秋山 豊寛氏はチェルノブイリの取材について語った。
「自分がチェルノブイリの取材を行って
放映できなかった部分があるのです。
ある場所にいったら、チェルノブイリの事故後、
死産の奇形児の 標本がずらっと並べられているのです。
日本人じゃとてもあんなことはできない。
あまりに残酷だったから、日本では放映しませんでした」
秋山豊寛氏はチェルノブイリの取材を通して、
直に、誰よりも 事故の悲惨さを知っていたのだ。
秋山 豊寛氏は予測する。
「命に影響することが解ったら、福島県民の怒りは爆発しますよ。」
★孫崎享氏の視点ー(2013/03/29)★ :本音言いまっせー!
http://blogs.yahoo.co.jp/hellotomhanks/63873443.html
投稿者 赤かぶ 日時 2013 年 3 月 29 日
秋山 豊寛氏「彼が何故福島から避難したか。奇形児の死産を見てきたからか?」 孫崎 享
秋山 豊寛氏はチェルノブイリの取材について語った。
「自分がチェルノブイリの取材を行って放映できなかった部分があるのです。
ある場所にいったら、チェルノブイリの事故後、
死産の奇形児の 標本がずらっと並べられているのです。
日本人じゃとてもあんなことはできない。
あまりに残酷だったから、日本では放映しませんでした」
秋山豊寛氏はチェルノブイリの取材を通して、
直に、誰よりも 事故の悲惨さを知っていたのだ。
日本人初の宇宙飛行士秋山 豊寛氏は、1995年にTBSを退社し退職した。
ウィキペヂアは「次第に会社での居場所がなくなって
いったことを退社した理由の1つに挙げている」と記述している。
敏腕ジャーナリストであっただけに、現場で活躍し続けたかったのであろう。
しかし、日本ではフリーのジャーナリストが活動できる場はほとんどない。
発言の場を持つにはしっかりとした財政的基盤を確立する必要がある。
1995年からは福島県に移住し、農業に従事した。 ここに原発事故が起こる。
毎日JPは次のように記述している。
「福島・滝根に移り住み、自給自足を目指して有機農業を始めた。
滝根では阿武隈山地の標高約600メートルの
山里に1ヘクタール の土地を購入。
シイタケの原木栽培をはじめ、コメや野菜づくりに 取り組んでいた。
そのさなかの東日本大震災だった。
原発から自宅までは約32キロ。
震災翌日には、近くの体育館に、
第1原発がある大熊町の住民が避難してきた。
テレビは「空中からセシウム検出」と報じ、 屋外に出ると、
以前から持っていた放射線警報器が鳴り始めた。
身の危険を感じた秋山さんは、郡山市の宿泊施設に避難、
事故が長期化するのを見越して、鬼石町の知人宅に身を寄せた。」
またブログ「みんな楽しくHappy?がいい♪」には
インタビューを次のように記述している。
「私も一応チェルノブイリとかスリーマイルとかの取材をしてますから、
それぞれ5年後だった訳ですけれども、
84年のスリーマイルですか、 5周年ね。
それからチェルノブイリ5周年が1991年の4月と やっていますから、
事故が起こったらどういう事が展開するか?っていうのは
大体基礎情報として持っていましたんでね、
空中からセシウムが検出されたっていうことは
炉心がやられないと出っこないはずなんですね」
何故急に避難したか、
危険をどのように判断していたかについては明確でない。
毎日放送ラジオ番組の打ち上げの後、
私は秋山 豊寛氏の隣に座り、 氏の話に耳を傾けた。
ここで、答えを見つけたと思った。
秋山 豊寛氏はチェルノブイリの取材について語った。
「自分がチェルノブイリの取材を行って
放映できなかった部分があるのです。
ある場所にいったら、チェルノブイリの事故後、
死産の奇形児の 標本がずらっと並べられているのです。
日本人じゃとてもあんなことはできない。
あまりに残酷だったから、日本では放映しませんでした」
秋山豊寛氏はチェルノブイリの取材を通して、
直に、誰よりも 事故の悲惨さを知っていたのだ。
秋山 豊寛氏は予測する。
「命に影響することが解ったら、福島県民の怒りは爆発しますよ。」
投稿者 赤かぶ 日時 2013 年 3 月 29 日
阿修羅ブログより
http://www.asyura2.com/13/genpatu30/msg/894.html