日
<止まった刻 検証・大川小事故>上に、上に水中でもがく | 河北新報オンラインニュース
<止まった刻 検証・大川小事故>上に、上に水中でもがく
裏山から望む大川小。男性はコンクリートたたきを歩き、他の避難者と裏山で一夜を明かした=石巻市釜谷
東日本大震災で石巻市大川小は児童・教職員計84人が津波の犠牲となったが、周辺ではかろうじて助かった地域住民もいる。当時大川中1年だった男性(20)は大川小の裏山に避難する途中で大津波にのまれながら、奇跡的に一命を取り留めた。震災7年を前に当時の生々しい体験を語った。
◎裏山で一命取り留める 当時中学1年の男性の証言
3月11日は中学校の卒業式で、学校は午前中で終わった。午後から大川小がある釜谷地区の友人宅2階でゲームで遊んでいた。
午後2時46分、突然、激しい揺れに見舞われた。揺れが収まってから県道に出ると、電柱が折れそうな勢いで揺れていた。
隣家の塀は崩れ落ち、原形をとどめていなかった。「何が起きたの」。近所の人が顔を見合わせていた。
近くにある自宅に帰ると、食器棚が倒れ、部屋は物が散乱していた。余震が続き、いったん収まってはまた大きく揺れた。
「津波が来る、逃げろ!」
地震発生から約40分が過ぎた頃、一緒にいた父が発した。避難する住民の車が猛スピードで自宅前を通過していった。
自宅から最も近い高台が大川小の裏山だった。小学校時代、シイタケ栽培の学習で利用し、虫捕りをした場所だ。
裏山を目指し、駆け出した。両親は高齢の祖父に付き添い、やや後方を追い掛けてきた。田んぼ道と公園を通り、最短経路で向かった。
裏山まで約20メートル手前で急に体が持ち上げられた。まぶたの隙間から真っ黒い液体が見えた。
「これが津波か」
気付いた時には全身が水の中だった。背丈を優に越える津波が押し寄せたようだ。
上に、上にと、水中で40秒はもがいたか。斜面に打ち付けられ、首から上が水面に出た。塩辛く、泥のようなざらついた感じが舌に残る。津波を飲んでいた。
がれきがぶつかった頭と腕が痛む。目がひりひりしたが、そっと開けた。濁流が視界を埋め尽くし、家族は見つけられなかった。
震災の1年前、大川小を卒業した。全校児童は約100人。休日は校庭でエアガン戦争に興じ、所属する野球チームの部室に石を投げ、窓ガラスを割ってしまったこともある。やんちゃで楽しい思い出ばかりだ。
震災当時、6年担任だった男性教諭=当時(37)=は5年の時の担任だ。ちょっと説教が長いが、悪いことをしたらしっかり叱ってくれる先生だった。スポーツのクラブ活動で仲良くなり、熱血で好きだった。
小学校時代、避難訓練はいつも校庭まで。津波について学んだ記憶はない。誰も津波が来るとは思わず、とりあえず校庭に逃げれば大丈夫と考えていたのだと思う。
教職員や児童が最後に向かった場所は、北上川近くの堤防道路(三角地帯)だったと聞いた。児童全員を連れて行くには、裏山は危険だと考えたのだろうか。
2018年03月07日水曜日
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